青空チャット
二年生になった今、僕には大学に入ってよかったと思えることが三つある。一つ目は一人暮らしができるという事。地方の田舎にある実家にそれほどまで不満があったわけではないけど、母乳をほしがる乳児の口がそうしなければならないように、やはり人間が成長に必要な何かを得るためには、それが湧き出る中心部には一度は吸い付いてみなければならないわけで、それなら僕も日本の中心である東京に進出するのは、早くて何が悪いと言えようか。・・というアホみたいな屁理屈を、今でも冗談抜きで掲げているし、何より親元を離れ自由に好き勝手やりたいっていうのはこの歳の男なら誰もが望むことだろう。いつまでもお母さんのおっぱいばっかり吸ってるわけにも・・いかないしね。男として。二つ目は大学での人間関係にすごく恵まれたということ。理系では珍しい男女比率が均等であって、なおかつ理系では珍しくない大人数で構成された我が学科、そして実は軽い気持ちで入ったのだが、今ではすごく熱心に集まりに参加している映画サークルなどを通じて、男女問わず仲のよい友人達が充分なほどにでき、毎日のキャンパスライフを何不自由なく快適に過ごさせてもらっている。そして三つ目は・・・。うん、多分これが一番大きいんじゃないかな。そう、はるかと出会えたことだ。
「だぁ〜負けた〜。コンピューター強すぎぃ。」
はるかが今人気のケータイゲーム機を握ったまま『お手上げ』のポーズを取った。
「はるか、そろそろ勉強しなよ。今日は一緒に試験勉強しにきたんだろ。」
あきれて言う僕にはるかは満面の笑みを向けながら使い古された言い訳を使った。
「息抜き。息抜き。つかさもやってみる?」
「遠慮しとく。僕は昔からそのゲームは苦手なんだ。その連鎖して一気に消すのがどうしてもうまくできない。単発でしか消せた試しがないんだ。・・・と言うよりも試験がこのままじゃヤバくてそれどころじゃない。」
「確かに。」
はるかが大きく口を開けながら笑った。はるかのこの笑い方が僕は好きだった。
「じゃそろそろやりますか。」
はるかはゲームの電源を切り、試験範囲のプリントに取り掛かった。ふと周りを見回してみる。大学のそばに位置するこのカフェには現在、僕らの他にも多くの学生たちがいて試験勉強の場として利用しているようだ。コーヒー一杯で何時間も居座り続けられちゃ商売あがったりだろうなと僕が要らぬ心配をしていたとき、はるかのケータイのバイブ音が鳴った。
「あ、わたし。」
ケータイを取ったはるかは「あ、まただ。」と言うと二、三指先でボタンを押しながらケータイを机に置いた。
「なんかこの時期ってみんなやたらとアドレスを変更するよね。やっぱり春は気分を入れ替えたいのかしら。しかも大学ってさ、入学したての頃って結構出会いがしらに色んな人とアドレス交換するじゃない。今は赤外線とか便利な機能もあるし。それで調子に乗っていろんな人と交換しちゃってるから今ごろになって『アドレス変えました』って来てもあなた誰?ってパターンあるのよね。」
「あ、それわかる。僕もこの前そういうの来たな。」
でも確かまだ登録はしてない。どうせ必要ないだろうし。
「でしょぉ。う〜ん。今の誰だったけなぁ。でもこういうのって何かデータも消しずらいし私はまた登録しちゃうのよね。せっかく変えましたって律儀にメールも送ってきてくれてるわけだし。」
「律儀なのも考え物ですな。」
「確かに。」
二人して小さく笑った。
「あ、そういえば。僕のサークルの先輩がな〜んか今すっごい人気らしい舞台の関係者とコネがあるらしくてさ。特別にチケットが手に入るんだって。多分はるかちゃんならお目が高いからこの価値わかると思うわ〜もし彼女が行きたいって言ったらチケット手に入れるわよ。高いけどね〜って言われたんだけど。」
「ふふ、それ律子さんでしょ。」
「あたり。」
「その舞台なんて名前の?」
僕は律子さんに告げられた舞台名をおぼろげな記憶を辿りながらつぶやいた。
「えっ!?うそ!?・・・それ、わたしすっごく見たかったやつだよ。私も取ろうとすごく頑張ったのに駄目だったから諦めてたのに。すごい律子さん!きゃ〜!行きたいっ!」
少女マンガの登場人物並みに目をきらきらと輝かせながら、声を弾ませて前のめりに僕に迫ってくるはるかの勢いに少し戸惑った僕は、気持ち後ずさりしながら答えた。
「わ、わかった。じゃあ律子さんに頼んでみるね。」
「うん、お願い!わぁほんとに行きたかったんだ〜。わたし原作も読んだくらいなんだからぁ。あのね、主人公の台詞がすごく素敵なの。中でもね『愛するとはお互いに見つめ合うのではなくて、同じ方向を見つめることである』っていう台詞が一番好きなの。なるほどなぁって感動しちゃった。それでね・・・」
そう言って水を得た魚のように舞台のストーリーを僕に説明しだすはるかの顔が本当にうれしそうで僕は家に帰ったら早速律子さんに電話して、明日の朝一にでもチケットを受け取りに行こうと心に決めた。
「楽しみだなぁ。」
結局その言葉を別れ際まで言い続けていたはるかは、まるでクリスマスを待ち望む小学生のように鼻歌交じりにスッキプでその日は家へと帰って行った。
「おっす。」
試験会場に早めについて試験範囲の暗記事項を最終確認していた僕は後ろから軽快な声と共に肩をたたかれた。
「おぉ、山本か。おはよ。試験日だってのにご機嫌だな。」
「まぁね。この間お前にも話したバイト先で知り合った女の子とうまくいってさ。」
「付き合えたのか?」
「いぇす。」
「ほぉ〜おめでとう。よかったじゃん。あ、でもあんま事を急いで引かれたりすんなよ。」
僕は出来るだけ嫌味な顔を作って山本の方を向いて言った。
「うるせ。てかお前はどうなのよ。」
「まぁ、昨日一日勉強はしたから『可』くらいは取れるんじゃ・・」
「ばか。はるかちゃんとのことだよ。お前らもういい加減しっかり付き合っちゃえって。はるかちゃん狙ってるやつ結構いるんだぜ。」
いつになく真剣な山本の目をみて適当にはぐらかすことができなくなった僕は、指でぽりぽりとほっぺたをかいた。
「・・わかってる。実は今度一緒に舞台見に行くんだ。さっきここに来る前にサークルの先輩からチケットも受け取ったし。ほら二枚。んで・・その舞台に行く日に・・あいつには言うつもり。」
先ほど手に入れたチケットを山本に見せながら言った。
「マジで!?よっし!その意気だ!絶対うまくいくって!」
山本は自分のことのように目を輝かせて僕の肩をつかんだ。
「あぁ、さんきゅ。」
「そっかぁ。よしよし。あっ、てか俺もテスト勉強せねば。実は浮かれて勉強ぜんぜんしてないんだ。そんじゃまたな。ガンバ!」
山本はそう言うと階段状になった試験会場の階段を勢いよく降りていくと自分の席に着席した。まぁもともと彼は俗に言う天才型とか言う部類の人種のやつなので、そう言いながらもいつもちゃっかりと単位は取っていくというホントに嫌味なやつなのだが、それでいてどこか憎めないのは彼の持つ人間的な魅力によるところが大きい。
「試験開始。」
担当の教授の合図で試験が始まった。まぁ正直なところ試験用紙を裏返したときには泣きそうになった。昨日僕はいったい何していたんでしょう。何もわからない。こりゃ追試決定だなと早くも心の中で白旗を大きく振り出そうとしていたとき、教授の大声が会場のホール中に響いた。
「おいそこ!何をしている。」
ざわつく場内。教授は大またで階段を昇り、ある男子生徒の前で歩を止めたかと思うとその男子生徒の胸ぐらをいきなり掴んで無理やりに立ち上がらせた。
「この紙は何だ?あ!?けしからん、私の試験でカンニングとは。ちょっとこっちに来なさい。」
引きずられるように会場の外へ連れて行かれる男子生徒。そういえばこの授業の教授は厳しいことで有名だったな。ご愁傷様です。しかしこう難しいと、カンニングもしたくなるあの男子生徒の気持ちも痛いほどわかるよ。でもあんなのを目の前で見せられちゃ、もう誰もカンニングする気なんて起きないだろうけど。
三日後、地獄のような試験期間最終日をなんとか乗り切り、僕はここ数日で受けた精神的ダ
メージを癒そうと愛すべき他の落ち武者たちと大学のカフェでゆっくりダベリながらお互いの傷をなめあっていた。そこに同じ学科の佳代子がやって来た。
「おぉ、佳代子ちゃん。どうした?」
と言った僕の友人の声はむなしくも宙を舞い、聞こえてないのか何やら神妙な顔つきの佳代子は、僕の前まで来るとこう言った。
「つかさ君・・・。ちょっといい?」
佳代子は学科では比較的仲のよい女子のうちの一人で、何回か数人の学科友達と飲みにも行くような間柄だった。
「おぉ〜!!これはもはや!つかさ君!お呼びですよ〜!」
僕は色っぽいネタが大好きな友達たちのはやし立てを適当にスルーして、佳代子を連れてカフェを出た。何用かはわからないけど、二人っきりで話したいと佳代子が望んでいるように、彼女の表情から感じたのだ。近くの談話室に入り、適当に見つけた空席に僕らはテーブルを挟んで向かい合って座った。
「どうした?何かあった?」
「ごめん。わたし、つかさ君くらいしか相談する人いなくて。」
「相談?」
「うん。・・・つかさ君、わたしに一年前から付き合ってる彼がいるの知ってるでしょ?」
「確か・・前そんなこと言ってたよね。」
「うん。実はその彼が・・。もしかしたら浮気してるかもしれないの。」
「う・浮気?」
「そう。・・・この前見ちゃったの。他の女の人とカフェにいるところ。一度だけじゃないのよ。他の日にも同じ人と大学内で話してるところ見たの。・・ねぇ浮気かな・・。」
そこまで重い口調で言うと佳代子は目に涙を浮かべた。
慌てた僕はできるだけ明るい口調で優しく言った。
「ま、まだそう決め付けるのは早いよ。大学ってのは男女関係なくいろんな人と繋がりが持てる場だし、ほら、僕と佳代子だってそうだしね。だから佳代子の彼も僕たちのような関係なのかも・・」
「でも・・・。でもそれだけじゃないの。ずっと前から約束してた、わたし達がつきあって一周年の記念日のデートもちょっとやめにしないかな?なんて言い出すし。・・きっともう私のことなんて・・・。」
そういうとハンカチに顔をうずめて佳代子は泣き出してしまった。
男というものは本当に女の涙に弱いものである。もちろん僕にとってもそれは例外ではなく効果は抜群だった。彼女の洩らす嗚咽に気づいた談話室にいた人たちの集まる視線も加わって僕はまるで始めて甲子園のマウンドに上がった一年生の控え投手のように落ち着きを失くしてしまった。
「大丈夫だって佳代子。だからさ、ちょっと泣きやもうな。ほら。な?頼むよ。」
最後のほうはこっちも泣き出しそうになりながら佳代子を宥めてみたのだが、結局どうすることもできなくて、かくなるうえは人頼みとばかりに周りを見回しだした。すると向こうのテーブルから教科書を腰の前に抱えて、こちらに睨むような視線をよこしているはるかを発見した。助かった。
「はるか。ちょうどよかった、あのさ・・」
と手招きとともに大声で呼ぶ僕の言葉をあきらかに拒むように、はるかはプイっとそっぽを向いて談話室から出て行ってしまった。その後僕に待ち受けていたのは、藁をも掴もうとした溺れた者が藁にまで逃げられた悲惨な結末だった。ぶくぶくぶく・・・。
「やれやれ。」
なかなか泣き止まない佳代子をなんとか落ち着かせ、彼氏の件はしばらく様子を見てみようと言い聞かせ佳代子と別れた僕は、よろよろと帰路を歩きながらため息をついた。それにしてもはるかはあの時なんか怒ってなかったか?ふむ。はは〜ん今日ははるかのやつ女の子のアノ日だなぁ〜なんてすばらしき名推理を思いついたときに山本と遭遇した。
「よぉ。山本。」
「お、つかさぁ。残念だったな〜。」
山本はにやけながら僕の肩に手を置いた。
「は?どういうこと?」
「追試!」
「え、もう発表あったのか?」
「3号塔前の掲示板。教授が言ってたろ今日の午後には結果を掲示しとくって。あいつ採点馬鹿みたいに早いからね。三日前にあった試験もう採点するなんて信じられねぇよな。うちの学科バカみたいに人数いるのに。ちゃんとしっかり見てくれてるのかね。」
まぁ僕が落ちたということはあながちいい加減でもないとは思うが。
「・・んで一応聞くけどお前は?」
「言わずもがな。」
「あ、そう。」
ただでさえ試験があって疲れているところに佳代子の相談があり、さらには追試決定の知らせか・・。これでまたなんかありゃ確実厄日だなこりゃ。こんな日は早く帰ってクソして寝ましょ。なんて考えているところに今度はケータイが僕を呼んだ。不吉な空気を察したのは言うまでもない。
「はい。もしもし。」
「つかさ君。わたし、律子。」
「あぁ律子さん先日はチケットほんとにあり・・」
「ちょっと頼みたいことがあるの・・。」
厄日決定。
「どうしました律子さん?」
「あ、つかさ君。わざわざありがとう。」
「いえいえ。それよりなんですか頼みごとって?」
「・・うん実はね。」
彼女が言うには次のようなことだった。彼女は僕ら以外の友人の何人かにも、あの人気舞台のチケットを入手してあげていたらしい。それでその噂をどこかから聞きつけた知らない男にチケットを入手してくれと頼まれたのだが、あいにく僕の分で最後だったらしくその男にはチケットを取ってあげられなかった。しかしその男は諦めが悪く、事情説明と謝罪の連絡をした後も律子さんにしつこく言い寄ってくるらしく、ここ数日はまるでストーカーのように追いかけられている律子さんはさすがに困っているそうなのだ。
「今度はストーカー・・・ですか。」
「・・今度は?」
「いや、こっちの話です。・・わかりました。今日はもう遅いですし、明日にでも僕が一緒に行って話をつけにいきましょう。」
「ホント!?ありがとう。」
「いえいえ。律子さんには恩もあるわけだし。」
事実、彼女には今回のチケットの件以外にも僕はお世話になっていた。はるかとの出会いを作ってくれたのも実は彼女のおかげなのだ。
「・・つかさ君ってホントに優しいよね。」
そう僕につぶやいた律子さんの顔がいつもの後輩に向けるそれとは違うように感じて僕は少しドキッとした。
「な、何言ってるんですか。っじゃあ僕はこれで・・・。また明日。」
「うん。また明日。今日はありがと。」
早足でその場から逃げ出す僕。勘違いだっての。
「ってな感じで昨日は散々だったよ〜。」
いつもの大学の食堂ではるかとランチを食べながら僕は昨日あったことを話した。
「恋人の浮気の相談に、追試決定、さらにはストーカーと話しつける約束までしちゃって。あ、あと昨日家帰ったら変ないたずら電話までかかってきてさ。なんか変な男の声で『あの・・・その・・やっぱいいです。』みたいな。なんかもうほんと・・ってはるか聞いてる?」
「聞いてるわよ。つかさは本当に女の子からモテモテなのね。」
「え?そんな話じゃないでしょ。僕はただ昨日はさんざんだったよって話したんだよ?」
はるかは下を向いたままもくもくと自分のパスタを口に運んでいる。
う〜ん。こりゃまだ女の子の日は終わってないようだな。
「え・・・と。それにしてもその浮気相談してきた彼女もオーバーだよね。たかが他の女の人と一緒にいたからって普通浮気って思うかな?やっぱ所謂恋はもうも・・・」
「女の子は」
はるかが珍しく大きな声を出して僕の言葉を遮った。
「・・好きな男の子が他の女の子と一緒にいるとこ見ただけでも不安になるものなのよ。」
そう言ったはるかの言葉から明らかに自分に向けられた棘と熱を感じ、僕は少し困惑した。
「え?あの・・」
「わたし・・。次の講義の前にちょっと用事あるからもう行くね。じゃ。」
「え?おいはるか・」
すたすたと自分のトレイを持って返却口へと向かうはるかの背中をぽかんと見つめながら僕は「なんなんだよ。」と呟いてカレーを口に運んだ。
その日の授業が全部終わった後、律子さんとの約束を果たすべく僕は律子さんの元へと向かった。ぱっぱとその男と話をつけて今日は早く帰って明日の追試の勉強しなくちゃな。と本日の無駄のない理想的なタイムスケジュールを頭の中でああだこうだと考えているときに右ポケットの中のケータイが震えた。
「もしもし。」
「・・・・」
「・・もしもし?」
「・・あ・あの・・。えっと・・・。」
昨夜あったいたずら電話と同じ声だった。
「すみません。あの・・僕に何の用ですか。昨日もあなた・・」
ぷつんと電話が切れた。何なんだよ全く。
「つかさ君」
口をひん曲げてケータイに向かって悪態をついている僕の背中に声がかかった。
「あっ。律子さん。こんにちは。」
「こんにちは。来てくれてありがとう。」
「彼もここに来るんですか?」
「うん。昨日メールしたから、ここに来てもらうことになってる。ほら、チケットを取るの頼まれたとき連絡先聞いてたから。あの・・つかさ君。」
心配そうな面持ちで律子さんが僕を覗き込んだ。
「あんまり無理はしないでね。あの人そんなに乱暴な人には見えなかったけど、もし興奮して殴りあいにでもなったら・・つかさ君・・」
「大丈夫ですって。僕は平和主義者ですから。それに相手ももういい大人なんだし、そんなバカなことはしませんって。」
といいながらも内心どこかドキドキしている自分に気がついていた。まぁ、昨日律子さんと約束したときからそれくらいの覚悟はできてるさ。しばらくすると、一人の男がこちらに近づいてくるのが目に入った。ふぅ。僕は律子さんに聞こえないように小さく息を吐いた。
「あの・・。」
男は僕を見て少し気まずいような面持ちで律子さんに話しかけた。
「あ・・あのチケット手に入りましたか?」
「・・ごめんなさい。知り合いの関係者の人にも頼んでみたんだけどやっぱりもう手に入らないって・・。ごめんなさい。」
「でも僕はあれがないとホントに困るんです。あれがないと・・」
興奮する彼が律子さんに詰め寄ろうとしたときに間に入って彼を抑えた。
「ちょ・ちょ・ちょっと。落ち着きましょう。冷静に。」
「で・でも・・ぼ・僕は。」
興奮した面持ちで彼は息を切らしながら言った。
「とりあえず何があったか知らないですけど。彼女は最善を尽くしてくれたんですから。無理なものは無理なんですし。」
「で・・でもつかさ君僕は・・。」
「へ?」
「え?・・な何?」
「何で僕の名前知ってるの?」
「何でって・・同じ学科じゃないか。」
なるほど。彼がここに来たときからの違和感はこれか。どっかで見たことある顔と聞き覚えのある声だとは思っていたけど。そういえば同じ学科にいたな、彼。たしか入学当時は少し話したりもしたことあるし。名前は確か・・申し訳ない。忘れた。
「き・君か。」
「ひどいな。忘れてるだろ。学籍番号も君のふたつ後ろなんだよ。」
「あぁ・・。確かそうだったね。」
「まったく。昨日もさっきも電話したのに。それでなんか変な対応だったのか。」
「電話?さっき?」
頭の中で記憶を巻き戻す。最近僕は電話は全くのご無沙汰で来るのはイタズラ電話くらいしか・・・まさか。
「あのイタズラ電話、君か?何で?」
「イタズラ電話?おいおい。僕はただ、君の持っている舞台のチケットを譲ってくれないかと頼もうとしただけだよ。数日前の試験のとき試験会場で君が山本君にチケットを見せているのをたまたま見て、ほら僕は君の二つ後ろに座ってたわけだし。」
あの時か。確かに僕はあの時チケットを出した。
僕が理解できたことを確認すると、彼はまた続けた。
「それでそのとき君が僕の行く予定の舞台と同じものに行くんだってことを知ったんだ。でもそのときは僕もまだチケット失くしてなかったから、あぁそうなんだぁって程度の感想しか持たなかったんだけどね。」
アホみたいに聞いてるだけじゃ芸がないので
僕は「それで?」と先を促した。
「でもその日のうちに僕はチケットどこにやったかわからなくなって。それで彼女がチケット配ってるって噂を聞いて頼んだんだけど無理で。だから彼女に何度もだめもとで頼むのと並行して君にも頼んでみようって思って電話したんだ。結局会話するのも久しぶりなのに、頼み事するなんてずうずうしいかなと思って切り出せなかったけどね。」
「で・電話番号は?僕の電話番号どうやって調べたの?」
ぽかんと僕の顔を見つめる彼はやがて残念そうな顔して僕に言った。
「入学したての時お互い交換したじゃないか。しかもこの前番号変わったってメールもしたでしょ。」
「いや、ホント申し訳ない。」
「もういいよ。こうやってチケットも譲ってもらっちゃったわけだし。」
「でもいいの?つかさ君それははるかちゃんと・・」
「いいんです。なんか昨日からはるかともギクシャクしちゃってて。どうせ舞台も見に行けたかもわかんないですから。」
僕は彼に律子さんからもらった僕とはるかの分のチケットを譲ることにした。なにやら彼も大事な人と一緒に見る約束をしていたようだし。
「これで彼女も喜ぶと思います。つかさ君本当にありがとう。」
「いいって。それよりかちゃんと律子さんに謝りなよ。あと感謝も。そのチケットも、もともと律子さんからもらったものだしさ。」
「律子さんどうもすみませんでした。ちょっと僕あせっちゃってて。」
「いいのよ。彼女との約束は守らなくちゃだもんね。」
律子さんは笑顔で言った。なんとも大人で素敵な人だ。
「ありがとうございます。でも・・」
そこまで言うと彼は一つだけ納得できないといったような顔をして宙にらんだ。
「でも、あのチケットはどこで失くしちゃったんだろう。」
次の日。つまり追試の日僕は午後からの追試に備えて午前のうちから大学に来てカフェで勉強していた。するとそこに佳代子がひょっこりと現れ、僕を呼んだ。
「つかさ君!」
「あぁ佳代子。おはよ。君も追試?」
「まさか。あんなの落とすわけないじゃん。」
どいつもこいつも。
「実はあの彼氏の件ね。」
そうだった。まだこの問題が片付いていなかった。
「うん。どうなった?」
「実はあれ、なんでもなかった。」
「へ?そうなんだ。よかったね。でもなんで?」
僕がそう尋ねると、佳代子は恋する乙女特有の微笑を浮かべながら明るい声で言った。
「なんかね。彼、前々から今度のわたしたちの記念日には、あの今すごく人気の舞台にわたしを連れてってくれるって言ってたのね。でもなんかそのチケットをどこかで失くしちゃったみたいで、わたしに言った手前失くしちゃったなんて言い出せなかったんだって。多分わたしがすごく浮かれちゃってたからだな。それで彼はどうにかしてデートを中止しようとわたしに言ってたのに、わたしが聞かないもんだから・・・。それであせった彼は色んな人にあたってチケットを手に入れようとしてくれてたみたいなの。それでわたしが見た女の人の時もそのチケットの交渉をしてたんだって。なんかわたし彼にすごく無理させちゃったみたい。その人たちにも迷惑かけちゃったし。でもね。なんとか彼、チケット手に入れてくれたんだよ。おかげで記念日は舞台にも行けるんだ。」
そ・それって。僕はまさかと思って佳代子に尋ねてみた。
「もしかして君の彼氏って・・・。」
すると佳代子はにっこりと笑ってから
僕が昨日、家に帰ってからしっかりと番号を登録し直した学友の名を答えた。
昼になり僕ははるかをランチに誘った。チケットのことを謝らないといけないと思ったからだ。
「・・なるほどね。ホントにつかさはお人好しね。譲っちゃうなんて。」
「・・あのさ。『親切は人の為ならず』って言葉があるでしょ?僕前までそれは親切は人のためにならないからやめなさいっていう意味かと思って好きだったんだけど実は違って、人への親切は人の為じゃなく自分の為にやるんだよって意味なんだって知ってからはすごく嫌いになったんだよね。だって何か人間は結局自分への見返りの為に人に親切にするんだってことが言いたいわけでしょ?やだよ、そんないやらしい、下心がある世の中なんてさ。だから僕はなるだけ自分に見返りがないような人助けはしたいんだよ。馬鹿だって自分でも思うけど僕なりのその言葉への抵抗なんだ。」
僕は少し興奮しながら言った。この歳でまだ器用に上手になんて生きたくない。
「なるほどね。・・女の子に人気がでるわけだね・・。」
「え?」
「ううん。なんでもない。」
はるかは久しぶりに見せてくれた僕の大好きな笑顔になって言った。
「じゃあ、その日は映画でも見に行こ。もちろんつかさのおごりだけど。」
ふふふ。と笑うはるかに「へいへい。」といい加減に答えながらも、僕は久しぶりにはるかと笑顔が交わせたことに心から喜んでいた。
「でもね、つかさ。」
そこで意味ありげに間を取ると、はるかは僕を見ながらこう言った。
「『返ってこない親切は人の為ならず』。自分に何かしらの形ででも御礼が返ってこない人への親切なんて、結局は人の役に立たない程度のものなのだよ。」
「それ誰の言葉?」
「ホントに素敵でしょ?本当にかっこいいのよあの主人公。」
やっぱり内心では行けなくなったことを残念がっているようだ。
追試。会場は本試験と同じ会場だった。よみがえる忌々しい記憶。追試では学籍番号順に座る必要はなかったので、僕は意識的に前回の僕の席をさけ座った。しかしなんだ。例によって昨日も帰ってすぐに寝てしまった僕。ここまでくりゃ神頼みですな。
追試が開始された。思いのほか僕のほかに追試を受ける生徒は少なく、やっぱりそんなに難しくはなかったんだなと思って情けなくなった。今回はあの厳しい教授も出張で来れないらしく、変わりに大学院生が試験監督としているものの、前の教卓でさっそく居眠りをしている。しかし相変わらず名前以外書けない試験だ。こんなに監視がぬるいならカンペくらい用意してきたのにと後悔をしながら半ばあきらめて、手遊びをしたり机の下を無意味にあさくっていると手に何か紙のようなものが触れた。何かと思って取り出してみるとそこにはなんと目の前の試験問題とシンクロ率がべらぼうに高いノートの切れ端の束が出てきた。
「カンペ!?」
どうやら前回ここに座ったやつが仕込んだものらしい。はは〜ん。あの時カンニングで捕まったやつがいたからな。それを見て怖気づいて取り出せなくなったもんでここに置きっぱなしにしたんだな。しかし、僕の席の後ろのほうにはこんな用意周到なやつがいたとはな。席からすると僕の試験を受けた席より二、三席後ろってとこか。ちくしょうめ。まぁでもおかげで僕も追試は受かりそうだ。感謝の意もこめてしっかり証拠隠滅しといてやるよ。と快適にノートの切れ端をめくりながら数分前まで真っ白だった答案を埋めつつ、僕は見知らぬ誰かさんに感謝をした。とその時。ノートの切れ端と切れ端の間に何か他の紙が挟まってるのに気がついた。どうやら二枚あるようだ。僕はそれを取り出してみる。
「・・・これって・・・。」
「なるほどね。それで舞台のチケットがまた手に入ったってわけね。」
「まさかあの席が彼の席だったなんて。すげぇ偶然。」
「彼はカンペに挟まってるチケットに気がつかなかったのね。でカンペも結局教授に恐れて使えなくて、結局一緒に置き忘れちゃったってわけだ。」
「まぁカンニングなんてしようとするからだな。けしからん。」
「そのカンペで追試受かったつかさが言う権利はないでしょ。」
「すんません。」
追試の日に手に入れたチケットではるかを誘い僕は今、舞台会場へと二人で歩いて向かっている。数日前に追試合格の知らせも受け、僕は目の前に広がる青空のように晴れ晴れとした気持ちで今日の日を迎えられていた。
「でもちゃんと人の為になったみたいだね。」
「え?」
「つかさの親切。ちゃんと返ってきたもんね。」
チケットを譲った相手のチケットを手に入れたのは果たして返ってきたというのかな。
「わたしもね。つかさが言ってたことすごくわかるの。」
はるかは少し斜め前に視線を落とすと進む足を少しゆるめてこう続けた。
「わたしも自分への見返りのために誰かに優しくするのってなんか嫌だなって思ってたの。損得感情で動く人間にはなりたくないなぁって。でも結局はわたしもいつかはそんな大人になっちゃうのかもとも思ってた。きっとこの世の中はそんなに優しいものじゃないんだって。でもね。今回のつかさのこの一件で思ったの。」
はるかはそこで僕のほうを向くとこう言った。
「誰かに無償であげた親切がまわりまわってその人に帰ってくるのって素敵だなって。みんながつかさみたいに誰かに見返りなんか求めない無償の親切をして、その親切された相手も同じように誰かに親切して・・そんな風にしてぐるっと回って自分に帰ってくるの。ほら、時計の針みたいに。時間とともにどんどん回って行って、またある時同じところに戻ってくるの。自分がしたひとつの小さな親切がその相手も、その他大勢の人も、そして自分さえも幸せにしてくれるの。これってすごく素敵だと思わない?」
はるかは可愛らしいまつげが縁取った綺麗で透き通った瞳をさんさんと輝かせながら、最後までうれしそうにこう言い切ると、にこっと微笑んでまた前を向いて歩き出した。僕は彼女の放った真っ直ぐな言葉にただ圧倒されてしまって結局何も言い返せなかった。でも彼女の言った世の中が本当に実現されればそれは本当に素敵なことだなと思った。
「ていうか、つかさホントにここ何日かはたいへんだったね。」
「ホントだよな。恋人浮気相談、いたずら電話、ストーカー退治に追試と・・。」
「私ともぎくしゃくするしね。」
「え?」
「ごめんね、やきもち焼いちゃって・・。」
「あれ、やきもちだったの?」
「え!?なんだと思ってたのよ?」
「だから女の子のあの日かなと・・」
ぱしん。
「最低。」
「いや、だってさ。」
あわてて彼女に弁解をいれようとする。でも彼女はすぐに笑顔に戻って言った。
「でも。つかさ嘘つきだね。苦手っていってたくせに。」
「へ、苦手?何が?」
僕は怪訝な顔をはるかに向けた。
すると、はるかは得意げな笑みを浮かべて僕の方を向くと
僕のおでこをちょこんと指でつつきながらこう言った。
「今回見事に積み重ねられた全部の問題を一気に消しさったじゃない。
連鎖消しは苦手じゃなかったの?」
「あ。」
「これ何連鎖よ」
ふふふ。と彼女はうれしそうに笑った。今度一度あのゲームをやってみようかな。
もしかしたらすごい才能があるのかも。
「あのね。」
しばらく歩いてからはるかが真面目な口調で唐突につぶやいた。
「わたし、この前律子さんに会ったとき言われたんだ。わたしにつかさを紹介しなきゃよかったかなって。」
僕は意味がわからなかった。
「え。それってどういうこと?」
はるかはちょっと考え込むように黙り込みそして言った。
「わたしが思うに律子さんつかさの事好きなんじゃないかな。」
「え?」
「そりゃそうよね。つかさ優しいもん。律子さんも好きになるかも。」
はるかは下を向いたまま話していた。そしていきなり笑顔に戻ると僕を見ながらこう言った。
「よかったね〜。律子さんすごく綺麗だし、いい人だし。つかさにはもったいないくらいだよ。大事にしなよ〜。」
彼女の笑顔がどこか寂しげで、そのとき僕はこのデートの目的を思い出した。
「はるか。」
「何?だめよ。律子さんには自分から・・。」
「はるか。聞いて。」
僕のいつになく真剣な口調に何かを感じたのかはるかは黙ってじっと僕を見つめた。
「はい。」
ふぅ。僕はあの律子さんとともに男と対面したとき以上の緊張をしていた。
「僕は、はるかが好きだ。」
僕はまっすぐ彼女の目を見てそう言った。沈黙が苦しい。後悔はない。僕はいつだって僕の隣で可愛らしく笑ってくれるはるかが、真っ直ぐした目であんな素敵な言葉を心から言えるはるかが、今目の前で黙って僕を見つめているはるかが、大好きだ。しばらくするとはるかは黙ってまた前を向いて歩き始めた。
「・・・はるか・・?僕、今告白したんだけど・・。」
ふふ。といつものように笑うと彼女はこう言った。
「わかってるって、だからほら早く舞台を見に行きましょ。」
「わかってるって・・。でも返事・・」
「だぁかぁらぁ」
そこで立ち止まって僕のほうを向くとはるかは天使のような笑顔で僕に言った。
「だから、早く舞台の会場で二人で同じ方向見つめましょ。」
今日の空はあきれるほどに綺麗で、この世界の全ての色を構成しているといわれている色の三原色をどう配合しても、もう二度とこんな色は作れないんじゃないかと思うほどの素敵な色をしていた。気がつくともう目の前には会場が見えてきた。会場のホールの入り口の門の上部に高く掲げられた舞台宣伝用の看板が、この舞台の噂どおりの人気を象徴していた。そこにはテレビのCMなどで毎日のように耳にする舞台タイトルと共に、ここからでも読み取れるような大きな文字ではるかの大好きな主人公のきめ台詞がでかでかと書かれていた。
『愛するとはお互いに見つめ合うのではなくて、同じ方向を見つめることである』
「ちょっと意味違うんじゃない?」
微笑みながら僕が言うと
「いいでしょ。」
とはるかは幸せそうに言った。大好きなはるかの笑顔がすごく見たかったけど、僕は我慢して目の前の青空をみつめたまま喋った。はるかも青空を見つめているからだ。僕ははるかの手を優しく取ると二人で青空を見つめながら会場への道を急いだ。
最後までご愛読いただき本当にありがとうございました。
ご感想、ご評価を書いて頂けるとすごく励みになります。
よろしければどうかよろしくお願いします。




