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くちゅんっというオーソドックスなくしゃみが聞こえ、リヒターがようやく「そろそろ始めるか」と魔方陣の準備を始めた。どうやらユラは先程の戦闘で体があたたまっているようで、「私のマフラー貸してあげるよ!」と所々に緑の血が飛ぶ白いマフラーを首からはずそうとした。が、アンジュはそれを丁重に断り、「ちょっとくしゃみがでただけだから」と苦笑いを浮かべた。
さて、そろそろ始めるかとはいっても、接近戦要員にそれを手伝うことができるはずもなく、二人はリヒターが魔方陣を描く姿をながめながら、魔物の襲撃に備えていた。
リヒターはポケットから筆と小さな小瓶を取り出すと、小瓶の蓋を開け筆を使って魔方陣を描き始めた。それがどんな意味をなすのかはわからないが、ただのインクと思った小瓶の中身にアンジュは、ん?と首をかしげた。
あれって、血じゃないかしら?
緑色の魔物の血ではなく、赤々しい、むしろ赤黒い人の血のようなもの。
魔術はからきしであるアンジュではあるが、封印や呪いなどに血が重要となることぐらいは知識として持っている。だから別段リヒターが血を使って魔方陣を描くことに首をかしげたりはしない。
問題は、誰の血であるかだ。
少し悩んだが、魔族の男が『マクファーレンの子』と言っていたことだから、きっと勇者一行の魔術師の血を使っているのだろう、と検討付けた。
そんなことを考えていると、突然ユラがアンジュのコートをちょいちょいと引っ張った。なあに?とそちらをむくと、この場に似つかわない、だが大変愛らしくニマニマとした笑みを浮かべていた。
「ねえアンジュちゃん、リヒターの前で聞くのもなんだしと思って黙ってたんだけど、さっき私が来るまでリヒターと何を話していたの?」
「何を、って?」
「だってアンジュちゃん口調が変わってるじゃん! ずっとリヒターには敬語でしゃべっていたのに!」
ユラの頭の中ではどう解釈されているのか、きゃー!と楽しそうな悲鳴をあげアンジュに抱きついてきた。魔方陣を描きながらもこちらへ注意を払っていたリヒターはどうやら会話の内容までは聞こえなかったようで「何騒いでるんだ?」と尋ねてきた。それに何でもない、とアンジュが答えようとすれば先にユラが「ガールズトークに男が入らないの!」と可愛らしく叱る。
その姿にリヒターは一度手を止めると、
「お前いくつになったと思ってるんだ。いい加減落ち着いたらどうなんだみぶっ」
「女の年について話すなんてリヒターさいてぇ! そう思うよねえ、アンジュちゃん」
「え、ええ……そう、ね」
一瞬で間合いをつめたかと思うと、次の瞬間にはリヒターへ拳を叩き込むユラ。
見事にボディに決まったわね……
変に感動をしながらも、リヒターとユラの立場が今までとは逆転している様子に頬をひきつらせる。どうやらユラのなかで年齢について持ち出すことはタブーらしい。
どうみても私より年下にしか見えないんだけどな、とは今年二十二のアンジュの心の声。年齢について考えたところで完璧に嫁ぎ遅れだな、と溜め息を吐きたくなったが今はそんなことを考えている場合ではない。
未だにリヒターの傍で彼をポカポカ――実際にはボカボカだが遠目には可愛らしくポカポカ――殴り続けているユラを回収する。これでは先に進まない。
さてリヒターから近すぎず遠すぎずの距離まで移動すれば、再びユラはニマニマとした表情を浮かべ「で、どうして?」と尋ねた。
敬語をなくしたとき、リヒターが何もいってこなかったのでてっきり流れたものだと思っていたがそれはリヒターの中でだけで、ユラのなかではそれが気になって気になってしかたがないらしい。
隠すようなことでもない。そう思うと、アンジュは落ち着いた表情で口を開いた。
「自分らしく、いようと思ったの」
その言葉の意味が理解できなかったのかユラは首をかしげたが、アンジュのどこか満足そうな表情に「そっか、よかったね」とユラもまた――ニマニマとではない――笑みを返した。
そんなやり取りから少したった頃、「準備できたぞ」とリヒターが二人に声をかけてきたのでそちらへ向かう。
「アンジュはこの中心に入ってくれ」
アンジュには到底理解できないような不思議な模様の中心をリヒターは示す。血で何重にも描き込まれた魔方陣がうっすら光を放っているところをみるとどうやらすでに魔術の発動は始まっているらしい。すぐさまアンジュはリヒターに言われた位置へ移動した。
「これからこの血の封印を解く。直ぐ様再度封印を施すから危険はないと思うが、何があっても大丈夫なよう構えていてくれ。アンジュ、武器はすぐに取り出せるか? いつでも取り出していいからもし取り出す準備ができていないなら……」
「簡単よ、何かあっても安心して頂戴。ちゃんと守って見せるから」
ふわりと笑みをこぼせば、「頼りにしている」という声が返ってきた。てっきり「女にそんなことを言われる男の気持ちにもなってみろ」といったようなことを言われると思っていたために拍子抜けした。だが、そんな冗談じみたやり取りをする余裕がないほどにこの術式は、封印を解くことは危険だということなのだろう。気を引き締めアンジュは腕にはまる銀の腕輪をすっと撫でた。
「大丈夫だよ、何かあったら私もすぐに助けるし、なによりリヒターの魔術師としての腕は一流だもん。……私が、保証します」
アンジュを安心させるためかニコニコといつもの表情を浮かべていたユラだったが、最後の言葉を言うときだけは真剣そのものといった様子で、それだけリヒターを信頼していることがわかる。
ならば私も信じよう。危険などないと、無事封印できると。
「じゃあ……始めるぞ」
その声を合図に、リヒターの周りに風が起こる。何を言っているまでかはわからないが、どうやら詠唱している声がかすかに耳に届いた。
アンジュが神妙な面持ちで彼をじっと見つめていれば、詠唱が完了したようで風が収まった。
だが次の瞬間。先程まで吹いていた風など比でないほどの暴風が辺りに吹いた。飛ばされそうになりながらもどうにか足を踏ん張っていれば、すかさずリヒターが次の詠唱を始める。
風に雪が混じっていることから、恐らくこの町の封印を解いたことによる弊害、この町を凍らせたという魔族が復活しようとしているのだろう。風同様寒さも増してきた。
寒さだけでは説明のつかない悪寒がアンジュの体を襲い顔をこわばらせた。だが、がたがたと震えそうになる体に鞭打つと、
「―――っ剣!」
と腕輪に触れた。すぐさまそれは町に来る道中のように剣へと姿を変える。
先程見た限りでは自分の今立つ場所に複雑な魔法陣の一部は描かれていなかったはず、と思い出しアンジュは地面に剣を突き立てた。これでずっと安定して立っていられる。
そうこうしているうちに次の詠唱も終わったようだ。
風がだんだんと弱まり、寒さが遠のいていくのがわかる。
かと思っていれば、足元がぐらぐらと揺れバランスを崩しそうになった。それと同時に「グォオオオオオオ!」という怒号が辺りに響き渡る。その声はどこか苦しげなもので、もしかしたら魔族の声なのかもしれない、と推測する。耳をふさぎたくなったが、その声がもし魔族のものであるとしたら自分がこの場に踏ん張れなければ封印がうまくいかないかもしれない、と考え剣にしがみ付くようにその場で踏ん張った。
だがその揺れはつい先ほどの暴風どうようだんだんと収まっていき、それと同時に先程リヒターが描いた魔法陣が地面から浮かび上がりアンジュの体へと向かって、収束した。どうやら魔法陣はすべてアンジュの体に吸収されたようだ。
これって、私大丈夫なのかしら?
揺れも怒号も完全に収まり、辺りには怖いくらいの静寂が漂う。
突き立てていた剣を抜き念のためにと腰に帯剣していれば、リヒターとユラがアンジュに向かって走り寄ってきた。
「封印は無事完了した! これでもう、この地が『氷の町』と呼ばれることもないだろう」
「リヒター、アンジュちゃんの体に魔法陣が吸い込まれていったように見えたんだけど大丈夫なの?」
「あぁ、問題ないはずだが……体に異変はないか?」
「とくにはない……かな」
不安そうにアンジュの腕を掴んだユラだったが、リヒターとアンジュの返答に安心したらしく、ふにゃりと顔を破顔させ「よかったぁ……」と目に涙を浮かべた。
今にも零れ落ちそうな涙を服の袖の柔らかい部分で拭ってやると、
「私はかのアンジェリカ・ディラックよ。これくらいどうってことないわ」
と自信たっぷりに告げた。その言葉にユラは納得したのか「そうだよね、もしリヒターが失敗しても、《銀槍》なら難なく解決できるよね」と思い切り抱きついた。その姿にアンジュが満足そうに頷いていれば、
「そもそもこの俺が失敗するはずないだろう」
と怒ったような口調で、だが顔には安堵の表情を浮かべて言った。
本当に呪われた地、『氷の町』だったのかと疑いたくなるほど清々しい澄み渡った空をアンジュは見上げると、
「レディレイクに帰ろうか」
と満面の笑みで二人に告げた。
『氷の町』編はこれにて完結。お付き合いいただきありがとうございました。
次章『姉の結婚式』編は乙女ゲーム要素のあるお話(の予定)ですので、まだまだ未熟な面も目立つかとは思いますがそちらもお楽しみいただければなとと思います。




