第18話 開戦
1941年 8月9日
ソヴィエト連邦 モスクワ
ここ2.3日の間降り続いた雨が上がり、うっすらと残る雲の合間に晴れ間が覗く。
クレムリン、閣僚会館のレセプションルームに居並ぶ政治局員、将軍、提督たちを尻目に、ヨシフ・スターリンは全身から抑えきれぬ高揚感を滲ませつつ窓辺に歩み寄り、外から差し込む朝日に眩し気に目を細める。
そこには、ほんの数日前まで漂っていた重苦しい雰囲気はない。
「――――同志諸君。私は今日、このときほど爽快な気分でこの部屋のドアをくぐった事は無い」
一言一言を強調するように区切り、いささか芝居かかった身振りを交えつつ、スターリンは言った。
それは転移以来、祖国を見舞った数々の災厄を思い起こしているようであり、自身の弁舌に酔っているようでもあった。
「反攻だ。我が祖国に苦汁を嘗めさせ、搾取と隷属を強いんとする蛮人どもに、我々の、ソヴィエト人民の手で裁きの鉄槌を下す時がきたのだ」
振り返り、部屋に集った者たち。STAVKA(最高司令部)を構成する軍事委員達ひとりひとりを順繰りに見渡す。
最後に視線が止まったのは、昨日付けで赤軍参謀総長に着任したボリス・シャポシニコフ元帥だった。
「元帥。貴方のことだ、既に準備は万全のことだろう。吉報を期待している」
「最善を尽くします」
言葉少なに応える元帥に、幾人かが渋い顔をするが、スターリンは気にもとめない。
スターリンが将校に対して求めている資質は職業軍人としての有能さと、政治的信頼性だ。
この二つをスターリンの知る限り最も高い水準で両立させているのが目の前の将帥であり、それを知るゆえに、巧言令色などは期待しない。
新進気鋭という点においてはゲオルギー・ジューコフがいるものの、彼の軍歴はどちらかというと軍令面に偏っており、軍政・軍令両面での幅広い経験・見識や組織の管理手腕という点も合わせれば、やはり一歩及ばないだろう。
「作戦発動まで、あと30分。待ち遠しいじゃないか、ええ?大使殿も気を揉んでおるようだ。どうかね、モロトシヴィリ?」
どこか嘲笑するような笑みを口元に貼りつかせ、スターリンは問う。
モロトフは外交官らしい品の良い笑みを浮かべつつも、スターリンに同意するように頷いた。
「コーバの言うとおりですな。作戦の発動日時を伝えて以来、なにかと探りを入れてきています。本国とのやりとりについては、魔術的な手段を用いているのでしょう。こちらで盗聴・解析することはできませんが」
「魔術による諜報・防諜への対策は当局でも策定中です。また、我が保安総局第3課によるヒューミント・シギントによれば、帝国側の対モラヴィア進攻準備は未だ整ってはいないとのことです。彼らは我々の動員スピードが予想以上に早いことに焦り、開戦時期をずらせないものか探っているようです」
横から口を挟むように、ベリヤが自身の所掌するNKVDの諜報結果を報告する。
「シギント…彼らに無線・暗号技術など無いのでは?」
「ええ。ですので盗聴などに気づかれる事もありません」
「……なるほど」
モロトフは肩を竦めて質問するのをやめた。
ここに集うものたちの目に、不安の色はない。
彼らが恐れていたのは魔法という【未知の戦略兵器】と、異世界の【謎に満ちた魔法王国の影】であり、彼我の国力差や具体的な技術レベルが理解出来てしまえば、最早迷うことなどない。
ランチェスターの法則が示す通り、敵側を圧倒する物量と火力で鏖殺するまでだ。
「そうか。我が国に数々の有益な情報をもたらしてくれた彼らに、報いてやりたいのはやまやまだが……私はソヴィエト連邦の書記長であって彼らの皇帝ではない。何よりも祖国の国益のために判断をくださなくてはな」
真面目くさった表情で嘯くスターリンに、古参政治局員たちの顔ににやりと笑みが浮かぶ。
スターリンとしては、表立ってネウストリアとことを構える気はない。
この世界における外様として、仲介に立ってくれる友好国は必要であるし、仲介者であるからには相応の大国でなくては困る。
が、その国と大陸の覇権を分け合おうなどという考えはない。
益体もないやりとりが暫く続き、それも一段落すると、スターリンは壁にかけられた時計に目を向けた。
つられるように、STAVKAのメンバー達も時計に視線を向ける。
時計の針は、丁度、午前10時を差したところだった。
「さて、それでは同志諸君」
一同の視線が自分に集まったのを確認し、スターリンは告げた。
――――――戦争の時間だ。
ほぼ時を同じくして、モスクワから数百キロ離れた対モラヴィア国境で、赤軍3個方面軍。火砲10000門が火蓋を切った。
矢面に立ったのは、モラヴィア新領土鎮定軍・グレキア梯団8万の軍勢である。
動員完了時には11万の兵力を擁することになるこの戦力は、グレキア半島の防衛よりも、むしろソ連領内に進攻することを目的としており、突破戦力としてのキメラや、先のレニングラード戦での機関銃弾幕から得た戦訓として頑強な体躯を持つゴーレム部隊も配備された第1級の戦力と言えた。
ソヴィエト軍が擁する航空機による爆撃に対抗するために、結界の構築に秀でた魔術師も多数が配備されており、後方拠点である都市ブルーノで鎮定軍を統括するハウゼン伯爵・魔道兵大将は「たとえ4倍の兵力差があっても負けはしない」と豪語したという。
準備砲撃に先立ち、空軍によって実施された制空戦と、その後の爆撃を受けながらも防御結界に守られた地上部隊は大きな損害を受けることなく、むしろ接敵後は乱戦に持ち込むことでソ連側の航空攻撃を封じられると目論み、意気軒高だった。
赤軍の突撃を手ぐすね引いて待ち受ける彼らを見舞ったのは、方面軍司令部直轄砲兵による面制圧砲撃だった。
準備砲撃。合間に攻撃調査を挟みつつ、のべ6時間に渡る重砲撃により国境地帯に展開するグレキア梯団を炎神の生贄に捧げつつ、鋼鉄の嵐はモラヴィア領内になだれ込むのだった。
同時刻 ソヴィエト連邦 レニングラード西郊外
北部方面軍司令部
絶え間なく続く砲声を聞きながら、マルキアン・ポポフ大将・方面軍司令官は机に広げられた地図を眺める司令部の面々を、ふと眺め渡す。褐色の軍服が室内を埋めつくす中、一人だけ、場違いな服装の人物がいる。
政治委員でなければ、鬱陶しいチェキストでもない。
白を基調としたローブを羽織った学者然とした青年だ。
暫し迷った末、ポポフは青年を気づかうように声をかけた。
「連絡官殿、大丈夫かね。気分が悪ければ、奥で少し休んでも構わないが」
見ている自分まで体調を悪くしそうなほどに、青年の顔色は悪かった。
砲撃が始まって以来、ずっとこうだ。
魔術戦に関して、作戦司令部に【助言】を行うネウストリアからの派遣武官…武官?とてもそうは見えないが。
何れにせよ、未知の要素である魔術について、少しでも判断材料が得られるのはありがたいことだ。
しかし、初っ端からこのざまでは果たしてどこまで役に立つものか、思わず疑問を覚えてしまうポポフだった。
「――――いえ、お気遣いなく。私にも務めがあります故」
フラフラになりながらもキッと顔を上げ強弁する青年にポポフは参謀長と顔を見合わせた。
(まぁ、良いというなら無理に休ませることもないか。どちらにしろ、この後の攻勢に際しては彼の助言は必要だしな)
どの道、準備砲撃の砲声ごときで倒れられるようではこの先役に立つまい。
頭ひとつ振って割り切ると、ポポフは早速現状の分析にかかった。
砲撃開始から約3時間。
当初、こちらの砲弾を受け止めるかのように、両陣営の間を遮っていた不可視の障壁……結界というらしいが、これは30分と経たぬうちに消滅し、今ではモラヴィア軍陣地に雹のごとく効力射が降り注いでいる。
事前に実施された方面軍航空隊による空爆は大部分が結界によって防がれてしまい、逆に地上から飛んでくる火の玉や氷の飛礫で落とされる者もあったくらいだが、現在は順調に進んでいると言って良い。
他の列強と異なり、ソ連の砲兵部隊は師団、旅団単位ではなく軍・方面軍の直轄として集権的に運用される。
これは共産主義国家の軍隊ならではの厳格な縦割りの命令系統を考えれば、ともすれば柔軟性を損ないかねない危険性を孕んでいる。
だが、主攻正面へ最大の火力を投射することを金科玉条とするロシア伝統のドクトリンを含めて考えれば、攻勢時の破壊力は凄まじいものとなる。
前世界においても列強随一と呼んで良い砲兵戦力を有する赤軍である。
既に頼みの結界も掻き消えた状況で、簡易塹壕すらない平地にあって欧州ロシア各地から限界まで掻き集めた3個軍集団の総攻撃を受けた1個軍がどうなるか等想像力を巡らせるまでもなく明らかだ。
とはいえ、それは現代戦を知る立場だからこそ言えること。
現実の火力戦を初めて目の当たりにする帝国の魔術師にとって、その光景はいかほどの衝撃であったろうか。
出会った当初のどこか高慢な雰囲気―――どうやら将軍・将校が平民上がりばかりであったことがお気に召さなかったらしい―――は跡形もなく消し飛び、今では婦女子のごとく縮こまっている。
…まぁ、細かい齟齬はいろいろとあったが、全体として状況は順調に進んでいる。
「順調……ふん、確かに順調だ。だが、厳しくなるのは狙撃師団を突っこませてからだ。連中の白兵戦は正直手強いぞ」
「事前の砲撃でどこまで削れるか、ですな」
ポポフの呟きに、マドヴェイ・サハロフ参謀長が答える。
二つの軍勢が真っ向からぶつかる場合、基本的に有利なのは防御側だ。
塹壕に身を潜め、機関銃陣地に篭もった敵を破るには膨大な損害を覚悟しなくてはならない。
かつての第一次大戦では、機関銃による火力と、それに拠った塹壕陣地の防御力向上が機動戦を拒否するほどに目覚ましく、当事国は旧態依然としたドクトリンにより膨大な死傷者を出した。
モラヴィアは現代の列強ではない。
剣と槍で武装し、内燃機関すら理解しない未開人……しかし、魔術がある。
市街戦において猛威を振るったキメラ。ガソリン戦車を一撃で棺桶に変える火炎魔術。
先のレニングラード戦では航空優勢を確保しながらも同数以下の相手に対して赤軍は一個師団を失った。
現代、戦車と自動車化部隊による機動力の向上が再び戦争の在り方を変えた。ヒトラーがそれを証明した。
機械化部隊による電撃戦。それはかつて赤軍が先鞭をつけ、いつのまにやらドイツ軍がものにしていた戦術だ。
我々はどうか?機械化部隊の運用において、その経験においては赤軍とて負けてはいない。
しばらく考えこむような素振りを見せてから、ややあって、ポポフは顔を上げた。
「―――砲撃後、第6、第14戦車旅団をぶつける。後続は46師団だ」
「閣下…」
暫し迷うような表情を浮かべた参謀長に、ポポフは苦笑気味に答えた。
「マトヴェイ・ヴァシリエヴィッチ、慎重すぎるのも考えものだぞ。既に魔術に関しての情報も集まっている。あとは我々の定石通りに事を運ぶだけだ。なに、戦力差は歴然。フィンランド戦のようなことにはなるまいよ」
あけっぴろげな物言いに、居合わせた政治委員は渋い表情を浮かべるが、場の空気は幾分軽くなる。
誰もが、脳裏にレニングラードを包んだ阿鼻叫喚の地獄を思い浮かべていた。
ばたり、と突然何かが倒れる音がする。
「……従兵。衛生兵を呼べ」
こめかみを抑えつつ、ザハロフ中将は顔を青くして踞っている青年魔術師を司令部から連れ出すよう指示を出すのだった。
……ポポフはもう何も言わなかった。
モラヴィア侵攻作戦において、その初動第1段階における作戦目標とされたのは、モラヴィア東部に展開する野戦軍―――新領土鎮定軍の殲滅であり、これはソ連側の予定通り―――モラヴィア側としては全くの想定外だったが―――の速さで達成された。
本作戦に投入された赤軍側の実動戦力は、北部(レニングラード及び旧フィンランド国境地帯)北西(旧バルト3国及び東プロイセン沿岸)西部(白ロシア及び旧ポーランド)の3個方面軍。内訳は16個軍、82個師団122万人の兵力であり、このうちグレキア梯団と真っ向から相対したのは北部方面軍(31個師団48万名、装甲車両1100両、航空機1400機)だった。
短い航空戦の後に行われたソ連側砲兵による面制圧は、鎮定軍の主力とされたグレキア梯団を、文字通り一撃で粉砕した。
現代の火力戦を戦うには、モラヴィア軍には全てが足りていなかった。いや、そもそも火力戦というもの自体を理解していなかった。
これを理由にモラヴィア軍司令部を無能とみるのは酷だろう。前世界においてさえ、欧州列強諸国は塹壕戦と機関銃弾幕の洗礼を直に浴びるまで―――数十万の死者を自ら出すまで気付かなかったのだから。
兵器自体やその威力について知っていたとしても、それが戦場においてどのような効果を齎すかまで想像力を働かせるのは難しい。
そして今、モラヴィア軍はこの世界で初めて、現代の火力戦をその身に叩きつけられたのだ。
赤軍の砲撃を僅かな時間耐えた防御結界が破壊された瞬間、攻撃に備えて密集隊形を取っていたモラヴィア戦列歩兵の横列を直撃したソ連砲兵の全力射撃により、モラヴィア側の戦死者は、僅か30分足らずの間に1万のオーダーに達した。
塹壕一つない平野部で、砲列の射界に一個軍相当の歩兵が無防備に密集隊形を取って身を晒しているのだ。
ソ連側から見れば自殺行為以外の何物でもないが、モラヴィア軍にしてみれば先の空爆同様、防御結界で全て凌ぎ切る算段があった。
むしろ、密集することで結界の効果範囲を限定し、魔術師たちの負担を減らす意図があったのだが―――結果としては全くの無意味だった。
魔術師、専従奴隷、貴族、平民関わりなく平等に襲いかかる炎の嵐が数時間かけて過ぎ去った後、残されたのは組織としての体裁すら失った1000人足らずの敗残兵のみだった。
将校クラスの戦死者に至っては、梯団長であるフィードラー魔道兵中将以下、司令部幕僚陣・兵団長・旅団長、連隊長・大隊長クラス(輜重段列含む)までが全員戦死もしくは行方不明というあり得ない状況であり、当然、軍としての指揮系統そのものが崩壊状態だった。
砲撃によって耕され、クレーターだらけの月面のような有様となったモラヴィア軍陣地。戦車旅団に続いて突入した第46狙撃師団は、負傷者もしくは砲撃のショックでモラルブレイクを起こしたモラヴィア軍残兵の掃討と、捕虜収容がその主任務と化したのだった。
1941年8月9日17:00
モラヴィア王国グレキア半島東部 モラヴィア新領土鎮定軍陣地
意識が覚醒した時、彼女の視界に映ったのは広漠たる大荒原だった。
かつてそこには新領土鎮定軍8万の精鋭が轡を並べていた。
創命魔術師の騎乗したキメラ、さながら城塞の如く聳え立ち敵陣を睥睨するゴーレムの戦列。
そして、あのソヴィエト軍飛空艇隊の猛攻から梯団を完全に守りきった軍最精鋭の結界魔術師達。
「一体、何が起きたというのだ?」
呻くように漏らし、ふらふらと立ちあがって周りを見渡す。
無い。文字通り何も無いのだ。
モラヴィア軍将兵も、彼らがそこに居たという痕跡さえ。かろうじて、その名残を留めているのは其処此処に転がっている、爆砕されたストーンゴーレムの残骸くらいだろう。
あの常軌を逸した炎の嵐が、全てを焼き払ってしまった。
発端は何だったか。上空から甲高いヒュルヒュルといった音が聞こえてきていたような気もするが、よく覚えていない。
突如として、鎮定軍が展開する陣全体を炎の柱が包み込んだのだ。
(――――そうだ、ちょうどあの辺り)
呆けたような表情で、彼女――――モラヴィア魔道軍防護連隊の結界術者であるクラリッサ・クローデン魔道兵大尉は、いくつものクレーターが穿たれているあたりに視線を向ける。
そこには、つい先程まで彼女の所属部隊が展開していたはずだった。
あの時、炎の渦がモラヴィア軍に襲いかかった時のことだ。
連隊長の魔道軍大佐が突然焦ったように周りの術者たちに指示を飛ばしはじめるのが見え、それから幾許も経たないうちに、結界を維持していた魔術師達が次々に昏倒していったのだ。
三日三晩休まずに魔術を起動していたわけでもない。結界の状態を常に最良に保つために、戦場のおける軍属の結界魔術師たちは必ず三刻ごとに休息を取ることが義務付けられている。
にも拘らず、十分な魔力を残していたはずの魔術師達が、それこそ丸一個中隊規模の結界術師たちが殆ど一斉に昏倒していったのだ。
同時に、結界の起点として鎮定軍司令部本営を囲う用に設置されていた触媒の水晶柱に次々と亀裂が生じていった。
周囲は恐慌状態に陥り、ローテーションで休息に入っていた術者たちが次々に呼び戻されて結界構築の任に就き、そしてまた、次々に倒れていった。
彼女も部下とともに任に就き――――そこから先の記憶はない。
意識が途切れる間際、何かガラスが砕けるような音を聞いた気もするが‥…どうだったか。
(なぜ自分は助かったのだろう?)
不可解な気持ちに囚われ、身体に異常が無いかぺたぺたさわって確かめる。
ふと、胸元に妙な違和感を覚え、自身が身に着けていたペンダントを取りだす。
建国草創期から続く魔術師の家系である彼女の実家に伝わる強力な護符だ。
幻獣カーバンクルを象った意匠のそれは、見るも無残にひび割れており、今にも砕けんばかりだ。
唐突に、彼女は悟った。あの煉獄の中で何故、自分だけが生き残ったのか。
総身を抗い難い虚脱感が襲い、クラリッサはぺたんとその場にへたり込んだ。
「う……うぅ……」
悪魔だ。
得も言われぬ怖気が全身を貫き、身体がガタガタと震えだす。
歯の根も噛み合わない。
(こんな事が…果たして起こりえるのか!?)
此処には列強モラヴィア軍の精鋭5個兵団、80000の軍勢が居たのだ。
それが僅か数刻の間に地上から抹殺されたなど、もはや人間の成し得る技とは思えない。
まるで神話に出てくる、おごり高ぶった古代魔道文明を滅亡させた黙示録の軍勢ではないか。
魔術師としての矜持、これまで自身の抱いていた常識、その全てが覆され、彼女は蹲って嗚咽を漏らした。
それを見咎める彼女の部下も、上官も最早いない。
「貴女が正しかったというの?ねぇ、ノーラ」
出征に先立ち、王都で言葉を交わした魔術学院時代の同輩を思い出す。
死霊魔術の名門として名を馳せるバーテルス家の次期当主でもあるかつての学友は殆ど泣き出さんばかりの表情でクラリッサの身を案じていた。
一月前に王都に帰還していた異界調査団の一員として、彼女の脳裏には壊滅した異界進駐軍のことがいつまでも消えない。
自身と直接言葉を交わしたベンソン男爵をはじめ、多くの魔術師があの戦いで命を落としている。
まるで今生の別れであるかのように涙する友人を、クラリッサは半ば辟易としながらも宥めたものだ。
彼女からすれば大陸でもっとも進んだ魔道技術を有するモラヴィア軍が敗北するなど想像の埒外であったから。
クラリッサはあの時の自分が抱いていた根拠のない確信を思い起こして、乾いた笑みを零した。
打ちひしがれる彼女の耳に、小さく地鳴りが聞こえた。
徐々に大きくなっていくその音に、顔を上げる。
眼前に映った光景に、クラリッサは目を大きく見開いた。
周囲を圧する地鳴りとともに、砂埃を撒き散らしながら進んでくる鋼鉄の獣の群れ。
砲撃で耕された大地を埋めつくさんばかりに、異界の大軍勢が邁進してくる。
それを食い止めるべきモラヴィア魔道軍は、既にない。
ソヴィエト赤軍によるモラヴィア東部属領制圧戦、作戦名『クトゥーゾフ』が開始されたのだ。