32
翌日、侍女たちに指示を出しながらアンジュはレディレイクに持ち帰る荷物の整理を始めていた。とはいっても大貴族の令嬢の荷物にしてはそれは恐ろしいほどに少なく、侍女たちが「あぁ、お嬢様……!」「なんだって……っ」と嘆く声が聞こえる。しかしアンジュはそんな声よりもずっと気になることがあり、指示すらも非常に曖昧なものとなっているため、性格にはアンジェリーナの従者であった男が指示をだしている。時折彼はアンジュに何かを言いたげな視線を向けては、それを途中で留める、ということを繰り返していたが、アンジュはまったくそれに気付く気配をみせない。溜息を洩らしそうにもなるがそこは歴史あるオルフィーユ家の使用人。口を開く侍女を叱咤し、自分もまた仕事に戻るのであった。
「ねぇ、イース」
「なんでしょうお嬢様」
元従者、現在は若手筆頭執事となっているらしい彼は、アンジュには視線をやらず、彼女のため紅茶を淹れてやる。
それらをついと見つめ、アンジュは行儀悪くもテーブルに片肘をつき、その手を頬にあてる。
「私がやったことは、正しかったのかな?」
イースは驚き目を見開くも、紅茶を零すことなくカップに注ぐ。
何時なんどきも、自身をもってすべてをなし、行いを、失敗を後悔しても、それを間違いであったなどということのなかった主。失敗と間違いは別物で、彼女は自分の行いを決して間違いだといったことはない。そんなことをいってしまっては、その行いに巻き込まれた人々に合わせる顔がないからと、絶対に、自分の行いを正しいと信じてやまなかったアンジェリーナ。そんな彼女を、ある者は傲慢だという。イースも、そう考えてしまうことがないとは言えない。それでも。
「貴女は、貴女の信じる道を進めばいいのだと思います。それこそが、俺の信じるお嬢様ですから」
久方ぶりに、するりと昔の一人称が口からこぼれた。
アンジュはそれに気付いたのか、はたまたその前の言葉に対してなのか、「ありがとう」とふわり目を細めた。
その日の残りはパーティで迷惑をかけた方々への謝罪に費やし、パーティの翌々日。アンジュはレディレイクへ帰還すべく、自室で最後の支度をしていた。向こうへ戻っても違和感のない服を身に着け、化粧を自身の手で施す。
令嬢アンジェリーナとは、また暫くお別れね。そんなことを考えながらも、アンジュの心は晴れやかで、家族のもとにいることは嬉しいがそれ以上にレディレイクで過ごすことが幸せだと、そう物語っているようである。
化粧を終えたところで、部屋の扉をノックする音が響く。リヒターとユラの支度ができたのだろうか、と入室の許可を与えると、そこにはなんとも申し訳なさそうな表情を見せるイースの姿が。
「なにかあったの?」
立ち上がりそう尋ねる。
イースは尚も困惑した表情のまま、
「実は…………」
となんとも言い辛そうに口を開いた。
平民のような格好でアンジュが客間へ入ると、そこにいた男が息を飲むのがわかった。流石にそれは失礼じゃなくって? と眉を潜めれば、男は、アンジェリーナの元婚約者は、はっとしたように立ち上がり一礼した。礼儀としてアンジュも淑女の礼をとると、ソファに腰掛け男にも座るよう告げた。
「それで。何のようでいらしたのかしら? 貴方だって暇ではないでしょう」
ついつい皮肉混じりの言葉になってしまった。そんなつもりはないんだけどな、と思うも、この男に皮肉しか言えないというのがまごうことなきアンジュの本音であるため、内心深くため息を漏らす。
「貴女に、謝りたいと思って」
「何に対して? 一昨日のパーティーの件? それとも四年前のこと?」
「…………どちらも、だ」
苦しそうに、絞り出したような声で言う男は、どうにもやはり昔のあの男には見えない。
どうしたものか。
令嬢らしくはないが、足を組み、その上で頬杖をつくと、
「なんのために?」
尋ねた声は冷え冷えとしており、男の肩が跳ね上がった。
―――ああもう違う、そうじゃない、そうじゃないでしょう。
自分の意思とは裏腹に男に冷たい態度を取ってしまうことに苛立ち顔をしかめれば、男はそれすらも自分に対してと思ったようで、いっそう身を縮こめる。
それをみた瞬間、アンジュのなかでなにかがぷつんと音をたて、切れた。
「やめた」
「…………は?」
「一度仕切り直しましょう」
そう言うなり、応接間から出ていくアンジュ。
これには男も呆気にとられ、追いかけるべきか否か半分腰をあげた状態で情けなくも悩む。
だが、その悩みはすぐに収まる。
アンジュがバン!と勢いよく扉を開き再び応接間に入室したのだった。扉の外には、彼女の執事が男同様呆気にとられた様子で目を丸くしている。
扉をそのままにアンジュはソファまで来ると、
「今の私はアンジュ。アンジェリーナでなく、アンジュよ。この体には高貴なオルフィーユの血が流れている。けれど、やっていること、生活、それらはすべて平民のそれ。はじめは貴方に裏切られたことに腹を立て、レディレイクへ行った。それ以外にも理由はあるけど、でもそれも理由のひとつだから」
そこで一度言葉を切ると、真っ直ぐ男を見据える。その瞳には憎悪も愛も、なにも浮かばない。
「けど! 今は貴方のせいだなんておもっていないし、貴方のお陰で出会えた人たちも多くいるって考えられる。自信をもって幸せだと言える。だから、いつまでも縛られないで。過去は過去よ。それを踏まえて、貴方だってきっと成長した。だからそんなに苦しんでいるのでしょう」
アンジュの言葉に、男は唇を震わせる。
だって、自分は、あんなにも、この女性を傷つけた。今幸せだからって、そんな許されることではない。
言葉にしたくとも、息が漏れるだけで音にならない。
男のそんな様子をアンジュは一別すると、再び言葉を紡ぐ。
「そもそも、あれは貴方一人のせいじゃない。あの女が悪いというわけじゃあなく、あれは、私も悪かったのよ」
「な、にをいっているんだ。君は被害者で」
「被害者面していただけよ。やれたことはたくさんあったはずだもの。やるべにことは、たくさんあったはずだもの。なのに貴方一人に責任を押し付けて、自分勝手にも私は逃げた。……きちんと、すべてを終えてから行くべきだったのよ」
乙女ゲームの世界だから
ライバル令嬢だから
それだけで、全てを諦めアンジュは男の前から姿を消した。
男に裏切られた事実は変わらない。それでも、逃げずにきちんと全てに決着を着けてから王都から、男の元から離れれば、きっとこのひとはこんなにもくるしむことはなかった。
ひどく独りよがりな考え。きっと他人からみたら傲慢に見えることだろう。
それでも、『今の』私はそれが正しいと信じている。
イースのいった通り、私はそれを信じて進もうと思う。
「…………そう、か。そうか」
男は天井を仰ぎ見る。その姿はこぼれそうになるなにかをこらえているように見えた。
「オルフィーユ家の令嬢との婚約を、自分勝手に破棄する。はじめはその事がどれだけ不味いことなのか気付き焦った。だが、それ以上に、自分のしでかしたことが君という一人の女性を傷つけたということだとわかって、どうしてもレジーナを愛せなくなった。愛していいのか、わからなくなってしまった」
自嘲するようにわらうと、顔を覆い深く息を吐く。
「恋に溺れず、客観的にレジーナと共にしてきたことを考えて、血の気が引いたよ。俺は、貴族としても、人としても、やってはならないことをした。なのに、貴族だからということで裁かれることはない。精々跡継ぎが変更になったぐらいだ」
精々、などと男は言うが、跡継ぎの変更はそんな言い方をできるほど些細なことではない。
男は、もっと大々的に罰せられることを望んだのだろう。だが、それこそ、精々婚約を自身の意思のみで破棄した程度でそれ以上罰することなどできないだろう。
「……すぐにでも君のもとへ謝罪に行きたかった。だがそれは自己満足でしかないのかもしれないと考えたら、足が動かなかった」
「たしかに、きっと貴方がきたところで叩き返したでしょうね」
ずっと黙っていたアンジュは、その言葉にそっと口を開く。
下手をすれば、男を自らの得物で、傷つけていただろう。そうしたら、取り返しのつかないことになっていただろう。
「あぁ……だから、せめて君のような人をこれ以上出さないようにとレジーナの傍にいたんだが…………」
そこで言葉を濁す。それこそが男のレジーナに対する想いなのだろう。
あれだけ情熱的に愛していたというのに、冷静になってみれば、とはね。
仕方のないことなのかもしれない。出会ったばかりの男は、思慮深く周囲への気遣いを忘れぬやさしいひとだった。
優しすぎたんだろう。それがいつしか重荷となり、潰れかけたところでヒロインの手が差し伸べられた。ゲーム中のストーリーを詳しく覚えているアンジュではなかったが、男がレジーナの存在によって救われたのは事実。
ゲーム中のレジーナは、あたりまえといえばそうだが、あのように男漁りをするような人間ではなかった。心優しく、凍った心をも溶かす、天女のような娘。それがどうなってこのようなことになってしまったのだろうか。
考えることを一度そこでやめる。それ以上はただのアンジュの想像でしかないし、今は目の前の男についてだ。
「きっと、若さが生んだ過ちだったのよ。もちろん今だってまだまだ若い。それでも、四年前、私たちはまだ学生でしかなかった」
「だから、しかたないことだと?」
「そんなことは言わないわ。だけど、これから間違えなければいいんじゃないかしら」
我ながら綺麗事をよくいうものだ。
しかし男は、綺麗事をそうと思わず、真っ直ぐにアンジュの言葉を受け止めたようで、彼女から視線をそらすことなく、首を縦に一度振った。
これ以上、男と話すことはない。
アンジュはそう判断すると、仕切り直してからは一度もソファに腰掛けることなく、その場を立ち去ることにした。
男はそれにたいしてなにも言わない。ただ静かに頭を下げ、アンジュを見送るのだった。
道は違えた。これからは、交わることないそれぞれの道を歩むだけだ。
―――貴方の隣で生きてみるのも悪くなかったでしょうね
叶うことなかった昔の夢は、儚く散る。




