第19話 誤断
1941年8月9日17:00
モラヴィア王国グレキア半島東部 北部方面軍司令部
目の前に広げられた地図を眺めつつ、ポポフは参謀団の戦況報告を黙然と聞いていた。
「――――以上、空軍機からの偵察情報と合わせてみますと、前面のモラヴィア軍部隊に関しては完全に指揮系統を喪い潰走中と考えて宜しいかと思われます。」
サハロフ中将が報告を終えると、ポポフはつい先刻戻ってきたネウストリアの派遣武官に尋ねた。
「偵察では、敵地上部隊は既に組織的な抵抗ができる状態ではないようだが、この状況で、何か魔術的な反撃は考えられるかね」
「―――魔術とは、何も人知を越えた奇跡の業ではありません。攻勢に出るにあたってモラヴィア野戦軍で最も注意を払うべきは機鎧兵団による機動防御ですが、それも先の砲撃で壊滅した様子。制空権をこちらが握っていることを考えても、もはやモラヴィア側にまともな抵抗手段は残されていないでしょう」
我々から見れば全てが常識外れだよ、と心の片隅で毒づきながらも、もポポフはその言葉に安堵した。
「なるほど。少なくとも、進軍中に方面軍纏めて海の上にでも飛ばされたりすることはないわけか」
「そのような技術があるなら、今頃この世界はモラヴィアが覇権を握っているでしょう」
やや呆れたように言うネウストリアの魔術師。
彼に言わせれば、赤軍の砲火力や動員力のほうが余程非常識だ。
モラヴィア側が展開していた防御結界は彼の見るところ要塞級……戦場で行使される魔術としてはほぼ最上級のものだ。
それを一刻足らずの内に破壊し、内部に温存された梯団……ネウストリアの軍編成における一個騎士軍相当の戦力を砲撃のみで殲滅してしまうなど、常軌を逸しているとしか思えない。
魔力波通信で報告は送ったが、今頃、本国では上へ下への大騒ぎだろう。
「よく分かりませんな。ロシア本国をこの世界に呼び寄せることのできる技術を持った国だ。方面軍一個を移動させる方が容易なように思えるが…」
納得がいかない様子で参謀のひとりが頭をひねる。
ヨーロッパからアジアに跨る広大なソヴィエト・ロシア本国を異なる世界に移動させることに比べれば、一個方面軍を数百キロ移動させる方がよほど容易なように思える。
それは他の者達も同様だったようで、派遣武官に視線が集中する。
「召喚魔術というものは多くのマナを必要とし、かつ幾つもの触媒と魔術師、さらには年単位の準備期間を要します。移動標的に対してこれを施術するのは不可能なのです」
さらに言うなら―――、派遣武官は続けた。
ソヴィエト連邦の広大な領土を喚び出すような大魔術は、それこそ国が傾きかねないほどの大事業のはずであり、そうそう頻繁に行えるものではない。
マナを大量に消耗することから考えても、自国領土に重大なダメージを与える魔術をそうそう頻繁に行なうことはできないだろう。
(第一……)
言葉には出さず、派遣武官は内心で漏らした。
これだけ圧倒的な戦力差があるのだ。
モラヴィアが追い詰められ、自暴自棄になってソ連を巻き添えに自滅を謀ったところで、召喚魔術を施術してのけるような時間的余裕は与えられないだろう。
ソ連側は魔術の力に随分と怯えているようだが、彼からすれば赤軍のほうが余程恐ろしい。
おそらく、眼前に展開していたのがモラヴィア軍でなくネウストリア軍―――それも赤軍と同規模の一個総軍であったとしても、敗北は免れないだろう。
(この国は……危険すぎる)
派遣武官が抱いた思い、それは魔力波通信によって報告を受けたネウストリア軍首脳陣が抱いたそれと、全く同じものだった。
1941年8月9日20:00
モラヴィア王国グレキア半島西部
都市ブルーノ モラヴィア新領土鎮定軍司令部
夜の帷に包まれた東部属州最大の貿易都市。
その中心近くに存在するモラヴィア王国新領土鎮定軍司令部。その建物の至るところに煌々と明かりが灯り、廊下を幾人もの軍人たちが慌ただしく行き来している。
4階建ての建物の最上階に設けられた戦況報告室に、男の怒号が響き渡った。
「一体これはどういうことだ!?」
新領土鎮定軍司令官、西グレキア方伯アウグスト・ハウゼン魔道兵大将はデスクに拳を叩きつけて居並ぶ幕僚陣を怒鳴りつけた。
先刻、魔力波通信によって報告された前線の状況は信じ難いものだった。
【壊滅】だ。
敵を発見したでも無ければ交戦開始でもない。
前線から送られてきたのは体裁の全く整っていない断片的な報告だったが、その内容は自軍の壊滅とソ連赤軍の国境突破を知らせるものだったのだ。
この報告を確認した鎮定軍司令部は、当初これを何かの間違いだろうと一笑に付し、再度前線司令部に確認のための通信を送った。
対ソ国境北東部付近に展開するグレキア梯団は5個兵団80000の兵力を有し、それも内4個兵団が魔道軍所属の精鋭である。
1個連隊あれば軍に要塞並の防御力を与えるとまで言われる結界魔術のエキスパート集団―――虎の子の独立防護連隊も投入されており、その質を考えれば、たとえネウストリアの一個総軍の攻撃を受けても数週間は持ちこたえることのできる戦力である。
現状国内でこれに匹敵する軍は、ネウストリア国境に展開する南部国境梯団しかいない。
しかし、幾度試みても前線との連絡は回復しない。ここにきて、事態が容易ならざるものだとモラヴィア側も理解はしたものの、それでも梯団そのものが壊滅したとは考えなかった。
常識的に考えて、5個兵団からなる野戦軍が、後方司令部にまともな報告を送る暇も無く一瞬で壊滅したなど考えられない。
魔道文明を持たないソヴィエトが魔力波通信を妨害する手段を有しているとは考え辛いが、それでも技術面でのトラブルが起きたと考える方が現実的だった。
とはいえ、通信の内容から考えて、ソヴィエト側が国境を侵犯したのは間違いない。
ならば、早急に前線に増援を送る必要がある。
ハウゼン大将がこの時点で下した命令は後置されている予備旅団から装備・練度が比較的良好なものを選んで前線に送り出すことと、本国への開戦の報告だった。
徴兵軍の集結が済んでいないのが痛いが、防戦に努めれば持久は可能だろうとハウゼンは考えた。
だが、暫くして東部・南東部の国境をグレキア梯団が対峙していたのとほぼ同規模の軍勢が突破したとの報告が立て続けに入り、さらに数刻おいて東部国境よりに点在する小都市群から次々に送られてくるようになった救援要請。
これらを目の当たりにしては、さすがに事態の深刻さを悟るしかない。
信じ難いことだが、既にグレキア梯団は戦力として計上できない存在と成り果てているらしい。
そして、場面は冒頭に戻る。
「蛮人ども相手に何をやっておるのだ!直ぐに後方の予備軍を纏めて迎撃軍を編成にかかれ!」
頭に血を昇らせている司令官に、恐る恐る幕僚が意見具申する。
「しかし閣下。予備旅団の多くは二線級の、それも歩兵部隊にすぎません。魔道軍主体のグレキア梯団が短時間で撃破されていることを考えますと、このまま送り出しても各個撃破の好餌となるだけです」
「地方軍に要請して、近在の魔道兵部隊を組み込むべきです。その上で本国の増援を―――」
口々に言い募る幕僚陣を、ハウゼンが再びデスクに打ち降ろした拳の音が黙らせる。
「ならば直ぐに手配しろ!一刻も早く奴らの足を止めねば東部属州が蹂躙されるぞ!」
「直ちにかかります」
敬礼し、足早に司令室を出ていく幕僚陣を見送ると、ハウゼンは通信のための魔術を起動した。
まずは本国司令部に直談判して魔道軍の増援をなんとしても毟り取る。まずは手駒を揃えなくては話にならない。
そしてもうひとつ、ソヴィエトが魔道文明を持たないというのであれば、魔道院が保有するある技術が有効に働くだろう。
「たかが召喚獣風情が思い上がりおって…!」
ソヴィエト赤軍が先制攻撃をしかけてきたという事態そのものが、ハウゼンをいらだたせていた。
モラヴィア人によって召喚され、その命が尽きるまで召喚主に奉仕することを義務づけられた奴隷どもが牙を剥いてきたのだ。
彼にしてみれば不遜も甚だしい。
「身の程というものを思い知らせてくれるぞ、蛮人ども」
呪詛のように呟くハウゼン。しかし、彼は理解していなかった。
機械化された赤軍の移動速度、火力。
さらには【縦深作戦】
前世界において、膨大な動員兵力と火力を備えた欧州陸軍大国の防御システムを食い破るべく策定された、機械化部隊と航空機による数百km単位に及ぶ大突破。
奇襲と、それに続く連続した攻勢作戦によって相手国の防御システムを瞬時に無力化し、防御側が体制を立て直す暇も与えず敵国の縦深を一撃する。
最精鋭の魔道軍部隊が壊滅した今、モラヴィア東部属州に赤軍に抗しうる戦力は最早存在しておらず、赤軍の尖兵たる西部・北西方面軍はグレキア梯団と北部方面軍の交戦を横目に既に国境地帯を突破。
無防備に広がるモラヴィアの領邦都市群を守備軍諸共飲み込みつつ、一路、東部属州最大の都市、ブルーノを目指して進みつつあった。