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「頼みがあるんだ」
とはアンジュの支度もリヒターの支度も終わり、いざ会場に向かおうと部屋を出た直後リヒターの言葉。
いつになく真剣な表情の彼に少し戸惑いながらも、「なあに?」と言葉を返せば、ふわりと銀の髪が揺れた。肩にかかった髪をさっと払い、真剣な彼に倣ってアンジュもまた表情を引き締めれば、意を決したようにリヒターは口を開く。
「お前をエスコートする代わりに、全て俺の好きにさせてくれないか?」
何を言い出すかと思えば。
その言葉に、アンジュは呆れたように肩を竦め笑い出した。リヒターはそんな彼女の様子に驚いたようで「な、なんだ?」と尋ね慌てる。珍しい彼の様子に、ようやく一本とってやったわ、と満足げな表情を浮かべると、くすくすと笑いながら彼に言葉を返す。
「何を今更、って思っただけ。貴方の選んだドレスに貴方の選んだ宝飾品。貴方の好きにさせていなきゃ、これらすべて身に纏っていないわ」
それを聞きリヒターは安堵のため息を漏らすと「突然笑い出すから何事かと思った」とアンジュの肩を抱き寄せた。意外とスキンシップの多い人よね、と一つ一つ彼のことを確認しながら「失礼な人ね」と肩にかかる彼の手に自分の手を添えた。
会場へ入ると、既に姉夫婦を祝わんと多くの来客で溢れかえっていた。
数年ぶりの社交場に緊張のあまりアンジュの表情がキリりと引き締まったが、会場に入る際肩を抱くのではなく腕を組んでいたリヒターが彼女の手をぎゅっと握り「大丈夫だ」と囁いた。
ただの傭兵と言っているくせにずいぶんとパーティ慣れしたことで、と落ち着き払った彼の様子に対する呆れのほうが緊張を上回り、どうにか落ち着けたので一応は感謝をする。
小さく息を吸うと、オルフィーユの令嬢らしい笑みを浮かべた。
そんな仲睦まじい二人の様子に、ほっと安堵のため息を吐くものがちらほらといるのたが、生憎アンジュはそれに気付かない。もちろん自分に向けられる視線があることには気付いているが、アンジュはその視線の元の感情に気付かなかった。鈍感というなかれ。普段の彼女であればすぐに気付いただろうが、落ち着いたとはいえ久々の社交場に、そのような場での感覚が戻っていないのである。
彼らは皆一様に、ずっと社交場から離れていた令嬢が素敵な相手を伴ってこの場にいることを喜び、ほほえましく二人を見つめていた。
ほんの一部、アンジュの隣に立つ見目麗しいリヒターに嫉妬の視線を向けるものや、逆にリヒターを伴って現れたアンジュに嫉妬するものもいたが、それすらもアンジュは気付かない。
だが彼らはどうやら二人を見るだけでは満足できなかったようで、主催側であるアンジュに挨拶をしようと、それから形としてはそのついでに、二人の関係について尋ねた。
リヒターの好きにすることを了承したとはいえ、ただの傭兵である彼に受け答えをさせるわけにはいかない、と思いアンジュが彼らの挨拶と、それからそのついでらしい疑問に答えていたのだが、本心から自分とリヒターの関係を祝福してくれているような客人にほんの少しばかり心が痛んだ。だがそれを微塵も感じさせず、アンジュは微笑む。
アンジュたちよりも少し遅れ、金の髪を揺らし同じ色のドレスを身に纏ったユラがアシェルによるエスコートのもと会場に入った。一つ一つの動作は洗練されており、この子も本当にただの傭兵には見えないわ、とリヒターの腕をぎゅっと掴んだ。質の良い生地に皺がよってしまったが、リヒターはそれを気にすることなく「相変わらず目立つな」と呆れ混じりに呟いた。それはアンジュに向けられた言葉ではなかったが、聞こえてしまったんだものと開き直りがちに「本当ね」と言葉を返した。
「女誑しのパートナーであることも相まって本当に、目立つわね」
毎回違うパートナーを伴って現れるアシェルに、今回はどのような相手をつれているのかと興味津々な視線が刺さり、そのパートナーというのが類稀な美少女であったために、会場の視線は全て二人に持っていかれた。
目立ちたい、注目されたい、という願望はアンジュのなかになかったが、それでも先程まではあれほど自分とリヒターに注目していた客人の視線を全て持っていかれては、なんとも言い難い感情が渦巻くのも仕方のないこと。どうしようかしらなんて悩んでいると、そんな悩みなど知らぬと言わんばかりの満面の笑みのユラと、普段通り本心を窺い辛い表情を浮かべたアシェルがこちらへ歩み寄ってきた。それと同時に戻ってくる視線にこれまたなんとも言い難い感情。
「遅くなっちゃってごめんね」
「気にしないで。あのあと、残ってくれたのだから。……何も、なかったわよね?」
「大丈夫! アンジュちゃんが気にするようなことは、何もなかったから」
それは暗に何かあったと告げているようなものだったが、にこにこと笑うユラはそれについて答える気はないようなので口をつぐむ。リヒターと同じで、彼女もまた言う必要のないことは絶対口にしたりなどしないから。
そんな二人の様子を黙ってみていたアシェルだったが、二人の会話が途絶えたタイミングを確認し、優雅に一礼した。
「この度はおめでとうございます」
「ありがとう。あとで姉にも言ってあげてちょうだい。きっと喜ぶわ」
「えぇ、そうさせていただきます。…………ところで、貴女の方はなにも問題はありませんでしたか?」
あの女のことを心配して、だろう。そう尋ねたアシェルの瞳は少し不安げに揺れていた。よく言い争うだけあってアシェルはアンジュの本当に弱いところをわかっている。レディレイクに来たアンジュが、どういう感情で王都を出たのか一番に気付いたのは、両親でも姉弟でも兄弟子でもなく、アシェルだった。
ユラと、それから女たちと別れ、執事から聞かされたのはあの女が騒ぎを起こした理由。なんでも、式よりも前に姉に祝いの言葉を贈りたいといったためらしい。準備中の新郎新婦のもとに家族でも友人でもないただの客人が行くというのはマナー違反に当たることだし、なによりも控え室にはアンジュがいた。執事は必死にアンジュとレジーナが顔を会わせずともすむようにしたかったらしいが、アンジュ自信がそちらへ行ってしまったことでその願いは潰えた。
はっきりと口にしたわけではなかったが、そんなことを考えての行動だったのだろうなと検討付けアンジュが礼を言えば、執事は「当たり前のことをしたまでです」と恭しく頭を下げた。どこか他人行儀な彼の様子に、もう自分は彼の仕える唯一人の令嬢ではないのだったなと少なからずショックを受けた。
色々と、失ったものが多すぎる。
あのまま王都に残っていたらそれ以上のものを失っていたのだろうが、それでも今も失ったものは少ないと言えない。
最近よく考えていたことを再度確認させられてしまい気落ちしたアンジュだったが、いつまでもそうやってはいられず、ドレスに着替え化粧をするうちに気付けばそんな感情は昇華していた。
はずだったが、アシェルの言葉で再びそれらの感情が戻ってきて、少しばかり眉を下げた。しまったと顔をひきつらせたアシェルだったが、アンジュは彼に気を使い、だが本心から「大丈夫よ」と告げた。浮かぶ表情は大丈夫そうに見えなかったが、声の調子から嘘でないと悟ったアシェルはそれ以上なにもいわず、かわりにそれまでの話となんの関連性のないと思われる言葉を発する。
「リンクス、少し、リヒター殿をお借りしてもいいでしょうか?」
「俺はアンジュから離れたくないんだが」
そういってリヒターがアンジュを抱き寄せれば、ユラは「わぁ!」と嬉しそうにだがよく聞けばからかい混じりのような声をあげた。その際浮かべた表情に周りの客人が老若男女問わず顔を染めたが様式美である。さすが美少女と考えていたアンジュも魅了しすぎだろう、と流石に呆れを露にした。だがすぐさま表情を切り替えると、
「式が始まるまでに返してよ、私のなんだから」
とリヒターに身を寄せて悪戯っ子のように笑った。リヒターがまるで恋人のようなことをするので言ってみた言葉だったが、ユラは目を丸くし先程とは異なりからかいの混じらない声で「わぁ!」と言うと口許を押さえた。そしてその手を目元にずらすと、「よかったねぇ……」と涙をふく真似をする始末。ユラのなかでアンジュの言葉がどう消化されたのかわからないが、面倒なことになっているようだ。自分を抱き寄せたままのリヒターが重苦しく溜め息を付き、空いている方の手で額を押さえたのでそれは間違いない。
だが、アンジュがその事について「どうしよう」と悩むよりも先にアシェルが
「式が始まるまでに返せばそれでいいんですね」
と確認するようにアンジュの言葉を繰り返したため意識はそちらに戻される。同様に戻ってきたリヒターが「俺は物か!」と先程とは別の理由で溜め息をつくのを見ながら、アンジュは彼の背を押し「物じゃないわ。でもちゃんと返ってきてね」と言葉の前後で矛盾を生じさせながらそう言い、二人を送り出した。




