第15話 接触
1941年7月24日
ソヴィエト連邦 モスクワ
対モラヴィア戦開始後。
赤軍が真っ先に着手したことは『異界召喚』によって著しく変容してしまった旧バルト海……現在の対モラヴィア国境の地理状況の把握と、防衛線の構築だった。
精緻な作戦計画。大兵力を動員しての出兵。これらを行うには相手側の国土がどうなっているのかをあらかじめ把握できていなければ話にならない。
過去数百年間……帝政時代より幾度と無く出兵し、地形に関してはほぼ網羅しているヨーロッパとはまるで話が違う。
現状、国境線の「向こう側」に関しての情報は捕らえたモラヴィア魔術師から得られたものしかない。
沿バルト方面の戦闘で齎された鹵獲物の地図(記されているのはひどく限定された地域のみ)をもとに自分たちの足で細部を詰めていくしかない。
加えて先のレニングラード、沿バルト諸国への侵攻以来、少数のキメラによる国境の侵犯が相次ぐようになり、モラヴィア側の「計画」を不完全ながらも察知していたソ連側は自然、防勢防御に傾倒するようになった。
なにしろ、ソ連側には魔術に関する情報が圧倒的に不足している。
『マナを吸い取る』とは如何にして行われるものなのか?大がかりな仕掛けが必要なのか、魔術師の身一つで事足りるのか、そうだとしてソ連国土の何処でそれをやろうというのか。
それが分からない以上、ソ連側としては一刻も早く戦力の集結を済ませ、モラヴィア領内に縦深防御のための戦線を作らなければならない。
まず第一段階として、現地軍による国境地帯の防衛と地形把握(防勢防御)。
第二段階として、中央アジア・極東方面からの増援部隊を加えてモラヴィア領内に戦線を構築、縦深を確保(攻勢防御)。
第三段階として投入可能な全戦力を投じてモラヴィア本国への侵攻(全面攻勢)を行い、諸悪の根源を断つ。
赤軍参謀本部が示したプランを大雑把に纏めればこうなる。
「現時点で最も危険にさらされるのが旧海岸部の国境地帯です。正面軍司令部は防衛線の構築に取り掛かっておりますが、時間・資源ともに全く不足しています。」
政治局会議の席上で、国防人民委員部副委員のボリス・シャポシニコフ元帥はスターリンに率直な意見を述べた。
「モラヴィア魔術師の浸透を防げないのか?」
スターリンの疑問に、老齢の元帥は立て板に水を流すが如くよどみのない口調で答えた。
同志書記長。これまでモラヴィア側は、キメラとよばれる猛獣を用いた威力偵察を我が軍に対し試みてきました。
高い機動力を持ち、人間の手で統制され、なおかつ地の利を得ている彼らの浸透を防ぐのは生半な事ではありません。
また、人間の魔術師を用いた偵察行動は見受けられませんが…今後彼らがそのような挙に出るとして、それを阻止するのは現在の軍の配置状況では難しいでしょう。
魔術という技術体系について、我々は全くと言ってよいほど無知であり、我々がよく知る現代戦の基準からみても、ろくな縦深を持たず、南北数百キロにわたる長大な国境線すべてに水も漏らさぬ警備体制を敷くことなど不可能です。
……これに対するには地形把握の済んでいるモラヴィア領東部半島域に軍を展開させ、新たな戦線を築くのが良いかと。
哨戒線を二重三重と設けることでキメラのわが国土への浸透は格段に難しくなりますし、本格的なモラヴィアからの攻撃に際しても柔軟な作戦機動が行えます。
シャポシニコフは淀みのない口調で言い切った。
一歩の後退も許されない現在の軍の配置状況では、前線部隊はほとんど両足を地に縫い付けられた状態で戦う羽目になる。
また、相手側の詳しい戦力が不明とはいえ、初手の奇襲から半月…小規模な偵察を除いて軍を差し向けてくる気配が全く無い。
加えてNKVDがモラヴィアの貴族将校に対して行った尋問の結果から、一つの事実が浮かび上がってくる。
(敵もまた、駒が不足している。もしくは自分たちがソ連の戦力を過小評価していたことに気付いたということではないのか?)
言葉にこそ出さないが、シャポシニコフをはじめ、軍首脳部の幾人かは似たような疑念をモラヴィアに対して抱いていた。
これを聞いたスターリンは少し考えてから疑問を呈した。
「……それをやる余力はあるのか?」
「はい同志。中央アジア・極東より転用する軍を手配ることで、最低限モラヴィア東部、グレキア半島と呼ばれる地域の確保は可能です。」
自領土の隣接地に緩衝地帯・中立地帯を設ける、あるいは自国の支配下に置く、というのは一見すると良い考えに聞こえる。
スターリン自身、戦争は入念な準備を行った上で外国領土内で行うのがベストだという考えを持っており、シャポシニコフのいう「防衛線の前進」は魅力的に聞こえた。
だが、これは大きな危険を伴った賭けでもある。
防衛線の前進…つまり現在の国境線を出て支配地域を広げるということは、守るべき範囲がさらに広がることも意味する。
敵陣営の全貌もろくにつかめていない状況で、戦線を野放図に拡大するという事態を招きかねないのだ。
そう、たとえばかつての隣国……日本を例にとって考えてみれば良い。
本国たる日本列島を守るために朝鮮半島を支配下に置き、朝鮮を守る緩衝地帯として満州を。満州を守るために次は華北を……と、一歩間違えれば収拾のつかない事態に陥りかねないのだ。
ソ連が保有する常備軍はもちろん日本のそれとは比較にならないが、長期的にみた場合、財政にかかる負担は無視できるものではない。
また、敵手たるモラヴィアがポーランド並みの弱国ならば良い。
だが相手の実力も、魔術という技術についても定かでない状況で軍を進めても良いものかどうか。
スターリンの逡巡を見て取ったティモシェンコが口を開いた。
「同志書記長。軍としては現在バルト方面に展開する40個師団のみで攻勢に出られるとは思いません。あくまで第1段階は国境防衛線の強化です」
攻勢にせよ防御にせよ自軍の基地を強化し防衛線を確固たるものとすることは有効な措置だ。
その点は疑いない。
「レニングラードでは既に工兵と市民有志者による防衛線建築に着手しております。モスクワからはメレツコフ副委員を現地軍督励に向かわせました。空軍の増派も滞りなく」
スターリンは満足げに頷いた。
「宜しい。陸軍の方針はそれでいいだろう。軍需委員もその方向で計画を進めたまえ……問題ないな?」
「勿論です、同志」
閣僚たちの末席に座っていた男。32歳という異例の若さで先日就任した、ドミトリー・フョードロヴィッチ・ウスチノフ軍需工業人民委員は請け負った。
設計技師の資格を持ち、レニングラードの国営軍需企業でキャリアを重ねてきた若きテクノクラートはにこやかに首肯して答えた。
「すでに対独戦用の備蓄資源を転用するべく手筈を整えました。シャポシニコフ元帥とは、後ほど工兵総局の担当者を交えて協議を行う予定です」
国防人民委員(国防大臣)を補佐する6人の副委員のうち、シャポシニコフが管轄するのは工兵総局と防衛建設局である。
さしあたって戦争資源をもっとも消費する部署だ。
シャポシニコフが同意の頷きを返したのを見て、スターリンは次の案件を議題に出す。
「次にセヴァストポリの件についてだが…君が説明したほうがよかろう」
「ハッ!」
海軍人民委員を務めるニコライ・クズネツォフ大将が立ち上がり、閣僚たちを見渡して一礼した。
「同志スターリン、同志ベリヤにおかれては既にご存じと思われますが、昨日の夜半、セヴァストポリの黒海艦隊司令部よりVC非常回線を通じて報告がありました……この世界の国家の、外交船と接触したのです」
とたん、会議室内は大きなどよめきに包まれた。
同時刻。
ソヴィエト連邦 シンフェローポリ。
「信じられない。これだけの設備を馬車の中にこしらえるなんて……」
部下の茫然とした呟きも、どこか遠くに聞こえる。
ネウストリア帝国北大洋調査団団長エレオノール・カセレスはどこか捨て鉢な思いで窓の外を眺めていた。
周囲を見渡す。ブリュッセル絨毯が一面に敷かれた、磨きたてた寄木細工の一室。さほど広くはないもののちょっとした談話室といった風情のそこで、部下たちは思い思いにくつろいでいるようだった。
ただ、始めてみる文物に対する興味はあるのか、視線が落ち着かない者もいる。それを咎める気にはならなかった。
真鍮の手すりを軽く撫で、エレオノールは手元に置かれたティーカップに視線を落とす。…カップが微かに揺れている。地震ではない。この『部屋』自体が揺れているのだ!
エレオノールはロシアンティーを一口啜ると、高速で過ぎ去っていく窓の外の景色を見て、小さくため息をついた。
彼女をはじめとした調査団の主要メンバーがいるのは、セヴァストポリ・モスクワ間を運行している寝台特急の食堂車だった。
もとはフランスのヴァゴン・リー社より輸入した車両であり、レニングラード・モスクワ間を運行する有名な『赤い矢』号と同型の旧式列車である。
(まったく、まるで『異世界』でも見てるようね)
ここ2日ほどの間は彼女にとって驚きの連続だった。はじめて目にする、鉄道という大量輸送機関。
港に浮かんでいた鉄の城塞とでも呼ぶべき巨大な戦船。
空を飛び交う鉄の怪鳥。
「一生分の驚きを使い果たしたみたいね……」
これで何度目になるか分からないため息をつく。
……ことの発端は2日前。
北大洋の島嶼群を縫うようにして調査活動を進め、それが終盤に差し掛かったころだ。
本国の訓令通り、風の神官が捉えたという魔力はの残滓を追ってきたものの目立った発見もなく、調査を切り上げて帰途に就こうかというところで見張り員が未知の陸地を発見したのだ。
接近を試みたところ、その陸地の方角からは奇怪な鉄の怪鳥が調査船めがけて飛んでくるではないか。
魔術で撃ち落とすかと色めき立つ船員たちを抑え、エレオノールは手旗信号で相手との意思疎通を試みた。
怪鳥の動きが妙に秩序だったものであることから、交渉の余地があるのではないかと考えたのだ。……結果としてそれは正しかった。
信号の意味はわからなくとも、こちらに敵意がないことは見て取れたのだろう。
怪鳥たちは少しのあいだ調査船の上空を旋回したあと去って行き、暫くすると陸地の方角からは船が近づいてきた。
「なんだありゃあ……鉄の、船!?」
船長の茫然とした呟きは今でもエレオノールの耳に残っている。
そう、近づいてきた船は騎士がその身を甲冑でよろうように鋼鉄で覆われていた。
しかも航行速度が普通ではない。小さな点に見えたものが見る見るうちに視界に迫ってくる……恐らく、風の魔術を施した高速艇なみかそれ以上の速さだ。
少なくとも帆走船ではないのはわかる。
風の動きなど全く気にならないかのようにこちらの船に接近し、調査船が停船したのを確認すると、ボートが降ろされ、数名の人間を乗せてこちらに接近してきた。
「……大丈夫なんですか?」
「わからない。けど、ここまで来たんだから会って話してみないと…」
不安を押し隠したような船長の声に、応えるエレオノールも歯切れが悪い。
北大洋に起きた異変を調査するために遥々やってきたものの、そこに現れたのは鋼鉄を総身に纏った異形の群れ。
そして、それらがやってきたと思われる謎の陸地。
(そもそもあんなところに陸地があったなんて……)
エレオノールの記憶が正しければ、このあたりはモラヴィア王国の領海ですらない。大洋のど真ん中である。
航路を外れた?いや、それにしたところで今空を飛び交っているような鉄の怪鳥など見たことも聞いたこともない。
「シェロー、魔力通信で本国に事態の報告をお願い。」
「わ、わかりました」
部下の青年に命じると、自身はボートに乗ってやってきた来客を出迎えるべく後甲板に向かっていった。
………一方ソ連側である。
所属不明の船舶が接近中という報告を受け、さらには不明船がこちらとの交渉を望んでいるらしいという事態に、黒海艦隊司令部はすぐさま海軍本部とモスクワに、次いで地方党本部に連絡をとった。
ソヴィエトにおいて外交交渉は政治局員が司るべき領分であるからだ。
すでに多数の航空機が上空に上がって警戒に当たる中。
第4巡洋艦師団に所属する軽巡クラスヌィ・クリムが抜錨し、地方党の政治局員を乗せて不明船に向かっていく。
不明船にある程度接近したところでボートが下ろされ、交渉役の政治委員を乗せて走り始める。
「帆を畳んでるのに進んでるな。どういう構造してるんだ?」
ボートの船上。双眼鏡を覗きながら、ミハイル・S・アルバトフ党書記は呟いた。
そのすぐ脇には護衛を兼ねた海軍士官2名、下士官4名が控えている。
「魔術というものではないでしょうか?まぁ私もよくはわからないんですが」
海軍側の同道者の中で最先任に当たるアナトリー・ルィバルコ少佐がぼやくように答えた。
地方党の政治委員のお付きということで最初は緊張していた彼だが、今は目の前の奇妙な船に気を取られているようだ。
奇妙な文様が船体のあちこちに彫りこまれているが、それが木造の帆船なのは見て取れる。
しかし、それが帆も張らずにどう見ても動力船としか思えない機動をしているのだから、どうにもちぐはぐな感じがする。
異世界のフネというのは皆こうなのだろうか?
「少なくとも、外洋を航行する船舶を建造できるだけの技術力はあるようですね」
「厄介なことだ」
アルバトフは憮然とした様子で呟いた。
この船の所属国がどこなのかは知らないが、いきなり敵対的な行動をとらないということは、少なくともモラヴィアではないのだろう。
だが、もしモラヴィアにもこういった外洋航行船舶を造り上げる能力があるとすれば、ソ連は以後、海からのモラヴィア魔術師の浸透も警戒せねばならなくなるのだ。
そんなことを考えているうちにボートは不明船に横づけするところまで接近した。
船上から異界人らしい人々がこちらを興味ありげに覗き込んでいるのが見え、ルィバルコは合図するように手を大きく振った。