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お久しぶりです。
アンジュの言葉に分が悪いと思ったのか、取り巻きの一人がリヒターに直接謝るように告げた。そんなことをする前にこの場から立ち去れば早いのに、とアンジュは思ったが、次に男の放った言葉に呆れを通り越し疲れを感じた。
「礼儀のなっていない庶民が彼女に何かを言えるわけがないだろう」
同じ言葉をそっくりそのままその女に言ってやりたいわね、とアンジュは思いながらも、それを言えば彼らと同じ土俵に立つようなもの――既に立っている気もするが――なのでそれを口に出さず、代わりに一言。
「この私が、アンジェリーナ・リンクス・オルフィーユが、ただの庶民をエスコートに選ぶと思っていて?」
予想でしかないリヒターの身分。彼に確認を取っていないうえ、それが本当であれば非常にまずいこととなる。だが、そうではしなければリヒターひとりが責められることになり兼ねない。彼ならばうまくやり過ごすだろうし、それ以前にもっと別の方法で彼を庇うこともできた。
にもかかわらずこのようなやり方をしたのは、心の奥で、リヒター自身にどちらなのか尋ねたくなってしまったため。
高飛車に――ライバル令嬢のはずが本当に悪役令嬢のような雰囲気になってしまっている――言葉を放った後、絡ませたままの腕に力を籠めればふっとリヒターが息を吐くのがわかった。
「その通りだな。お前たちは、彼女がオルフィーユ家の令嬢であることを、忘れてはいないか?」
彼が認めたのは『ただの庶民』でないということ。もしかしたら変わった傭兵であるからと頷いただけなのかもしれないが、アンジュはそうとは考えず、ずっと考えていた彼の身分が本当なのかもしれない、と考えるのだった。
別の取り巻きが、お前のような貴族を見たことないとリヒターに向かって叫んだ。見っとも無い、と男から目を逸らせば、リヒターが
「なぜ礼儀知らずに私の身分を名乗らなくてはならない? 彼女にだってまだ自分の口からは言っていないのだが」
と毒を吐いた。どうやらここから先はリヒターがすべてをやってくれるらしい。ならば任せることにしよう、とアンジュが自分より高い位置にある彼の顔を見上げていれば、どこからか
「『氷の町』は封印したんだけどなぁ」
という呟きが聞こえた。言わずもがなそれはユラの呟き。冷たく張りつめた空気からくる発言とは分かったが、いったい今までどこに行っていたのだろうか。リヒターと二人、声の聞こえたほうを向けば、いつもの――どこか胡散臭さを覚える――笑みを浮かべたアシェルと腕を組み、後ろにアンジュの元婚約者を連れたユラの姿があった。アシェルとともにいるだろうとは思っていたが、なぜあの男までも一緒にいるのだろうかと疑問に思っていれば、ユラが近づいてきてこそこそと「なんかいるから連れてきちゃった」と語尾にハートマークが付きそうな勢いで告げた。実に可愛らしいがアシェルの笑み同様に胡散臭さも感じてしまう。
まあそんな男は放っておいていいか、とアンジュとリヒターは同じことを考えレジーナとその取り巻きの方へ向きなおれば、取り巻きたちに隠れているためよくは見えなかったが、レジーナが大きく体を震わせているようだった。直後彼女は「し、失礼致しますわ!」と震えた声で叫ぶと足早に会場から立ち去る。取り巻きはそれを追いみっともなくバタバタと駆け出した。おそらくレジーナを追うためだけでなく、この空気に耐えられなくなったということも彼らが会場をでた一因だろう。肩を竦め「みっともないったらありゃしないわ」と鼻をならせば、諦めてしまいたくなるほどアンジュは悪役令嬢らしくおもえた。実際あきらめるべきなのだろう。自分はライバル令嬢よりも悪役の方があっている、と。ただそれは彼女が思っているだけで、周りの人間からしたらアンジュよりも彼女に手を出そうとしたレジーナを『悪役』と称するだろうが。
だがいつまでもそんなやっているアンジュではなかった。ドレスの裾を翻し姉夫婦の方へ向くと、髪が崩れそうになるのも気にせずスッと頭を下げた。
「このような場で見っとも無いふるまいをして申し訳ありませんでした」
主催が身内であるといえ、アンジュの振る舞いも見っとも無いと言われてしまうもので在ったことは否定できない。こうやって謝罪することだってあまりほめられたものではないだろう。だがアンジュはそれを気にせず、全ては自分の責任である、と暗に告げ頭を垂れる。次いでギャラリーと化していた招待客にも同じ言葉を告げれば、何とも言えぬ表情で皆がアンジュから顔を逸らす。今更になって野次馬のような真似をしたことを恥じているのだろうか。呆れたようにそんな野次馬を見る元同僚たちに懐かしさを感じながら、この距離にほんの少しばかり寂しさを覚えた。先程は気にならなかったのに、と思うのはおそらく自分が冷静でなかったから。気持ちが落ち着いてしまうと、考えたくなかったことまで考えてしまう。必死に笑みを作り顔を上げれば二人とも心配そうな面持ちでこちらを見つめていた。だが、その表情はすぐに驚愕の色に染まる。特殊部隊の隊員が――しかも方や隊長である――感情をあっさりと表すのはいかがなものかと思いつつ、近すぎると言いたくなるほど自分の隣にぴったりと着いた男にアンジュも驚愕を隠せなかった。
「責任はすべて、私にあります。あまり彼女を責めないでいただけますでしょうか」
自分をエスコートしてくれるリヒターではない男。アンジュの、アンジェリーナの元婚約者が、先程の彼女同様頭を下げていた。あの、傲慢な男が、子供のような男が、頭を下げている。正直、自分に対し謝った時はそういうフリをしているだけなのだと思っていた。なのに、こんな大勢の前で……。
これじゃあ本当に男は変わったと思わざるを得ないではないか。そんな、そんなのって。
戦くアンジュを優しげな目で見つめる元婚約者。しっかりしろと自信に暗示をかけるように奥歯を噛みしめるも、体は正直なものでむき出しの肩が小さく震えた。その震えが、突如おさまった。正確には大きな掌で抑えられた、というべきだろうか。はっとその手の持ち主を見れば、彼は目で頷いて見せる。あとは自分にまかせろと、言うかのごとく。
「彼女は私のパートナーなので、そのような視線を向けるのは遠慮願えないだろうか?」
リヒターの鋭い視線が男を射抜く。折角謝罪したのにこれでは招待客も落ち着かぬことだろう。本当に、姉夫婦には謝っても謝りきれない。しかしそんな思考も、リヒターの言葉で打ち消された。
「君は、彼女の元婚約者、だったな」
「そ、それがどうかしたのか?」
リヒターの強い視線か、はたまた『元』という単語に傷付いたのか。後者だとしたらアンジュは笑って一蹴してやるつもりだ。貴方が原因じゃない、と。
正直どちらでも構わないので、アンジュは隣のリヒターの顔をそっと見つめ、彼が続きの言葉を紡ぐのを待つ。
「なに、礼を言いたかっただけだ。ずっという機会を欲していてな。君が婚約を破棄してくれたおかげで、今の彼女があるのだろう。本当に、実にうれしく思っている」
いったい、どういう意味なのだろうか。アンジュが戸惑っていれば、同様に目の前の男も訝しげな視線をリヒターに向けた。だが彼はそんなことを気にしない。自分を見つめるアンジュに目を合わせると、
「婚約者に縛られた君を、悔しく思っていたんだ」
真剣な表情でそういいのける。演技だと、恋人の振りをしているのだから、演技だと思いたかった。なのにそう思わせてくれない真剣さがリヒターにはあり、アンジュは困惑のあまりリヒターから目を逸らしてしまった。周りはどうやらそれをアンジュの照れだと勘違いしたが、そこまで頭のまわらないアンジュは気付かない。
だが、男がそんな二人を見ていられないと言わんばかりに顔を歪め、「失礼、致します」と苦しげに告げたことだけはアンジュの耳に届いた。
その言葉をきっかけに、ギャラリーが一人、二人と散っていく。ゆっくりと再開を見せたパーティに、アンジュは遂に大きなため息を漏らしてしまった。ユラが心配そうにこちらへと向かってくる。だがそれに対し首を振り、アンジュはリヒターに「静かなところで休憩させて」と耳打ちをする。彼はそれに頷くと、流れるような動作でアンジュをエスコートし人気のないテラスへ出た。きっとまだパーティは続く。抜け出してしまいたいという想いと、オルフィーユの人間として、ジュリエッタの妹としてまだパーティに残りたいという想いが拮抗し、どうすればよいのか分からなくなった。
ならば、今できることだけでも片付けてしまおう。
疲労を顔ににじませながらもリヒターをまっすぐに見据える。彼はアンジュが何かを言いたい、ということに気付いてくれたようで、柔らかく笑みを浮かべ彼女の言葉を待ってくれた。
意を決して、アンジュは口を開こうとし、…………やめた。今ならばリヒターはそれこそ『全て』を教えてくれるだろう。だが、いい加減にアンジュの脳はキャパを超えてしまっている。
だったら別のことにしよう。どうかたのかと言いたげな表情をみせるリヒターに、アンジュは冗談めかした口調で言葉を紡ぐ。
「思わず本気にしてしまいそうな勢いだったわ」
「別に本気にしてもいいぞ」
「…………冗談が、お上手なんですね」
最近ではリヒターに対し敬語を使わぬことに慣れてきていたアンジュだったが、最後の言葉だけは普段通りとはいかなかった。そうやって偽らなければ、言葉を返せなかった。これじゃあ藪蛇じゃないかと、彼の言葉に呆気にとられてしまった。
―――まさか本気だったなんて思うわけないじゃない! いやそんな気はしていたけれど! でも、でも!
脳がキャパオーバーを起こしてしまったアンジュは目を瞑る。もう、どうにでもなれ。
最後の言葉は私の想いも込められている。




