電話をかけるけど、家にはいないで
僕が泊まる宿の部屋からは、平野に立つ大きな松の木が一本と、遠くにある山々が見えた。平野には僕の知らない白い花がちらほら咲いていて、その周りを同じ色をした蝶々が飛んでいた。遠くの山々には雪が積もっていた。今日は雲一つなく晴れていて、それがよく分かる。この土地に来る前に調べたのだが、あの雪は春の盛りに近づくにつれて桃色に染まるらしい。
僕はバッグをベッドに置き、窓際の椅子に腰をおろした。本当なら列車に揺られ続けて疲れた体を、すぐにでもベッドに持っていってやりたかったが、まだそうするわけにはいかなかった。二時に電話がかかってくるからだ。だが、部屋に電話機はない。きっと、フロントにしかないのだろう。
早く客室係が「お電話です」と言いにこないかなと思いながら、僕はテーブルを見た。テーブルの上にはマッチと灰皿があり、僕はそれを見てタバコが吸いたくなってしまった。そして、ついつい胸ポケットからそれを取り出し、山の冷たい空気を想像しながら吸った。
一本目を吸い終わった時、誰かが部屋のドアをノックした。ドアを少し開けると、客室係がいて、彼は「沢木様からお電話です」と言った。
客室係と一緒にフロントへ行き、僕は受話器を受け取った。
「もしもし、和子?」と、僕は聞いた。
「和子じゃないよ」と、和子が答えた。
「そっちは何も変わりはない?」
「変わりないよ。あなたの友達が私のベッドにいる以外は」と言って、「友達にニャーと言いなさい」と、僕が飼っている猫に言った。
「元気そうでなにより」
「あなたもね。タバコ吸ってるみたいだし」
「タバコなんて吸ってないよ」
それから数分間、僕らは僕らの会話をした。山に積もっている雪が桃色になるという話は電話を切る直前に話した。でも、彼女は驚きもしなかった。「そんなことより、今日の晩御飯は何がいいかしら」と言った。
電話機をフロントに返すと、僕はコーヒーが飲みたくなった。ラウンジにあるソファに座ってコーヒーを頼み、待っていると、一人の男が受話器を受け取るのが見えた。彼は大きなカバンを持っていて、これから宿を出るみたいだった。
「今からそっちに行くよ」と、彼は言った(本当にそう言ったのかは分らないが、僕にはそう聞こえた)。そして、「温かいミルクがいいな。僕が子供の頃に好きだったクッキーも用意していてくれたら嬉しいよ」と続け「駅からまた電話する」と言って電話を切った。それから、フロント係に軽く会釈して宿を出ていった。たぶん里帰りするのだろう。
コーヒーが運ばれてくると、僕はそのまま一口飲んだ。それからミルクを少し入れてみた。これは母親の飲み方だ。母親とは何年間も連絡をとっていない。もしかしたら、もう亡くなっているかもしれない。でも、それが大したことじゃないように僕は思える。彼女は僕を捨てたし、僕も彼女を忘れようとしている。他人になりつつある。それでも僕は時々、母を思い出す。優しかった母を思い出す。
カップが空になると、僕はもう一度フロントへ行った。そして、電話機を借り、母親が出ないことを祈りつつ、ダイヤルを回した。
数年前に書いた短いもの。