第13話 出立
1941年7月5日
ネウストリア帝國領 港湾都市キルグリット
『妙な任務ね』
総督との交渉を終え、港へ向かう道中。
巡察使エレオノール・カセレスは内心で呟いた。
東大洋北部の調査。
帝都の報土観察院本局でこの任務を拝命したときから、彼女はこの調査の意図を掴みかねていた。
モラヴィアに対する対敵諜報活動というのは理解できる。
だが、それにしては送る人員も装備も中途半端だ。
危険が多いことで知られる東大洋北部。そこに送られるのは年若い巡察使がたったの2名。
護衛も無く、軍からの協力も期待できない。
まるで遭難してこいと言わんばかりだ。
(わたしの魔道士としての実力を評価して?……ありえないわね)
一瞬、脳裏に浮かんだ馬鹿げた想像をすぐに打ち消す。
エレオノールは今年で24になる。庶民の家の出ではあったが、父は精霊神教の神殿に勤めており、エレオノールも幼少の頃から神殿に行くことが多かった。7つのとき、ちょっとした偶然から神殿長に魔術の才を見出され、それが転機となった。8年間ほど神殿で暮らしながら術者としての教育を受け、その後は神殿長の推薦を受けて報土観察院の門を叩いた。
今思えば、それなりに才能があったということなのだろう。それに、皇帝が神教の指導者を兼ねるネウストリアにおいて、神殿で教育を受け、なおかつ神殿長の推挙を受けているというのはなかなかのステイタスである。庶民の出でありながらエレオノールが巡察士という、曲がりなりにも上級官職についているのはそんな事情があってのことだった。
とはいえ、庶民出身というのは貴族や上級神官が幅を利かせる官界上層では控えめに言っても異質な存在だった。今の上司はそこまで悪い人物ではないのだがやはり腫れ物のように自分を扱い、あまり重要でない任務、あるいは帝都を離れた外事の任務を優先的に回されていた。今回もその類ではないだろうか?
(ふぅ。少なくとも、今考えるべきことじゃないわね)
エレオノールは頭一つ振って、鬱屈した思考のループを断ち切った。
気を紛らわすように馬車の外に意識を向ける。
「……それにしても、やっぱりこの臭いは慣れないわね」
馬車が港区画に近づくにつれて、徐々に強まってくる潮の香り。
エレオノールは端正な眉を軽く顰めてひとりごちた。
この街に来たときからずっと思っていたのだが……どうにもこの独特の臭いは好きになれない。
「そうですか?私は昔から結構気に入ってますがね」
同じく巡察使の長衣を纏った細身の男が首を傾げる。
その視線は徐々に近づいてくる港、そして眼前に広がる港湾部に向いていた。
「シェロー。貴方、この辺りの出身だったの?」
初めて知ったというようにエレオノールは部下の青年をまじまじと見た。
「ええ、修練院に入ったのもこの街でしたよ。これでも当時は神童と持て囃されてましてねぇ。末は総督……は、いくらなんでも無理ですけど都の上級官僚か知事くらいにはなるんじゃないかと」
「今とは大違いね」
「ぐ……悪かったですね」
ぶすくれたようにそっぽを向くシェローに、エレオノールは可笑しそうにころころと笑った。
2人とも、観察院の組織内で出世コースに乗っているとは言い難い。
まあ、一般の庶民に比べればなかなかの地位といえるが、修練院(帝國政府直轄の魔道士養成機関)出の術者であれば、もっと上の地位に居てもおかしくは無いのだ。
エレオノールはともかくとして、シェローの実家は騎士階級だったはずであり、それで修練院まで出ているのなら今頃は帝都で出世コースに乗っていても不思議ではないのだが。
何があったのだろうか?
そんなことを考えつつ、エレオノールは車窓の外に視線を転じた。
「活気のある街よね。私は生まれも育ちも帝都だけど……あの街とは別種の賑わいがある」
今、馬車は海岸沿いの街道を走っており、窓からは海を一望することができた。
視界の彼方まで広がる紺碧。沿岸沿いには大小の白帆が数え切れないくらい見受けられた。
(……凄い)
キルグリット湾は大陸南東部を流れるローヌ川の支流域に形成されている。
入り江の狭い三日月形の湾は外海からの波濤を防ぐ絶好の壁となっており、港を設けるのにあつらえ向きの地理条件を備えていた。
元々、キルグリットはネウストリアに敵対する王国の殖民都市として造営された街である。
母体となった王国がネウストリアに飲み込まれ、キルグリットも母国と同様にネウストリアの軍門に下ったわけだが、この都市が持つ貿易都市としての価値は些かも減じることはなかった。
むしろ、当時の皇帝はこの良質な海港を東方諸国との貿易中継点としてことのほか重視し、少なからぬ国費を投じて港湾機能の拡充が繰り返された。(当時、帝國は海竜・精霊魔術を利用した遠洋航海技術を確立しつつあり、交易圏が飛躍的に拡大していたことも要因の一つだった)
現在では押しも押されぬネウストリア最大の『海の都』として大陸中にその名を知らしめている。
暫く海に見蕩れていたエレオノールは、隣に座るシェローが話しかけてきたことで、意識を車内に戻した。
「しかし……北大洋というのはいただけないなぁ。使長殿は海は初めてで?」
「ええ」
「そりゃあ災難ですね。あそこは極めつけの難所…それこそ"船と海竜の墓場"なんて物騒な綽名をつけられるくらい厄介なところですからね」
「貴方は行ったことがあるの?」
「まさか!正規の航路からも外れてますし、東大洋の北部ははぐれ飛竜やら怪物がウヨウヨ居るって話ですからね。行ったら最後、生きては戻れないって噂ですよ。でも、初めての海が北大洋ってのは……まあ変なトラウマにならなきゃ良いんですが」
(おおげさな…)
エレオノールは呆れたように肩を竦めた。
いかに危険な海域とはいえ、前人未到というわけではないのだ。
東大洋北部ではこれまでに幾度となくモラヴィア海軍との交戦が行われており、北方の島嶼群の中にはネウストリア海軍の補給基地が設けられているところもある。
とはいえ、海が初めてというのは事実であるし、こうも脅し文句ばかりを聞かされては胸中に黒々とした不安の霧が立ち込めてくるのも、また認めざる得ないところではあった。
「もういいわシェロー。これ以上、馬鹿な脅し文句は聞きたくない。私と会話したいのなら、もっと有益な話をなさい」
上司にじろりと睨まれて、シェローはばつの悪そうな表情で窓の外に視線を転じた。
再び意識を外に向け、車窓から過ぎ行く景色を眺めていると、やがて馬車は目的地に辿り着いた。
キルグリット港湾埠頭。
自分たちが世話になる武装商船の商会事務所はこの近くに置かれているはずだった。
1941年 7月8日
モラヴィア王国 王都キュリロス
「………以上が偵察群より齎された報告だ」
機鎧兵団総司令官レオポルト・サンドロ公爵大将は報告を終えると、円卓を囲む男たちを威嚇するようにジロリと睥睨し、どかりと椅子に腰を下ろした。
「結局のところ、我らはまだ相手の実力を見くびっていた。そういうことなのだろうね」
静まり返った石造りの広間。
その中央に設けられた円卓の席上で、緋色のローブを纏った老人は呟くように言った。
口調こそ静かだが、その声色には年輪を経た者特有の重みがある。
「暢気に言っている場合かね!?公爵、この報告は確かなのですか?」
円卓を囲む一人、豪奢な装束に身を包んだ青年貴族が語調を荒げてサンドロに問い質した。
「無論だ。私の部下が命懸けで手に入れた情報だよ」
サンドロは煩わしげに青年に一瞥をくれると、顎をしゃくって先程自分が読み上げた報告書を示した。
「最小に見積もって7万。これは国境近辺で確認できた数だ。考えるまでも無いが、総兵力はこんなものではなかろうな」
議場のあちこちで呻きに似た声があがる。
救世計画が始動し、ソヴィエト連邦がこの世界に転移して、約一月。
そう、わずか一月だ。転移直後に行われた進駐軍の侵攻によってソヴィエト軍は相当な被害を受けていた筈。
にも拘らず、わずか一月でソヴィエトは10万近い大軍を国境付近に集結させつつある。
その物量は異常としか思えない。
「奴らは……我々の侵攻を事前に見抜いていたのでしょうか?」
円卓の末席に座る騎士の礼装を纏った男が疑問の声を漏らした。
「ありえんよ。捕虜から引き出した情報によれば、異界人は魔道文明を持たぬ。いかな大規模召喚儀式といえど、魔力の無い者がその存在を悟ることは理論上不可能だ」
「なるほど。では、我が魔道軍は完全な奇襲を達成したにもかかわらず、蛮族どもの門前で叩き帰されたわけか」
毒の篭った発言に幾人かのメンバーが顔を顰める。
「ヴェンツェル卿。そういう言い方はないだろう」
「おや。お気に触りましたかな?確かに、蛮族どもに討たれた騎士には貴方の部下も多い。配慮が足りませんでしたな」
「……!」
しれっと答えるヴェンツェルに、揶揄を受けた男……王国飛兵総監を務めるベネディクト・アレント侯爵大将は鋭く目を細めた。
「止したまえ導師。これは軍事会議であって査問会ではない。侯も、お気持ちはわかるがここは抑えてほしい」
「………かまわんよ」
同僚の機鎧兵団総司令官に宥められ、アレントは憮然としつつも引き下がった。
異界進駐軍の壊滅は、モラヴィア王国の上層部に大きな波紋を投げかけていた。
特に衝撃が大きかったのは竜騎士100余名……虎の子の一個飛竜騎士団を丸々失うことになった飛兵軍と、その総元締たる飛兵総監部である。
「竜騎士隊の補充は行われるのですか?」
「当然だ。空をがら空きにしたままではオチオチ侵攻もできん。……さしあたっては王都の第1飛兵軍より2個騎士団を送る」
「それで勝てるかね」
文官らしい法衣に身を包んだ老貴族の発言に、アレントは軽く肩を竦めて答えた。
「兵数において優勢を保っておれば、な。早々遅れはとらんよ。しかし飛竜の性能強化は早急に必要だ」
「ふむ、簡単に仰るが……そんなことが短期間に可能なのかね?」
「個体のポテンシャルそのものを向上させるのは困難だが、魔術処置によって対物防御力や速度の向上は可能だ。もっとも、竜の寿命は格段に落ちるだろうから今後の調達計画を抜本的に見直さねばならなくなる」
言いつつ、アレント侯爵は円卓の真向かいに座っている人物に意味ありげな視線を送る。
つられるように、周りの者たちの視線も円卓の一点に集まった。
視線を向けられた男……国防大臣ハルトムート・ロイター元帥は皆の視線が自分に集まったのを確認すると、重々しく口を開いた。
「諸卿も知りおきのことと思うが、先刻下された王命により、新領土鎮定軍が編成される」
周囲の反応を確かめつつ、ロイターは言った。
「これにかかる諸々の予算は国庫より最優先で回される。宜しいかね?最優先だ。飛兵軍・機鎧兵団の増強、歩兵軍の動員、魔道士の召集……これらに全力を傾注する。かねてより進められていた西部辺境の街道整備、砂漠緑化計画、クラナ大河の運河建設計画などは全て凍結される。また、地方軍の動員にともない、各鎮台には諸侯軍の戦力化と戦時編成を行ってもらうことになる」
一息に言い切る。
広間は完全に静まり返っていた。
近年。加速度的に進む国土の砂漠化と、それにともなう外国からの食料輸入の増加。加えて『救世』計画による国庫への負担。ここにきて国軍を大規模に動かすとなれば、それはただでさえ火の車となっているモラヴィアの財政に止めを刺すことになりかねない。
文官達……特に財務官僚は顔面蒼白になっている。
「……東部軍の部分動員。それでは済まんのだな」
外相が呟いた一言に、ロイターは頷いた。
少数とはいえ魔道軍の精兵を配した異界進駐軍が、こうも簡単に壊滅させられた以上、もはや形振りかまっている場合ではない。加えて、国境付近に凄まじい勢いで集結しつつあるソヴィエト軍の存在。逃げ戻った騎士たちからの報告が王国首脳部に伝わり、赤軍の戦闘能力が予想以上に高いことが知られると、王はロイターに蛮族撃破のためにあらゆる措置を講じるよう命令を発した。軍にフリーハンドを与えたともいえる。この命に対して外相を筆頭とする文官達は必死で王に翻意を促したが、結局それが聞き入れられることは無かった。
「動員計画そのものは『メトディオス』の流用となります」
「確か……それはネウストリアに備えたものではなかったか?」
「はい。しかし、動員後の軍は南方へは向かわず、東部の海港ミクロフより順次海上輸送。北部の鎮定軍に編入します。また、輸送船団の牽引、護衛のために水棲キメラ部隊を全力投入することになります」
『メトディオス』はもともと精霊神教国…その中でもネウストリアを主敵として策定された計画だった。
具体的な作戦計画よりもむしろ動員計画が中心となっていて、計画稼動より1週間後の第1次動員で4個兵団7万、第2次動員で14個兵団33万を動員。これに常備軍たる魔道軍各部隊や属国軍を加えておよそ一月半の期間で総兵力50万の王国総軍を編成するというのが計画の骨子だった。
※モラヴィアの軍制において、本国軍・地方軍・属国軍総動員後の軍を『総軍』と呼称する。
もともとの計画では編成後の総軍は順次南下し、ネウストリア帝國領外縁……彼らが北方辺境領と呼ぶ地域に雪崩れ込み、そのまま一直線に帝都アウストラシアを指向して突進することになっていた。
「ネウストリアの反応が目に浮かぶようだ。私は騎士ではないが『動員』という言葉が持つ意味は理解しているつもりだ。きゃつらが神経を尖らせている目と鼻の先でそんな物騒な真似をすれば、先に斬りかかられても文句は言えんぞ?」
「なに、いざとなれば我らがソヴィエトにしたようにネウストリア本土を異界に吹き飛ばしてやるとでも脅してやれば宜しかろう」
「そんな無茶な……」
「すでに我々は一度やっているのです。内実がどうであろうと、それが出来ると言い張っていれば脅しにはなるでしょうよ」
軽く言い切るロイター。彼とて自分が無茶を言っていることは承知していた。
だが、赤軍を確実に排除し、救世計画の総仕上げとなる魔力吸出を行うには軍の全力を傾注する必要がある。
(そうだ。我らは奇襲を行ったにも拘らず、成す術なく叩き返された)
ヴェンツェルが言ったように、異界進駐軍は赤軍に対して奇襲を成功させてはいたのだ。
捕虜から得た情報。そして戦端を開いた当初の一方的な戦いがそれを裏付けている。
だが、赤軍は短期間で体勢を立て直し、進駐軍を圧倒する大戦力を叩きつけてきた。
(これは赤軍の即応体制が相当に高いことを裏付けている。そうでないなら…)
そうでないならなお悪い。
ソヴィエト連邦は、寡兵とはいえモラヴィア魔道軍の攻勢を平時の分散状態にありながら跳ね除けられる……それこそ想像を絶する大兵力を有していることになる。
ふと、ロイターの脳裏を一つの報告が過ぎった。
赤軍の捕虜から聞き出した情報の一つ。聞いた当初、彼が一笑に付した馬鹿げた報告。
(数百万の兵力……キメラを圧倒する鉄の化け物…)
ロイターは不吉な予感を頭一つ振って振り払った。
部下の話ではその捕虜は頭から直接情報を搾り取られて廃人同然となり、半月ほど前に『処分』されたらしい。
(少し早まったかも知れんな)
話半分とはいえ、もう少し異界の情報を吟味すべきだったかもしれない。
今思えば、あの時の自分は魔道院の報告を鵜呑みにして事態を楽観視していたのだろう。
ロイターは苦いものを飲んだような表情で黙り込んだ。
(いずれにせよ…)
いずれにせよ、戦端はすでに開かれている。
「後は、最善を尽くすのみか」
喧々諤々の議論が続く中、ロイターは嘆息とともに呟いた。