第43話 騒乱
1941年 9月16日
モラヴィア王国 王都キュリロス西部 トレド王国モラヴィア駐箚大使館
この日。モラヴィア王国駐箚トレド王国大使フリオ・デ・ウルバーノ伯爵は、モラヴィア政府との恐らくは最後となるであろう交渉を行うために、外務省へ向かおうとしていた。
最初の対モラヴィア折衝以来、モラヴィア側の窓口であったルンゲ侯爵は現在王都を離れているため、ウルバーノ伯が今回会見を行うのは、副大臣相手となる。
交渉の帰趨如何によっては戦争へ至る可能性すらある重要な交渉に、責任者である外相が出張らないという事実。
これを大きな侮辱と捉える者もトレド側には少なからずいたが、実際のところモラヴィアにとっては吹けば飛ぶような弱小国との交渉よりも、東から王国全土を飲みこまんとする異世界軍への対応の方こそ焦眉の急であった。
「当然だろう。国土の半ばを喪いつつある現状においてさえ、モラヴィアの国力・軍事力は我が国よりも遥かに優越しているのだからな」
モラヴィア側の交渉に対するおざなりな姿勢に憤る下僚たちに、ウルバーノ伯は冷ややかに告げた。
仮に……もし仮にモラヴィアが東と南の長大な戦線において停戦を実現させるようなことがあれば、未だ戦力を残すモラヴィア魔道軍は自らの食糧庫を守るべく直ぐ様、西へと矛先を変えてトレド王国領へと雪崩込むだろう。
そうなれば、トレドは領土拡張の好機から一転して亡国の瀬戸際に立たされることになる。
(しかし……本国も焦りすぎだ。いくら神国の認可を得ているとはいえ)
ウルバーノ伯からすれば、トレド本国政府が求める外交要求は現時点で行なうものとしては強硬かつ性急に過ぎるように思えた。
本日行われる交渉において、トレド王国は先日モラヴィアに対して手交した最後通牒の回答を受けることとなる。
ウルバーノ伯の予測では、かなりの確率でモラヴィアは突っぱねるだろう。その先に待つのは開戦だ。
モラヴィアが現状の窮地から挽回できる公算は限りなく低いが、今しばらくはその軍事力の弱体化を見届けるべきではなかったかとも思う。
いかに弱体化していようとも、トレドのような小国にとって列強とはそれほどの相手なのだ。
とはいえ、今回の対モラヴィア強硬姿勢は何も全てが欲得からくる軽挙で行われたものではない。最大の原因は外部からの外交圧力によるところが大であった。
神聖同盟ではない。同盟にとって、トレドの存在価値はモラヴィアと大陸中原の精霊神教諸国を隔てる緩衝国としてのものであり、モラヴィア王国自体が消えてなくなるのであればトレド王国を肥え太らせても意味などないからだ。
今回、トレド本国を動かした相手。それは精霊神教国にとって、ある意味では同盟以上に抗い難い。精霊神教を奉ずる諸国においては宗教的権威という点でネウストリア皇帝すら凌ぐ西の教皇……
ウルバーノ伯は憮然とした面持ちで頭を振ると、大使館の正面玄関へと歩みを再開した。
(いずれにせよ……賽は投げられた。事態はもはや我らの手にはない)
玄関をくぐり、門前に待たせてある二頭立ての馬車に乗り込もうとしたところで、大使の耳に背後の大使館玄関から慌ただしく駆けてくる金属質な具足の足音が飛び込んできた。
「か、閣下!お待ちください」
「……何事かね」
馬車の扉に手をかけたまま振り返ったウルバーノ伯の前には、大使館警備責任者を務める騎士隊長が息を微かに荒らげつつ佇んでいた。
その顔色は病人のように青褪め、表情は緊張にこわばっている。
そのただならぬ様子に、ウルバーノは眉を顰めて問い質した。
「何か変事でもあったのか?」
騎士隊長は首肯すると周囲を素早く見渡してから言った。
「現在、王都内で何者かが軍事行動を起こしている模様です。大使閣下におかれましては、暫く館内の結界区画に避難されますよう」
「な…に?」
一瞬、目の前の騎士隊長が何を言っているのか理解できず、呆気にとられたように聞き返す大使。
その耳に、東の方角―――王都官庁街の存在するであろう区画のほうから小さく爆発音が聴こえてきた。
弾かれたようにそちらを向く大使。建物に遮られているために遠くまで見渡すことはできないが、東の方角から幾筋かの煙が地上から空へとたなびいているのが見えた。、
「莫迦な……」
軍事騒乱?この王都で?
引き攣った表情で呻く大使に、騎士隊長が急かすように告げた。
「閣下。現在判明している状況を御説明致しますゆえ、まず館内にお戻りください」
「……解った、そうしよう」
不安を押し隠して首肯すると、周囲を護衛の騎士たちに囲まれながらウルバーノは大使館内へと踵を返した。
「つい先ほど配下の魔法騎士より、王都全域に都市外との魔力波交信を遮断する結界が展開されたとの報告を受けました。その後、官庁街と宮城を中心に戦術級の魔術行使が散発的に行われているようです」
館内の廊下を歩きつつ口早に要点を報告する騎士の声を聞きながら、大使は苛立たしげに頭を振った。
「騒乱が起きているのはわかった。問題は、この騒ぎを起こしたのが何処の誰かという点だ」
軍部によるクーデターか。あるいは有力貴族の謀反か。
可能性で言えば、どちらもありそうなことだ。
現在のモラヴィアの衰亡を思い致せば、有力貴族の中にも自らの保身の為に敵に寝返りを考える者もいるやもしれない。
あるいは主戦派、講和派による主導権争いの延長上にある暴発行動とも考えられるが……どちらにせよ情報が不足している。
「君の配下の者を幾人か官庁街に向かわせて探りを入れよ。あまり悪目立ちせぬ格好でな」
間諜めいた任務に微かに眉を顰めた騎士隊長だったが、表立っては何も言わず首肯した。
「挺身任務の経験をもつ魔法騎士を平服で送り出しましょう。…万一の際は大使館員身分を利用してよろしいですな?」
「無論だ。」
「では、直ちにかかります」
敬礼して自身の部署に駆け戻っていく騎士隊長の後ろ姿を見送ると、ウルバーノ伯は小さく鼻を鳴らし、歩む足取りをやや緩めた。
傍らを歩く秘書官に、大使館の職員達を結界が張られた区画に避難させるように指示を出し、そのまま自身の執務室ではなく有事の際の避難場所として魔術結界の張られた区画へと向かう。
一通り下僚への指示を出し終えたことで昂っていた気分が落ち着いてくると、いつの間にか全身が緊張に汗ばんでいたことに気づく。
汗を吸った肌着が皮膚に張り付く感覚に不快感を覚えつつ、ウルバーノはこの状況を齎したのが一体何者かについて思案を巡らせた。
(…このような国難の折りに王都で軍事騒乱とは、モラヴィアも終わりだな)
高度な魔道文明を確立し、大陸北部に覇を唱えた列強の断末魔。
それがこのような内部からの自壊によるものになろうとは……
そこまで考えたところで、はたと思い至る。
(確か……書記官のなかにエルフ族の者がいたな。遠見魔術で探らせるか…)
エルフ族は生得的に高い魔力を有し、マナとの感応力も人間と比べてずっと強い。
彼らが行使する精霊魔術は、人間の魔導師が行使するものより大凡3割がた高い威力を持つといわれており、強力な秘蹟魔術師に対して精霊神教国が対抗できる貴重な戦力といえた。
無論、上手くいくかどうかは、現在王都内に張られている結界の性質や強度にもよるだろうが……試す価値はあるだろう。
しかし、それにしても――――
「これでは最後通牒どころではないが……さて、魔力波通信が使えぬのでは本国に事態を報告することもできぬし、かといってこのような騒乱を起こす手合いが王都外部との交通を遮断しておらぬわけもなし。暫くは、様子見に徹するとしようかな」
■ ■ ■
大使館の奥まった一室。
騎士隊長と別れた後。ウルバーノ伯が向かったのは大使館として王国より提供されている城館の地下区画だった。
トレド王国大使館が開設される以前、この館を所有していた貴族が自らの魔術研究を行う場所として設えたものであり、トレド側に引き渡される際に技術漏洩につながる秘蹟魔術による結界や防護術式などはすべて取り払われていたものの、元が魔術研究用の施設として設計された区画だけに対魔術防御を施すには誂え向きの構造を持っていた。
自らの駐箚大使館としてこの館を新たに所有することとなったトレド王国政府は、この地下区画を有事の際の避難所、さらには重要書類の保管区画へと改装しており、ウルバーノ伯は部下の大使館員数名を引き連れて、この地下区画の最も奥まった小部屋へと足を踏み入れた。
部屋中央のテーブルに置かれた燭台によって僅かな灯りをともされた薄暗い石造りの小部屋。
燭台の置かれたテーブルには、仰仰しい台座によって固定された水晶球が置かれており、大使の目配せを受けた書記官のひとり―――肩口まで伸びる艶やかな金髪を湛えた青年がそれに歩み寄る。
高位の文官にしては随分と若く見えるその青年の耳は尖っていた。
「やれそうかね」
大使の問いに、青年は眉目秀麗と言ってよい相貌に緊張感を滲ませつつ頷いた。
「恐らく可能でしょう。見たところ、王都を覆っている結界は都市外部との連絡を遮断することを目的としたものです。ただ……相手側に高位の暗黒魔術師がいた場合、こちらの遠見を見抜かれる恐れがあります」
「そちらのことは案ずるに及ばぬ。この騒乱を引き起こした者が我らに敵対する意思を持っていたなら、とうにこの城館まで攻め寄せてきている筈だ。それに、王都の現状を少しでも把握しなくては我ら自身どう動くかすら定められん」
「承知いたしました」
大使の言葉を受けて、書記官の青年は覚悟を決めたように首肯すると、自らの掌を水晶球へと翳し、魔術詠唱をはじめた。
青年から発せられる魔力を受け、水晶球の鏡面が徐々に輝きを宿していく。
やがてその光は揺らき、形を変え、徐々に一つの風景となって水晶球に映し出されていく。
「これは……」
大使はやや身を乗り出し、その瞳を眇めて水晶球を食い入るように見つめる。
当初。その光景は、あたかも揺れる水面を介して映し出されたように波打ち、ひどく不鮮明だったが、術者の集中が高まるにつれて徐々に輪郭をはっきりとさせていった。
映し出されたのは石造りの広大な城館。そして、その周囲をモラヴィア魔道軍の一団が包囲している。
「あれは…国防省か」
ウルバーノ伯の呟きには、微かに罅割れたような呻きが混じっている。
庁舎内の至る所で剣戟が打ち交され、玄関先からは身柄を拘束された省部の高級将校たちが引き出されていくのが見て取れた。
大使は慄然とした思いを禁じえなかった。
騒乱。それも王国の軍部を監督・統制する国防省が、他ならぬ魔道軍によって攻撃を受けているのだ。
これは暴動などではない。明らかな軍事クーデターだ。
映像が切り替わる。
続いて映し出されたのは、何処かの城館の回廊。
そのさして広くもない廊下を武器を持った将兵が慌ただしく行きかっている。
ウルバーノ伯はそれを見て、国防省内部の光景かと思ったが、直ぐにその考えは、打ち消された。
回廊を行き交う兵士や将校の纏う軍服。
それは通常の魔道軍が着用する白鎧とローブに加え、赤い帯を巻いた特徴的な軍帽を被った王都守備軍―――いわゆる近衛軍の将兵のものだ。
遠くから聞こえる悲鳴と剣戟の音。近衛兵が交戦している―――つまり、そこは宮城か、あるいは近衛の兵営・司令部のいずれかだろう。
回廊を抜け、近衛の将兵たち一団が駆け込んだのは、何かの議事堂を思わせる広々としたホールだった。
『総員散開せよ!』
近衛の指揮官らしい女性軍人が声を張り上げ、それを受けて近衛兵たちは己の杖を、長剣を手に周囲に散らばる。その数は指揮官も含めて10名ほど。
直後、両開きの扉を突き破らんばかりの勢いで、同じく純白の軍衣を纏った魔道軍の兵士たちが乱入してくる。
そこから始まったのは一方的な殺戮だった。
杖を構えた近衛兵が魔力弾を撃ち放ち、結界の展開も行わずに突入を試みた歩兵の集団を纏めて吹き飛ばし、続いて防護結界によって身を守りつつ飛び込んできた魔道兵達を、瞬く間に間合いを詰めた近衛剣兵が容易く斬り伏せていく。
20を数えるうちに、18人程はいた侵入者たちは尽くが広間入口付近にその屍を晒すこととなった。
『簡易結界を準備せよ。叛徒どもの第二波が来るぞ!』
しかし、近衛兵たちの顔に余裕の色は欠片も浮かんでいない。
緊張に満ちた指揮官の声に、再び入口を囲むように陣を組む。
異様な沈黙の中、近衛兵たちは油断なく広間の入り口を注視し、己の武器を構える。
【遠見】によってその光景を俯瞰する大使たちは、先程の戦闘の衝撃から立ち直れぬままに、茫然とその光景を見ていた。
その時。
一瞬、遠見の映像が揺らいだかと思うと、広間を黒い旋風が奔り抜けた。
直後、入口の正面で杖を構えていた近衛兵二人が首筋から鮮血を吹き上げて崩折れる。
鋭兵二人を一瞬で屠った異形―――そう、正しくそれは異形だった。
獅子、狼、鷲の三つ首をもった巨大な四足の魔獣……魔道軍機鎧兵団が擁するキメラ獣である。
『魔道兵との距離を詰めさせるな!剣兵かかれ!』
指揮官の号令を受け、長剣を鞘走らせた近衛兵たちがキメラ目掛けて殺到する。
その背後から、短杖を掲げた指揮官が短い詠唱と共に杖先から氷飛礫を放ち、これに一瞬動きを止めた獣に、近衛兵たちが次々と長剣を突き立てる。
キメラ三つ首の瞳がカッと見開かれ、石の壁を震わせるほどの獣の咆哮が響き渡る。
その禍々しい魔獣の叫びに、水晶を眺めていた文官のうち幾人かは怯えたようにヒッ!と悲鳴じみた声を上げて己の耳を塞ぎ、ウルバーノ伯も我知らず水晶から後退った。
恐ろしい魔獣の咆哮。その余韻覚めやらぬうちに、続けて巻きおこる断末魔の絶叫。
それを放ったのはキメラに剣を突き立てる近衛兵達だった。彼らが自らの剣を突き立てたキメラ―――その肢体から不意に生じた触手が、彼らの胸板を甲冑もろとも貫いていたのだ。
悲鳴が止み、続いて近衛兵たちの口からヒュゥ…と空気の抜けるような音。その軍帽から覗く金髪が、みるみる灰色へ、そして白髪へと変じてゆき、その肌から生気が抜け落ち、瀕死の老人のごとくに変わり果てて行く姿に、周囲の近衛兵たちは声を飲んだ。
『貴様ぁ!!』
激昂の叫びと共に、周囲の近衛兵たちがキメラに斬りかかる。
しかし、キメラの動きは近衛兵たちの想像を絶していた。
束縛し、精気を吸い取っていた近衛兵達から触手を引き抜き、軽々と跳躍して宙に踊り上がると、その強靭な四肢の爪で襲いくる近衛兵たちを次々と引き裂いてゆく。
そこには、つい先程まで魔道軍の反乱兵達を圧倒した精兵の姿は無かった。
愕然とした面持ちで立ち竦む指揮官の前で、近衛兵たちが残らず血泥に沈んだのはそれから数分足らずのことだった。
モラヴィア将兵の死屍によって埋め尽くされた広間に、ただ一人立ち竦む女指揮官。その眼前に、開け放たれた扉をくぐって漆黒の長衣を纏った老魔術師がゆっくりとした足取りで入室してきた。
『如何ですかな、閣下。我が魔道院新式のキメラの力……これならば異界軍に対しても戦場次第ではそれなりに優位に戦えるものと自負しております』
周囲に転がる屍に一顧だにすることなく、老魔術師は満面の笑みを浮かべて女指揮官に語りかけた。
『その法衣は魔道院の…そうか……貴様らが……貴様らがこの騒乱を…』
部下たちの死を前に、虚脱していた女指揮官の表情が徐々に怒りに歪められていく。
『左様。売国の輩……王都守備軍長官ヴェロニカ・ファルターメイヤー中将。大モラヴィアの栄光を汚さんとする売国の輩。貴殿にはここで死んでいただく』
老魔術師の言葉を合図にするように、魔道軍の軍衣を纏った兵士たちが広間に雪崩込んでくる。
統制のとれた動きで近衛兵たちの屍を踏み越え、反乱兵たちは売国奴の生き残りである女に剣を突きつける。
周囲を囲まれ、剣刃に包囲されながらも、女将軍は怒りに満ちた視線で老魔術師を見据えていた。
『売国?戯けたことを言う。貴様にはこの国の…今の軍の現状がまるで分かっていない。このままでは王国全土が精霊教徒と異世界人によって蹂躙されるだろう。そうなる前に戦争の幕引きを図らねばならんのだ。それを貴様たちは―――』
続けて詰ろうとする将軍の言葉を、老魔術師は鬱陶しげに遮った。
『保身のための理論武装など聞く価値はありませんな。王国の誇りのため、死になさい』
『誇りだと!馬鹿げたことを―――』
激昂し、老魔術師に詰め寄ろうとする女将軍を永久に沈黙させたのは周囲を囲む剣刃だった。
刃が次々に振り下ろされ、絹を裂くような女の絶叫が響き渡り、やがてそれが消えた後はただ肉塊に刃を突き立てる音のみが部屋に木霊した。
しばらくの間、どこか機械的な動きで死体に幾度も剣を突き立てる兵士たちを眺めていた老魔術師に、後ろから声がかかる。
『導師。こちらは終わりました。……その者、既に絶命しておりますが』
老魔術師が振り向くと、そこには魔道院の法衣を纏った年若い魔導師が立っていた。
その視線は絶命した近衛の将軍の亡骸へと向けられている。
『この者、クリストフ殿下の養育にも携わり、畏れ多くも王室の方々からそれなりに寵を得ておるようだ。万一にも生き延びるようなことがあっては不味いでな。治癒魔術などで蘇生されぬよう、念入りに刻んでおかねばならん』
『……畏まりました』
こみ上げてくる吐き気を堪えるように、若者は兵たちに切り刻まれ、徐々にその原型を失っていくかつて人間だった肉塊から視線を逸した。
顔を青褪めさせている年若い導師に老魔導師は苦笑を浮かべると、ふと何かに気付いたように中空を見上げた。
『何やらコソコソとかぎ回っておるようだが……貴様たちが出る幕はない。大人しくしておれ』
猛禽を思わせる笑みを浮かべ、老魔導師は此処にはいない何者かに向けて、傲然と言い放った。
1941年 9月16日
この日。モラヴィア王都キュリロスにおいて、魔道院及び軍部の対ソ強硬派による一斉蜂起―――事実上の軍事クーデターが勃発した。
その発端となったのは国防省庁舎内における国防大臣の暗殺。そしてそれに続く、近衛軍一部部隊による宮城・主要官庁の襲撃であった。
モラヴィア王国で近衛軍と呼ばれている組織は大きく分けて2種類。宮城警固隊と王都守備軍に分けられ、前者は内務省、後者は国防省の所掌する組織となる。
今回叛乱に加わったのはそのうちの後者――王都守備軍の第1魔道兵連隊を中心に、王都市街の各所に屯する小隊・中隊規模の警衛隊を幾つか加えた混成部隊だった。
突如王都全域を覆った魔術結界を合図とするかのように動き出したこれらの部隊は、宮城、宰相府、内務省、国防省、さらには彼ら自身の上級司令部である王都守備軍司令部といった政軍の統帥機関を襲撃し、多数の魔導師を擁する警固隊が展開した宮城を除き、これを占拠することに成功している。
唯一、政府側が防衛に成功した宮城にしても、周囲を完全に叛乱部隊によって包囲されており、かつ王都全域を覆う結界のために外部に救援を求めるのは難しかった。
そして、この騒乱と時を同じくして王都の各所で反乱部隊による政府要人の襲撃・暗殺が相次いだ。
このとき殺害された政府・軍部高官は以下の通り。
内務大臣 コルネリウス・ベレンキ伯爵
内務副大臣 アレクシス・ボイアー男爵
宮内大臣 エリク・ヒルデブラント侯爵
副宰相 シリル・コーレンベルク侯爵
国防大臣 ハルトムート・ロイター元帥
飛兵総監 ベネディクト・アレント侯爵・飛兵大将
王都守備軍司令官 ヴェロニカ・ファルターメイヤー女伯爵・魔道兵中将
宮城警固隊副司令官 ヘンドリク・サンドラー魔道兵少将
いずれも軍部・政府内において、いわゆる対ソ和平派と目される人々である。
王国建国以来、前代未聞の事態であった。
国王の膝下。精強無比を知られる近衛魔道軍に守護された列強モラヴィアの王都。
その中心地たる宮城と、それを取り囲む王国執政府の官庁街において王都の守りであるはずの近衛軍の手によって叛乱が引き起こされたのだ。
事変当時、宮城へと参内していた王国宰相アルベルト・ハーロウ伯爵は王都を荒れ狂ったこの血生臭い騒乱からどうにか逃れる事に成功していたが、宮城自体が叛乱部隊の包囲下に置かれ、加えて魔術結界によって王都外部との連絡すら遮断された状況では手の打ちようがなく、加えて対ソ和平派に与した各省庁の高官たちの多くが叛乱部隊によって殺害されたことで、残された官僚団は現状確認に忙殺され、政府機能そのものが半ば麻痺状態に陥いる事態となったのだ。
そして、皮肉にも王都におけるこの騒乱勃発がソ連・モラヴィア間の停戦交渉に新たな局面をもたらすことになる。




