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朱き帝國  作者: reden
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第67話 窮鼠


 モラヴィア王国中央領北中部。

 王国最北の造山帯であるルテニア山地より吹き下ろす乾いた北風が、巻き上げられた荒野の砂塵とともに漆黒の法衣ローブを叩く。

 身体に纏いつく砂埃を鬱陶しげに払いつつ、ブラージウス・サンドロは眼下の光景を眺めやった。

 王都より伸びる主要街道からやや離れた、なだらかな丘陵。

 その頂から見下ろす先には二頭立ての馬車3台が横並びに通れるほどの幅をもった広い石畳の街道―――そして、その大街道を扼するように設営された12の大天幕と、翩翻へんぽんひるがえる王国魔道軍の軍旗があった。

 彼我の距離は常人が肉眼のみで互いを視認しえぬ程度には離れていたが、知覚を魔力強化した高位魔導師にとっては十分に可視範囲である。

 ブラージウスは丘の上に端然と佇み、天幕の周囲―――そして街道を塞ぐように検問を設営している王国軍将兵の数を静かに数えていく。

 陣の規模からして、展開しているのは恐らく中隊規模。だが、それにしては糧秣が多いようでもある。

 王国軍の一般的な編成を脳裏に反芻し、眉を顰める。この規模の隊に付随しているべき兵科が足りない。


(騎兵がいない?)


 恐らくは、検問を迂回しようとする者を捕捉するために騎兵が周辺に展開しているのだろう。

 検問の状況とつぶさに観察していくうちに、王国兵の中に混じる【異物】の存在を感じ取った。


「……あれは」


 枯草カーキ色の外套に、見慣れぬ意匠の青制帽の軍人たち。

 白を基調とした王国魔道軍の軍装とは似ても似つかぬそれは、明らかに異界軍のものだ。

 ブラージウスが遠視する中。白鎧を纏ったモラヴィア魔道軍の将校が異界軍人に駆け寄り、指示を受けてとっているのが見える。

 遠目に見た限りでは、モラヴィア側の指揮官は酷く萎縮しているようにも感じられた。


「……ふん」


 成る程。これが負けるという事か。

 口の端から嘲笑めいた嗤いが漏れる。

 世界に冠たると豪語した魔法王国。その将校が今では、魔道文明を持たぬ異界の蛮人に顎でこき使われる立場にあるのだ。

 これを滑稽と言わずになんというのか……まぁ、そうなった責任の一端は、自分たち魔道院にも帰せられるのやも知れないが。


「サンドロ導師」


 ふと、後ろから声がかかり、ブラージウスは遠望する検問から視線を外して振り返った。

 ブラージウスと同様の黒外套を纏った魔導師達。

 そして、彼らの背後に無数に佇立する影。

 それらを眺め渡してから、ブラージウスは口を開いた。 


「それでは議長―――いや、ヴェンツェル導師。始めて良いのだね」


 黒外套の導師たち。その先頭に立つ召喚魔導師ヴェンツェル・エッカートは、年若い同輩の問いに重々しく頷いた。


「構わぬ。どの道、あれを放置しては後顧の憂いとなろう」


 創命魔術の最高導師は無言で肩を竦めると「結構」と短く返した。

 能力も自尊心も人並み外れて高い公爵家の次子は、いま暫くはこの老召喚魔導師に付き合ってやる心算だった。

 この老人の悪足掻きは、己にとっても利があると踏んで。

 魔導師達に背を向け、再び遠く離れた検問の方角へと視線を向けたブラージウスは、無言で己の右手を肘から曲げ、中指と人差し指を立てた。

 周囲の空気が揺らぎ、黒々とした影がブラージウスを中心に広がっていく。


「暫く、食事も無かったからね。腹を空かしているだろう……行け。存分に満たしてこい」


 言い終えるや否や。広がった影が爆発した。

 爆ぜ飛び、ブラージウスから離れた影は異形となり、主の命ずるままに地を奔って瞬く間に視界から遠ざかっていく。

 その往く先には、王国魔道軍が設営した検問と、完全編成の魔道兵一個中隊が展開している筈だった。  







 ■ ■ ■








 ルーキンが生まれ育ったノヴゴロドは、古いロシア語で【新たなる都】を意味する。

 その名に反して、現在ではロシアで最も古い歴史を有するこの古都が開かれたのは9世紀の中頃。

 火災によって焼失したといわれるノルド人の街ホルムガルドの跡地に、スウェーデン・ヴァイキングのリューリクによって打ち建てられた。

 イリメニ湖の湖畔に抱かれたこの街は、その水利を生かしてスカンディナヴィアとビザンツ帝國を結ぶ交易中継点として発展し、タタールによるロシア中央部の劫掠、モスクワ大公国による併呑、そしてロマノフ帝政の興亡といった歴史を経て今も存在する。


 ユーリー・ルーキンは少年期をノヴゴロドで過ごした。

 生家はけっして裕福なわけではなかったが、父は腕の良い仕立て屋で、家族の生活が困窮するようなことはなかった…と思う。

 幼少の記憶は歳月に蚕食され、当時の……自身が幼かった頃の父母の姿もぼんやりとしか思い出すことはできない。

 既に記憶の霞みかかった少年期。夏になると、ルーキンの父は、時折、息子を連れて郊外の湖畔に建つ別荘ダーチャを訪った。

 別荘ダーチャなどと言っても、それは今の党高官や当時の貴族、ブルジョワたちが有していたようなサウナ付の豪壮な邸宅などではなく、せいぜい掘っ立て小屋程度のものだったが。

 そこで家族とともにキノコやコケモモを採り、薪を割り、父に手ずから釣りを教わった暖かな記憶はおぼろげながらも未だ残っている。

 ふと、初めて釣り糸を垂らした日のことを思い出す。

 今でこそ笑いまじりに思い起こせるが、当時のユーリー少年にとって、それは最悪の事件だった。

 最初に針にかかった鱒を慌てて引き上げようとした挙句、足を滑らせて湖に落ちてしまったのだ。

 水中から竿を引っ張られ、腰の入っていなかった自分は竿を持ったまま桟橋から湖中に飛び込んだ。


(それで……それから、どうなった)


 いくら北国とはいえ、夏の湖は湖水温も高まり、裸で泳げるほどになる。

 だが、パニックになって大量の水を飲んでしまったあの時は、あやうく溺れ死ぬところだった。

 父からもらった大事な釣竿も手放して、無様に水中でもがいていた自分を、父が引き上げてくれたのだ。

 桟橋に上げられ、ひとしきり咳き込んでから、そこで漸く自分の釣り具を水中に落としてしまった事に気づく。

 大事な玩具を失くして涙交じりにしょげ返るルーキンを、未だ小さかった妹が指差して笑っていた。


『ユーラってば本当にドジね!』


 けらけらと楽しげに笑う妹に、馬鹿にされた兄はむきになっていきり立つ。

 

『うるさい!お前は釣りをやったこともないじゃないか』


『ユーラだって今日が初めてじゃない!』


 鼻で笑って言い返してくる三歳年下の妹に、彼は顔を真っ赤にして拳を握りしめ―――……



 ――――記憶が瞬き、視界が暗転する。

 

 数度の瞬き。

 次に視界に映ったのは、机に広げられた色褪せた地図。鼻を突いたのは古い染料の匂い。

 睡眠不足からくる微かな偏頭痛をこめかみを揉んで誤魔化すと、ルーキンは壁掛けの時計に視線を向けた。

 つい先ほど確認した時より30分ばかり経過していた。

 モスクワからの捜索指令を受けてより、既に丸二日間は寝ていなかっただけに、気付かぬうちに意識が落ちていたようだ。


(寝入っていたか)


 微かに頭を振って、残る眠気を追い出す。

 衛視隊本部での短い打ち合わせの後。ルーキンはそのまま本部に乗り付けるのに使ったエムカに飛び乗って、都市周辺の非常線と検問を実際に見て回ったのだ。

 検問に配置された各部隊にはNKVDの分遣隊が付き、目を光らせている。

 実際のところ、ヴェンツェル一派の追跡に関して、王国側から供出された部隊の信頼性などそこまで当てにできたものではなかったが、それでも監視の目がある限りは露骨なサボタージュは防ぐことができるだろう。

 だが……


 その時、部屋の扉がノックされ、ルーキンの思考は中断された。

 

「失礼いたします、大佐パルコヴニク殿」


 入室してきたNKVD軍の大尉カピターンはルーキンの前で敬礼すると、報告を始めた。


「現状、各検問からはそれらしい報告は上がっておりません。市内においても、主だった宿の宿泊名簿等を調べましたが、駄目です……文字通り影も形もありません」


 報告を聞きつつ、ルーキンは己の目頭を揉んだ。

 非常線と検問で逃げ道を塞ぎ、域内の宿場等をくまなく当たれば、大抵は何らかの手がかりが見つかるものだ。

 もちろん、王国政府や魔道院の関連施設などは真っ先に潰している。

 だが、まるでヴェンツェル達は霞か何かのように消えてしまったかのようだ。

 目頭を押さえたまま黙考するルーキンに、大尉カピターンはおずおずと尋ねた。


「捜索開始からの時間経過を考えて…これ以上の市内捜索は無駄なのではないでしょうか?」


「既に、連中はこちらの非常線を抜けていると?」


 ルーキンは大きく頭を振った。

 その可能性は既に検討していた。

 しかし仮にそうだとしても、既に、近隣都市に繋がる全街道は厳重に封鎖されているのだ。

 市内の捜索部隊を外の封鎖部隊に振り分けたところで劇的に捜索効率が上がるわけではないし、王都がヴェンツェルらにとってよく知悉された都市であることを考えるなら、未だ捜索の及んでいない場所もあるはずだ。

 むしろ、ルーキンが考えたのは、逃亡した連中の向かう【方向】だった。


大尉カピターン、君はツルゲーネフを読んだことはあるか?」


 唐突な大佐パルコヴニクの問いかけに、大尉カピターンは些か面食らったようだった。


「……いえ、残念ながら」


「そうか。彼はなかなか興味深い警句を残していてね。なにか失せ物を探すとき、己の耳の後ろを見るのを忘れるな…と言っているんだよ」


「どういう事でしょう?」


 ルーキンは席を立ちあがり、机に広げられた地図を指で叩いた。

 そこには王都周辺に張り巡らされた非常線と、その展開部隊、さらには街道上の中継駅等を捜索する徒歩パトロール部隊の配置が書き込まれている。


「現状、こちらの部隊が展開しているのは南と西が中心だ。これは連中が国外を目指すことを想定した配置だが、逆に北東方面は比較的手薄になっている」


 王国軍や赤軍からも捜索・封鎖部隊を動員しているとはいえ、王都近隣全周に水も漏らさぬ包囲網を敷くほどの余裕はない。

 必然、逃亡者が向かう公算の高い国境よりの街道が重点的に捜索され、そうでない街道に回される人員は少ない。

 それでも、各都市に繋がる主要街道は北東方面も全て封鎖されているので、どこかの都市に逃げ込もうとする者がいればたちどころに発見できるはずだった。


「連中が単純に国外逃亡を企図しているなら、この配置で問題はない。だが逆方向…東に向かった場合はどうなる?」


「まさか…それでは敵地に近づくことにますよ。それに、そうならば連中のほうから我々の懐に飛び込んできてくれることになります」


「魔道院の連中から聞いたろう。ヴェンツェルは王国政府が把握していない独自の拠点を持っている可能性がある。主要都市に赤軍が展開しているとはいえ、ここで行方を眩ませられると、かえって厄介なことになりかねない。連中がもし、逃亡ではなく我々への反撃を企図しているとしたらなおさらだ」


 仮にここで連中の足取りが途切れた場合、魔術に関するノウハウが欠落した自分たちではヴェンツェル一派の次の行動を予測するのも難しくなるだろう。

 最悪なことに、国内には連中が武装するための拠点が多数存在するようでもある。追い詰められた鼠にひと噛みされるまえに叩き潰さなければならない。


(取り越し苦労なら…それに越したことはないが)


 クラリッサをはじめとした、幾人かの魔術師との交流を通じて、触り程度の魔術知識は有するようになっている。

 実際のところ、身一つで逃げだしたヴェンツェル達にモスクワが危惧しているほどに大それた真似ができるとはルーキンには思えなかった。

 せいぜい、対ソ講和を拒む軍部強硬派を取り込んでパルチザンを組織する程度が関の山ではないのか。

 だが、ベリヤを含めた上層部はそう考えてはいない。それに、仮にルーキンの予測が正しかったとしても、それが戦後への大きな憂いとなるであろうことは確実だった。

 

 暫く地図に視線を落とし、紙面に書き込まれた情報を睨んでいたルーキンは、ややあって自身の内に浮かんだ危惧をより深めたようだった。


「東と北にも検問はあるが…こちらは主要街道のみだ。支道は入るも出るも自由。都市間の出入りは現状置いている検問だけでもカヴァーできるだろうが、東部には衛視隊が押さえていない遺跡などもあるという。隠れ家には事欠かないはずだ」


 このとき、ルーキンが想起したのは転移以前。ソ連邦国内でNKVDを悩ませてきた旧バルト三国のパルチザンのことだ。

 彼らは14世紀頃から存在する、かつて海賊が使用していたような地下通路やトンネル等、複雑に入り組んでソ連政府も把握できていないような地形障害を利用して、ソ連官憲の追跡を巧みに掻い潜っていた。

 モラヴィアの魔術師たちが彼らの古代遺跡群で似たような行動に出ないと言い切れるだろうか?第一、モラヴィア政府側が把握していないという連中の秘匿拠点にしても、まさにそういった遺跡群こそあつらえ向きではないか。

 大尉カピターンは困惑したようにモスクワ本部の大佐パルコヴニクを見返す。 


「しかし大佐パルコヴニク。それをやるには人員の都合が…」


 現時点ですら広大な捜索範囲を前に人員不足に喘いでいるNKVD軍からすれば、これ以上捜索範囲を広げられるのは勘弁してもらいたいところだろう。

 渋る大尉カピターンにルーキンが何か言おうとしてところで、部屋のドアを突き破らんばかりの勢いでクリコフ中尉が飛び込んできた。

 ルーキンと大尉カピターンの姿を確認すると、大股で歩み寄ってくる。


大佐パルコヴニク、いましがた連絡がありました。30分ほど前に北の検問に展開する王国軍部隊が、突破を図ろうとした魔術師の一団と交戦したようです」


 跳ね上がるように席を立ったルーキンは、地図を手繰り寄せて部下に続きを促した。


「どこだ?」


「ここです」


 上官の短い問いかけに、クリコフは地図の一点を指差した。

 

「検問に派遣したこちらの連絡員リエゾンではなく、付近の捜索に当たっていた哨戒部隊からの無線通信で判明しました。ただちに付近のパトロールを急行させたのですが―――」


 そこで一瞬、クリコフは口ごもった。

 なにを躊躇っているのかと訝るように地図から顔を上げたルーキンは、そこでクリコフの表情が酷く青褪めているのに気付いた。


「―――何だフェージャ」


「……そのパトロールとも先程から通信が途絶しております。途絶直前の通信内容から、急行中に襲撃を受けたようです」

 

 ルーキンは忌々しげに表情を歪めると、自らのホルスターに収まったナガン・リヴォルヴァーの銃杷を掴んだ。

 その挙動に、クリコフの後ろに立つビューロウ少佐がぎくりと表情を凍り付かせて固まる。

 無言で拳銃を引き抜いたルーキンは、手慣れた動きでローダーをスライドさせて弾倉を確認してから直ぐにホルスターに戻した。

 続けて椅子に引っ掛けてあった自身のオーヴァーコートを肩に引っ掛けて机上の地図を引っ掴む。


「検問から30キロ四方の全パトロールに達せ。包囲を固めて連中を絶対に逃がすな!それと、ここに直ぐ車とオートバイを回せ。私も現地に向かう」


了解ダー。それと、車に関しては既に手配しておきました」

 

 手回しの良い部下に軽く頷きを返し、そこでクリコフの後ろに立つ衛視隊少佐の強張った表情に気付く。

 ルーキンは一瞬きょとんとしてから、先ほどの己の挙動が誤解を招いたことに気づき、憮然とした。


「こんな報告ひとつで射殺などせん。……フェージャ。貴様はすぐに私の命令を通達しろ。――ああ、それと万一に備えて近隣の赤軍部隊も動かせ。この検問に最も近いのは―――53狙撃師団が。…急を要する事態だ。命令は師団本部に直接ねじこめ。師団長が捕まらなければ命令系統を上から順に当たって、人員を確保しろ。渋るようならベリヤの命令書をちらつかせて構わん。行け!」


 クリコフが飛び上がって部屋から出ていくのを見送ると、ルーキンはコートを着ながらビューロウに水を向けた。


「君はここに残ってクリコフ中尉とともに無線の番だ。助言が必要になったら逐次連絡を入れるから、常に張り付いておくようにな!」


 言い終わると同時に身支度を整えたルーキンはビューロウの返答を待つことなく部屋を飛び出していった。















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