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密着状態で支えていたのはいいが、途中からリヒターは自身の足で歩き始めてくれた。どうやら女性であるアンジュに支えられっぱなしというのは嫌なのだとか。しかしその旨を告げたリヒターの顔色は薄らではあるが紅く染まっていたので、恐らくは支えられるのが嫌なのではなく、純粋に恥ずかしかったのだろう。意外と初心な男だ、とはアンジュに前世の記憶があるから思うことなのだろうか。―――いや、もとの性格が大きいだろう。それに最近では彼女が前世を、ゲームのことを思い出すことは少なくなっている。
「こんなに密着しても照れないのか……」
考え事をしていれば、ぼそりそんな声が聞こえてきたがアンジュはさらりと聞き流す。女性なのだからなどという声は聞こえてこなかったが、貴族としてどうなんだという表情を見せられてしまった。
しかし彼は忘れているようだが、アンジュの元の職業は騎士である。人命救助でいちいち照れていては仕事にならないだろう。まぁアンジュはそのような仕事に就いたことはないが。
華美になりすぎず、それでいて荒くれものが集まるギルドとは思えないほど整えられた応接室。大貴族の令嬢であったアンジュから見ても決して粗末とは言えないソファにリヒターを座らせると、「お茶を持ってくるわね」とその場を離れようとした。だがその前にユラがアンジュを手で制す。ここは自分がやるから、そう言いたげな瞳で見つめられてしまっては、アンジュにはどうすることもできない。黙って頷けば、満足気な表情を浮かべてユラは応接室を後にした。
そうなってしまってはほかにやることがなくなってしまった。だがこのまま仕事に戻るというわけにもいかないような気がする。そもそもお茶の準備をユラが買って出たのは、自分をこの場に留めるためというのが大きいだろう。
数瞬悩んだ末に、アンジュはリヒターからみて正面に位置するソファへ腰かけた。
話し掛けるべきか否か。悩んだ末、アンジュは『話しかけてかえってきた答えが疲れた気のものならばそこで会話を止めよう』という考えに至った。
「このあとも護衛に向わなければならないの?」
仕事で尋ねているのではないということを強調すべく、砕けた口調を心がける。
リヒターは緩慢な動作で顔をあげると、「父親との会食があるらしい」と簡潔に答えた。なるほどと頷きながらも、あまり答えになっていないような気がしてならない。結局どちらなのかと尋ねるべきか、それとも口を噤むべきか否か考えあぐねていれば、リヒターは姿勢を正し再び口を開いた。
「一緒にどうだと誘われたから逃げてきたんだ」
声に普段のような張りはなかったが、会話を続けられないほど疲れているようには見えない。これならば会話を続けても問題にならないだろうと判断がついた。
「流石にそんなところにまで付き合っていられるほど、俺の神経は強くないからな……」
「それは……お疲れさま」
「本当に、憑かれた……」
なんだろう。アンジュの言葉とは微妙にニュアンスが違うように聞こえたが、それはあえて黙殺した。いちいち確認するのはなんだか悪いし、実際本当に疲れているようなものだろう。
リヒターからの報告書はあんなものではあったが、本題であるシシリア嬢については、それはまぁ細かく、細かすぎるほどに書かれていた。一度読めば彼女の人柄がよくわかるというものだ。
シシリア・ベルデ・コルピッツ。そう名乗る彼女は、初対面の時点ですでに分かっていたことだが、非常に子供のようなにんげんだ。傍若無人といえばいいのだろうか。一言『我儘』といってしまっても差し支えはないかもしれない。
リヒターが護衛として彼女に張り付いていた時間中何をしていたのかというと、レディレイクでいろいろな買い物をしていたらしい。嬢より、自分に似合うドレスや宝石はどれか聞かれて困ったと報告書に書いてあった。分からないといったり、無難なものを選んでにげたとのことだったが、私の時はちゃんと選んでくれたのにと思ってしまうのはいけないことだろうか。―――意味が分かるだけに、なんだかこそばゆい。
そしてどんな報告書の内容であっても共通しているのが、彼女が非常にリヒターへ想いを抱いており、リヒター自身はその想いに応える気はないということ。
それくらいわかっているから報告書には書かないでくれ。そういってしまいたい衝動に駆られながらも、それを言ってしまっては彼が調子に乗ることがありありとわかるため、行動に移せない。
なんだかなぁ、とアンジュはそっとリヒターの表情を盗み見た。
アンジュが考えに耽っている間にユラが持ってきてくれた紅茶を疲れた気に、それでいて優雅に飲む姿はなかなか様になっている。
――ちなみに、ユラが紅茶を持ってきたとき、これで自分の役目は終わりだろうと席を立とうとしたところ、彼女に目で制されてしまった。仕事が、という思いは彼女の無邪気な「ルイーシャさんと頑張るね!」という声にかき消され、どうすることもできずそのままソファに座り続けていたのだった。――
彼が、自分を想ってくれるのは痛いほどわかる。わかる。だがその想いにじぶんはまだ答えることが出来ない。
―――それに、彼はどうして私をこんなにも想ってくれるのだろうか。
首をゆるゆると横に振り、そんな考えを頭から追い出す。
考えたってしかたのないこと。どうせ恋愛事はよくわからないのだから。前世の記憶があったところで、経験は己だけのものでしかないうえ、偏りのある記憶を参考にすることはできない。
「アンジュ……?」
黙りこくった自分を心配し、声をかけてくれたらしい。最近こういうことが多いわね。治すべきだろうなと肩を竦めた。
「本当に、お疲れさま」
何度目になるか分からない労いのことばをリヒターに投げかければ、彼は少し驚いた表情を見せながらも、柔らかく微笑み「ありがとう」と返した。
直後、
「誰かさんは報告書を読んでいるのかどうか分からないけど、状況は分かってくれているらしいな」
悪戯が成功した子供のような笑みでそういいのけたリヒターに、アンジュの表情はぴしりと固まってしまった。「えぇっ、と……」戸惑いをあらわにすれば、リヒターは天真爛漫に笑って見せた。どことなくその笑みがユラのように見え、二人の長い付き合いが分かってしまった。なにかがつっかえるような感覚に陥りながらも、アンジュは彼の言葉が自分をからかうためのものだったと気付き、はぁと脱力してしまった。
「もう少し頑張れそうだ。ありがとうな」
「…………、ごめんなさい」
報告書のことばかりに思考がシフトしてしまっていたが、彼がこんなにも疲れてしまう原因を作ったのはアンジュだ。正確にはアンジュと首領が、ではあるが、リヒターにお願いをすると決めたのはアンジュであるため、素直な謝罪の言葉を口にした。
だがリヒターは黙って首を横に振る。
「事情があって、それには俺が適任だった。そうなんだろう?」
今度は、アンジュが首を縦に振った。
「俺はな、アンジュに認められたきがして、嬉しかったんだ。王都でのことは、俺が勝手にやったことも多かったからな」
「それは……」
「だから、ごめんでなく、頑張れっていってくれないか? どんな形であれ、俺は君の想いにこたえたいんだ」
アンジュの言葉を遮るように告げられた言葉は、想いの意味こそ違えど、アンジュの考えていることと全くの逆のことであった。それに気まずさを覚えながらも、アンジュはその気まずさを追い払うように、
「頑張れ」
とこぼれるような笑みを顔に浮かべた。




