the Killer fuzz
人間は人生の内何度か取り返しのつかないミスを犯す、そういうもんらしい。
あの日の俺は恐らく、全人類が選択し得るミスの中でも最凶最悪のハズレを勇んで選んじまった。
「ああ、腹減った」
いつもの顔ぶれで、いつもの店で、散々呑んで騒いでしているうちに果たして飯を食いっぱぐれた俺は、うっかりつるんじまった連中と別れた午前八時という似つかわしくない時間帯に一人、無法地帯と純真無垢を隔てる中立通りを彷徨いている。
こんなまともな時間に開いている呑み屋など無法地帯にはまず無い。
俺はそこの住人だから、そんなことはよく知っている。
家に戻ったところで食うもんなどありゃしないのも知っている。
蘭桂坊の中でも新上海城壁方面の屋台街なら開いてるだろうが、なにしろ此処は通りの逆果ての方が近いような位置だ。
屋台街まで出るのも面倒臭いし、勤勉な表の人間に混ざっての白湯粥は御免だ。そうなれば、駄目人間のとる道は一つ。
蘭桂坊を背に中立通りを挟んで左右、この地区を無法地帯と二分するもう一つの街。
その住人曰く「朝のこない街、一夜の享楽と悦楽を売る街」純真無垢。
見せ物小屋からSM小屋、男娼館に女郎屋敷……ありとあらゆる変態の嗜好趣味にお応えする、いわばあっちのテーマパークだ。
蘭桂坊に抜けるのが面倒臭いのであれば、此処を頼ってみるのも一つの手だろう。
新上海以下、まとめて「城下町」と呼ばれる三地区には徹底したルールがある。
<不可侵>
蘭桂坊の揉め事に他の街は介入しない・出来ない。
無法地帯の抗争に他の街は介入しない・出来ない。
純真無垢でのトラブルも同様で、新上海は恐らく城下町とは関わりたくないだけだろう。
こちらとしても新上海に介入する気はないし、されたくもない。
ただ遊びに行くだけなら不可侵を理由に弾き出されたりはしないが、何しろ純真無垢には元々用事がない。
何が何処にあるか知らないのだ。
自分の嗅覚だけを頼りに呑める店を探し出すほか無いのだが、うっかり間違えてとんでもない世界を覗いてしまうかも知れない。
ひょっとしたら腹ぺこな俺は哀れにも誰かの腹を満たす棒々鶏にされてしまうかも知れない。
伝え聞く純真無垢とは、そんな風に何でもアリの地区なのだ。
何でもアリなことくらい、夜の中立通りから反対側を眺めれば三十秒かからずに理解出来るが。
いずれにせよ、俺はテメェの鼻を信じるしかないのだ。
そんな期待を裏切るかのように固く閉ざされた扉が並ぶ通りの中に一つだけ扉ではない上り階段が視界に入る。
何かの店であるような看板は見当たらないが、かといって居住区でもなさそうな佇まい。
直ぐ横の扉に比べて上限は低く、身を屈めなければ中へは入れそうもないが
入り口の上限に比べ中へ入ってしまえば充分な高さがとられているだろう事は外からでも覗ける階段から見て取れた。
これはどう見ても秘密基地。
思うのと同時に、手狭な入り口へと身を潜らせていた。
コンクリートが打ちっ放しのまま、むき出しの電球がぶら下がる階段は狭く、おそらく誰かと擦れ違うのは無理だろう。
対して、外から予想したよりもずっと高い天井が空間の細長さを助長している。
その階段をいくらか上ったところで見えてきた扉から漏れ聞こえるのは爆音のロック。
曲目までは解らないが、良いね。嫌いじゃない。
こんな朝もたまには悪くないか、謎の期待を胸に俺は見た目通り軽い扉を押し開けた。
「kneel down, say "please".」
んっ?
今のは何だろうか。
爆音のロックに乗って飛び込んできた余りにも耳馴染みのない台詞。
跪いて、お願いしますと言いなさい。
文面通り以外に揶揄される意味を持つはずもなく、戸惑いの原因はその台詞を吐いたと思しき長身の男に、彼が纏う空気と現場の様相にある。
何故、朝の八時、よくても八時半に半裸の男が二人、他の誰もいない状況で何がどうなっているのか。
混乱を通り越し停止しそうな頭で観察してみれば、台詞を吐いた男の足元に跪く金髪の白人青年。
後ろ手に縛られた背中には無数の鞭の痕が残り、いくつかは新しいのか赤い裂け目が滲んでいる。
対する長身の男は余裕の有り余る笑みをたたえ、カウンターに寄り掛かりながら青年の首に絡めた鞭の柄を弄んでいる。
これは、どう見てもSM。
分かり易い程に模範的なSM。
俺は何も見なかったことにして帰って寝よう。
現場に背を向けないようにしながら、じり、と後ずさる。
物音を立ててはいけない。
ドアを出たら全速力をもって駆け下りて、塒まで立ち止まるな!
じり、後ろに伸ばした手が扉に触れる、まさにその瞬間、男が動いた。
トンと一拍おくように鋭い視線がこちらに寄越される。
その顔からは笑みが消え、単純にこちらを窺っているようだ。
しかし、『射抜かれる』とはこのことだろうか。まるで漫画のように冷や汗がこめかみを伝い、怖気がぞわりと背骨を這い上がる。
男の目は何の殺気も含んでいないのに、酷く冷たい。
こんな目を出来る人間が、無法地帯ではなく純真無垢の方に潜んでいることが何よりも驚きだ。
喩えるなら、鋭利な銃口。
蛇に睨まれたカエルという言葉を突然思い出したがふざけるな、誰がカエルだ畜生め。
だがあの男はどう考えても蛇だ、それも、悪趣味な黒と紫に染まったどでかいパイソンだ。
だからといって俺がカエルに甘んじるなど冗談ではない、ここは一つ、猫騙しでも構いはしない、何か先制を入れなければ。
後ろ手に伸ばした腕をおろしはしたものの出入り口は気にかけたまま返す視線と共に臨戦態勢に入る。
受ける男は目を逸らすでも合わすでもなく凪いだ様子でこちらを見ているが、その平坦さもにおう。
「あの、」
何かが詰まったような喉の奥からようやく出たのは、思い出す度に死にたくなること間違い無しの心細く枯れた声。
「すみません」
すみませんって何だよ!生まれて初めて発音したぞ!
全てに対するドン引きと驚愕と混乱と正直、SM趣味以上に得体の知れない男への恐怖もある。
二の句を告げない俺に向かい、不意に男が表情を変えた。
擬音をつけるなら、にまり。
表情を緩めたと言うよりは歪めたという方が誤解は少なくて済むだろう。
此処まで不吉な笑顔は見たことがないし、恐らく今後見ることもない。
「もう帰りますん」
発言に被るように風を切る音。
「で」
同時に右足に違和感、感じるや否や足首が絞まる異様な感触。
あ、と思うより速く自分の意志とは無関係に文字通り足を掬われると正面にあったカウンターが急降下し、大パノラマで天井が目に入る。
どたんという無様な衝撃に合わせ、もう少し向こうにあったはずのにまりとした歪み顔が俺を覗き込んできた。
どうやら少々飛ばされたらしい、端からは金髪青年と仲良く並んで遊ばれているようにしか見えないだろう。
そんなことはどうでもいい。
帰らせて下さい。
「Water Danceへようこそ。こんな朝からあんたも暇ねぇ、一杯くらいなら奢るけど?"ワイルド・ガンマン"」
帰らせて下さい。
「いや、つーか腰が痛てぇよ」
帰らせて下さい!
脳内の絶叫とは裏腹に、声になったのはまるで常連客のような軽やかで和やかな愚痴。
倒れた椅子を起こすと何の気無しに腰を落ち着ける。
この店からの脱出を諦めたと同時に、あれ程がなり立てていた絶叫は収まっていた。
「見た目はこんなんだけどね、此処はただのバーよ。安心なさい」
慣れた手付きでくるくると鞭を回収しながら男が言う。
正直、不気味だがよく見ればかなりの男前だ。なんだか妙に悔しい。
更に悔しいが声まで格好良い、なんだか悔しいと言うよりも腹が立ってきた。
だがこのナリでオネェ言葉の歪み笑い、間違いなく全力でドSの変態フリーダム、俺より悔しい思いをした女はごまんと居ることだろう。
「あんた、何者だ?相当怪しいんだが」
妖しい、の方がよかったか。
「怪しいも何も、此処の真っ当なオーナーよ」
拍子抜けしたようにあっけらかんと返された答え。
「うぞ!?真っ当にも素面にも見えね」
変態ジャンキーが不法侵入してたんじゃなかったのか……変態オーナーのバーだったのか……
「うるさいわね、ケツからスピリタス呑みたいの」
「すみませんでした」
ひでぇ文句だ、泣きそうだ。
だがどうやら客として扱って貰えそうな雰囲気に安心すると、
それまで片隅に追いやられていた空腹が再び主張し始める。
「あ、ねぇオーナー、ついでに何か食うもんある?」
「エ!?確かまかないの余りがあったような……なかったような……」
エ!?って何だ。
曖昧な笑みを浮かべながら視線を逸らされる。
その曖昧な笑みも当然のように歪んでいるのだが、何だかだんだん慣れてきた。
寧ろまかないが出るような従業員がいることや、メシの注文にたじろぐことの方が驚きだ。
バーなんだったらつまみくらい置いとこうよ。
「……まかないの余りって、超残りもんだよね」
「そうとも、言うわね……」
言いながら変態は最終的に完全に引きつった顔を逸らし、明後日の方向に言葉を返す。
そんなに何もないのか。
「あり合わせで何とかするから待ってなさい」
致し方なし、とでも言いたげな様子で波打った長髪をわしわしといじりながらカウンター内へぐるりと回り込むと、そのまま奥へと消えていった。
「ヒヨコちゃんは帰ったのね。挨拶無しだなんて、悪い子だこと」
そんなようなことをブツブツこぼす男の背中を見送り、その姿が見えなくなった瞬間俺はカウンターに突っ伏して頭を抱えた。
何だあれ。
何だあの背中。
背骨見えたぞ今。
肩胛骨から下、背中の真ん中当たりの皮が無く、背骨と周辺の筋肉組織が剥き出しになっていた。
あんなものを晒すのは死体くらいのもんじゃないのか。あれは外に出てても大丈夫なもんなのか?
生きている人間の背骨を見たのは初めてだ。
医学の心得も人体工学の知識もない俺には何が何だかさっぱり解らないが、あの男は怖い。
無法地帯にいる連中も、蘭桂坊にのさばるマフィア共も、そいつらが向けてくる銃口も別段怖いとは思わない。
肺を掠めた弾丸で視界が暗くなった時も、路地の暗闇からナイフが飛んできた時も怖いとは思わなかった。
それが俺の日常で、俺にとってどこにでもある当たり前の風景だからだろう。
だがあの男は俺の日常にも常識にも存在していないタイプだ。
余りにも異質すぎる。殆ど"未知との遭遇"状態だ。
得体の知れない空気に無茶な傷跡、正直おっかないね。
それだけに、奴に対する興味が積もってくるというのも最強にタチが悪い。
まあ一つだけ希望があるとすれば、だ。
サンタマリアにお願いがある。どうか俺を此処から生きて帰してくれ。
「何ぶつくさ言ってんのよ」
あれこれ考えていた頭に唐突なカットイン。
声の主は、当然あの男だ。
見れば黒い羽根のジャケットを適当に羽織った姿でカウンターの内側に立っている。
成る程、オーナー兼マスターだと言われればカウンター内に居るだけなのにそう思えてくるから不思議だ。
しかし、一応上着を羽織ったはずなのに上半身裸の時と印象が全く変わらないと言うのも如何なものか。
何か着ていようが何も着ていなかろうが変態は変態であるという証明をされても正直困るのだ。
「あるもんで何とかしたけどこれが限界ね、仕方ないからこれも奢りでいいや。特製よ」
適当な台詞と共に突き出された皿を受け取ると、それはどうやらサンドイッチ。
確かに朝飯らしい朝飯だが、この男にも俺にも似つかわしくないメニューに少々面食らうも、胃袋は既に迎撃体制万全。
有り難く好意に食らいついた。
この人ひょっとしたら、いい人なんじゃないだろうか。
どんな怪しい人間が相手でもそう思える程、一宿一飯の恩とは大きなものだ、と個人的に思う。今なら。
「オーナーさ、さっき俺をガンマンつったよな。あれ何で?」
無言でパクつくのも気が引けて、大した疑問でもなかったが繋ぎの会話を振る。
パンに挟まっているのはレタスとローストチキン、参ったね、意外と美味いんですけど。
「やだ、あんた自分がシロウトに見えるとでも思ってんの」
案の定、と言いたくなる返事の脇にグラスが置かれた。
「んなこた思ってねぇけど、人は見掛けによらないとか言うじゃん。俺もそのクチかもよ」
「無いわね」
間髪入れずに即答、見れば自身も当たり前のように呑んでいる。
「見掛けで判断するなんて愚か者のすること。それに真面目な新上海人だったらこの街へ来るのは夜だもの。まぁそれは例外もあるでしょうけどね、場所が場所だし。だから答えはこうよ、"染み込んだバラッジはジャンキーのチョコレートと同じ"」
そう、抜けないのよ。
銜え煙草の脇から漏れた最後の一言は俺に言っているようには聞こえなかった。
「さっきのヒヨコちゃんは、あれ従業員?」
質問に逡巡、何事か考えあぐねたようにボーっと紫煙を吐き出し、何かに行き当たったような視線を送ると共に寄越す一言。
「何、気に入ったの」
「いや全然」
何をどうしたらそうなるのか、予想外の回答に今度はこちらが即答する番だった。
「なかなか可愛いわよ。けどあれはね、リンチェイんとこの新人なの」
「リンチェイ?」
聞き慣れない響きを声に出して問う。人名なのは間違いないだろう。
「うちの隣が天外楼って男娼小屋なんだけど、リンチェイはそこのオーナー、ヒヨコちゃんは新商品よ。週末までに出せるようにしてくれって頼まれてるの」
M男の仕込みを頼まれるバーのマスターって何者だよ。
加えて生身の人間を新商品だと言ってのけるこの街はやはり異質なのだと再確認した。
「無法地帯と純真無垢、通りを一本挟んだだけなのに、思った以上に違うでしょう。驚いた?」
見透かしたようににまにまと笑いながら腕を組み直す。
「これ以上踏み込んでみようとは思わなくなったね」
この街の最奥が何処に繋がっているのか、興味がないと言えば嘘になる。
だが、パンドラボックスを進んで開けてみようと思うほど無鉄砲でもない。
「賢明ね、レッドラインを明確にしておくのはとても大切よ。ヒヨコちゃんのようになりたくなければ、尚更。まぁでもあの子は良いMに育つわね、失敗はなさそうだわ」
ヒヨコちゃん、一体何をした。
喉まで出た言葉を最後の一口になったチキンサンドと共に飲み込む。
そう、レッドラインを明確にしておくのは大切だ。
明らかな忠告を興味本位で無碍にしてはいけない。
「失敗なんてすんの?」
ごちそうさん、とパンくずだけになった皿をカウンター内に戻しながら当たり障りなさそうな部分にだけ食い付く。
折角和んだ空気を壊すのは失策だ。
「するわよ、たまーにね。ここ暫くは百発百中だけど」
プロかよ。
「へぇ、じゃあ仕込みに失敗した奴はまた別の店に売られたりとかすんの?」
別の店も転売ルートも俺にはさっぱり解らないが。
「うーん……売られる、って言うか」
まただ、曖昧な歪み笑いを浮かべながらどんどん視線を逸らされる。
その仕草が彼にとっての遊びや冗談であると理解するのはもう少し先の話だ。
「あんたの食ってたサンドの具は何だったかしらね……ふふふ」
ローストチキン。
ヒヨコちゃん……男娼……チキン……しかも特製……おい嘘だろう何だ特製ロースト男娼サンドって。
「大変美味しく頂きました……」
カウンターに項垂れた頭上に、豪快な笑い声が落ちてくる。
「バカね!嘘よ」
よわよわと頭を上げると満足そうな歪み笑いが目に入る。
正直腹が立つが、これが純真無垢かと洗礼を甘んじて再び気を取り直す。
「それを聞いて安心したよ」
送る言葉と同時、語尾が相手の目を捉える。偶然ではない、俺が合わせた。
レッドラインを明確にするのは大切だ、ああ確かにそうだ。俺もそう思う。
だが、どうしても踏み込むべきゾーンがラインの向こう側にあるとしたらどうする。無法地帯のルールはこうだ、"道標は腕と鉛玉"
「いろいろ聞いたついでに」
イメージの中に横たわる赤い境界線。
こちら側に立つ俺とあちら側に立つ人影。
「もう一つだけ聞きたいんだが」
一歩一歩、境界線に近付いていく。
対する人影は身じろぎもせず、見慣れ始めた姿が次第に輪郭を成す。
「いや、これが本題になるのかな」
レッドライン間際で立ち止まる。
ここに中立通りは存在していない。
イメージの外、俺たちを区切るカウンターは想像の中で見た赤い境界線に似ている。
その境界線の向こう、グラス棚に背を預けたオーナーは挑む視線に挑まれたまま、外しも茶化しもせずにグラスを傾けて俺の出方を待っている。
「あんたは初め、ここはただのバーだと言って俺を試した」
男が目を細める。
「なら、ここじゃないとこは?あんたは何か隠し持っている。敢えて聞く、あんた何だ?」
一拍の間をおいて男は小さくフッと笑い、銜え煙草のままいつの間にか空になっていた二つのグラスを満たす。
「それは……どう受け取るべきかしらね」
黄金色に光る蛇の目。
「血の匂いさ。何十ともつかねぇ、死んだ血の匂いだ」
それがこの店のそこかしこから立ち上ってくるのさ、そうまるで、亡霊のように。
「俺の硝煙に気付いたあんたがこの血の匂いには気付かない。そんなはずはない。なのにあんたは気にしちゃいねぇ。それは何故か。原因があんただからだろ、違うか?オーナー」
みしり、と骨の歪む音が聞こえたかと錯覚する程にねじ曲がる表情。
こみ上げる笑いが空間に炸裂、
仰け反らんばかりにははは!と笑う男を見て、否、笑い声を上げる男の全く笑っていない目を見て俺は、
掛け値なしの地雷を踏んだのだろうとボンヤリ考えていた。
「流石、無法地帯の狗は鼻が利くわね。これに突っ込み入れたのはあんたが初めてよ」
これ、とはこの空間、強いて言うならばこの空間に澱む血の匂いを指すのだろう。
垣間見せた狂気を押し込めるかのように、満たしたばかりのグラスを再び空にする。
「そうね、答える前に一つ訂正しておくわ。私は血の匂いがわからなくなった訳じゃない。気にしたところで染み込んだものは抜きようがない。だから気にしないだけよ」
誰かさんのバラッジのようにね。
グラスの縁に歯を立てた唇が、大きく歪む。
「さて……レッドラインの話を蒸し返す気はないけど、あんたは境界線を越えた。この意味はわかるわね?」
そこまで言うと、髪をわしわしとかき混ぜながら聞き取れない程の小声で何事か呟く。
だが直ぐに話の筋を纏めたのか、ふむ、と頷きこちらに顔を向ける。
髪に手が伸びるのは、何かを持て余した時の癖なのだろう。
「いいわ。私の思う不可侵には抵触していない。ただ一つ。無法地帯や貴方の世界の常識は捨ててから聞きなさい。ここは純真無垢よ」
一つ、頷いて見せる。
「まぁそんな大袈裟な秘密は何もないけど。純真無垢はね、誰がそうしたのか、始まりはいつなのか。そういった歴史は一切無い場所なの。なぜならここは始まり得ない程の終末にあって初めて成立するからよ」
無法地帯もきっとそうだろう。
「この街が売るのは"一夜の逃避と悦楽"。それがこの街に望まれたものであり、振られた役であり、ここを形作る全て。この街の名を考えたことがあるかしら?最先端のソドムとゴモラが何故、純真であり無垢なのか」
イノセントブルーと言う、街の名の意味。
「簡単な事よ。男は女の上に立つことに快感を覚える、女は男を顎で使うことに快感を覚える、男は男に対しより強大な力を見せつけたがる、女は女に対しより麗しい美を見せつけたがる。ここへ来る人種はね、どれほど面の皮を繕っても着飾っても、最終的には支配欲にのみ動かされるものなの。支配されることに至上の悦びを感じるもの、支配することに最上の悦びを見出すもの。それは最も愚かで、最も素直で、最も殺されやすい本能。故に、純真無垢。どう考えても変態の極論ですって顔してるわね」
さも可笑しそうに目を細める歪み笑いが見抜く。
答えられない俺に返す言葉はなく、彼の話を遮らないことで精一杯だ。
ここは無法地帯とは違う本能で動いている。
「たしかに変態の極論だわ、否定はしない。でもね、それがこの街であり、そこに住み着く糞袋の全てなのよ。男娼も娼婦も天使も……この街はね、ただ突っ込むくらいじゃ誰もイケないのよ、誰一人としてね。若い男の死体に飛びつくババァ、年端もいかない少女を煮込んで喰うオヤジ、気に入れば生身でも死体でも何でもいい男、犬としか出来ない女。深みに潜れば潜る程、この街はタブーとされる欲にのみ純真に、無垢になるわ」
向かい合う俺は余程酷い顔をしていたのだろうか、にまにまと笑んだまま話を区切る。
ああ、クールダウンが必要だ、畜生め。
「この辺の男娼小屋だのSM趣味だのはまだまだライトなもんだったのか……」
呆然と呟く脳裏にやおら蘇る数時間前の光景。
無法地帯では無縁の出来事にライトも糞もあるまいと首を振る。
「外周の店舗は確かに馴染みやすさを売りにしてはいるわね。だからといってライトかどうかは判らないわ。犬とやれる店が通り沿いにあるのと有刺鉄線で楽しむSM小屋が通り沿いにあるのと、どっちがマトモかって話になるもの」
「…………」
「ね、どっちもイカレてることに変わりはないでしょう。それがこの街。ここを訪れる人間がどんなことを快楽だとしていても、私たちはその全てを提供出来る。合法も非合法もないわ。その中で、私が売るモノは何だとお考え?」
血の匂いのするバー。
これは喧嘩で流れた血じゃない、殺しで流れた血の匂いだ。
「ここで。私たちが売るモノは」
俺の回答を待たずに口を開く。待たれなくてよかった、俺は何も言えない。
「永遠の、逃避」
それは至上の商品であり、しかし誰もが手に出来るもの。
「永遠の、……」
鸚鵡返しの俺に向かって満足げな笑みを頷きと一つ、グラス棚に預けた背を起こしカウンターに両肘を立て頬杖をつく。
「ちょうど、それをお買い求めのお客様がいらしてるわ。覗いても構わないのよ?ふふ、無法地帯には<引き返す>なんてルールあったかしら?」
黄金色の蛇の目。そこに悪戯のような含みが見えるのはきっと、この男が生まれ持った性なのだろう。
「ついていらっしゃい。この街の最深部は、あなたの足元にあるわ」
言い終わる前に背を向け、カウンターの奥へと消える。
あの男も言ったように<turn back>というカードは選択肢に含まれていない。
俺に配られたのは不敵に笑うジョーカー一枚、最高役のスペードは奴が握っている。
「くそっ」
カウンターを回り込み、簡素なシンクを横目に進むと手狭な小部屋があった。ソファだけのその部屋は休憩室か何かなのだろうか。
その奥に、下りの階段がある。外からこの店の一階に入る入り口はなかった。二階のここからしか行けないのだろう。血の匂いが、濃い。
あの男は勝手に行ってしまったようで、階下から何やら物音がする。
何の照明もない階段は店の入り口だったそれよりも暗く狭く、この先で何が行われているのか、その想像さえ許さない。
恐らくこの階段は、あの男そのものなのだろう。
一歩一歩探りながら降りた先に店の扉とは比べものにならない程重苦しい扉が現れた。肩から力を込めて押し開ける。
その先は拓けたかと言えばそうでもなく、空間いっぱいに溜まった血の匂いが、更に視界に赤く色を付けそうな程に濃く匂う、いわば独房だった。
天井中央に吊された裸電球の真下に一脚の椅子。
そこに腰掛けるのは、城下町連中に比べれば育ちの良さそうな青年。
拘束されているわけでも"何か"されたわけでもないだろうに、彼はこんな所におとなしく座っている。
ふと、青年の背後に目が移る。
彼が背にしている壁の、暗く澱んだ色の中に一際どす黒く生臭い部分がある。
あれは。
「ようこそ、純真無垢の最果てへ」
その声に振り返れば、いい加減見慣れたあの男。
先ほどと違うのは、その手に握られた一挺の拳銃。
白銀に光るそれは、薄暗い空間で一際目を引いた。
「ここは、何だ」
百人が百人、そう訊ねるだろう間抜けな問い掛けに、男は独房へ踏み込みながら変わらぬ歪み笑いと共に返す。
「ヘブンズドアでもワールズエンドでも何でも良いわ。ここが私たちの本当の仕事場。屋号はないけど必要ならパンドラボックスとでも言おうかしら」
男は白銀の銃に視線を落としたまま、俺は扉から一歩脇へ入った壁にもたれ、椅子の青年を挟んでの対話。
真ん中の人物はこのやり取りにも動きを見せることはなく、膝の辺りで組んだ手に俯いた視線を預けたまま、ただ座っている。
その冷えた金属の骨組みのみで作られた椅子はまるで、電気椅子のようだと安直ながら思った。
「そう、ここはパンドラボックス。私たちは箱の底にこびりついた希望そのものね。ここを訪れた人間にとっては」
聞き慣れた軽い金属音を目で追うと男が青年の頭に向けて銃を構える場面。
人を殺すのには不釣り合いだと思える程美しい、天使の装飾が施された銃身が薄暗い中で光った。
一度だけ踵を鳴らし、銜え煙草に火を付けながら男が青年に問う。
「見付かった?」
青年は首を横に振る。問い掛けの意味が俺には判らなかった。
「そう、それじゃあ……来世のご来店、お待ちしています」
天使の咆哮。
青年の背後の壁に一部分だけ際立ったどす黒く生臭い箇所は銃声と共に新たな色を滴らせた。
「何してんだッ」
手を出した感情の内訳は判らないが、満足げに死体を眺める男の襟元に掴みかかる。
「何いきり立ってんの」
反射的に出たのは拳。
二発目は入らずに男の腕に遮られる。
「これがこの街の最深部、そして私。あんたは私に"ここは何だ"と聞いた。その質問に答えただけよ」
「答えになってねぇ。今死んだこいつは何だ。新上海の金持ちでも誘拐してきたか」
「不正解。このお客様は自発的に当店にいらしたのよ」
「何故殺した。対価を持っていなかった?」
「何故殺したですって、殺人代行業者のあんたがそれを聞くの。殺せと頼まれたから殺したのよ。うちはね、新上海から城下町含めて唯一の自殺代行業者なの、クライアントもターゲットも同一人物。対価は誰もが持ってるもの、その命と抜け殻よ。金品は1エンたりとも受け取らないわ」
喉の奥でくつくつと笑いながら答える。
蛇の目の奥に見えていた悪戯っぽさはいつの間にか、病んだ夕闇とすり替わっていた。
「言ったでしょう、私たちが売るものは永遠の逃避だと。彼は今、我が身と引き換えにそれを手に入れたのよ。ここにはね、この子のようにそれを自力で手に入れる気力すら失った人間や、自力でそれを手に入れる勇気のない人間がくるの」
締め上げる程に力を込めて掴んでいた襟元を放す。
視界の隅に入った死体の、辛うじて残った頭部に引っ掛かった眼球が不思議そうにこちらを見ていた。
その目がまた、苛立ちを煽る。
「あの子の父親は新上海の中でも上から数えた方が早いサイズの名前持ちだったそうよ。ただし去年まで、失脚したのね。その父親は家族に億に届く程の糞の塊を残して年が明ける前に蒸発、母親も年が明ける前に別の男と蒸発、彼の手元に残ったものは蘭桂坊のボロアパートと糞の塊、腹違いの小さな妹だけ。何処にでもある話よ、退屈な程に。けど、いざ自分に降りかかったら地獄でしょうね、良い暮らしをしてた人間ほど」
この街にとってはその程度の身の上話などありふれた冗談であり、それは"喜劇にもならない"。
「城下町の、特に私やあんたのような人種には退屈な話だわ。それでもね、温室でぬくぬく育ってきた坊ちゃんには蘭桂坊の一等地でさえ地獄のようだったでしょうね。ねぇ妹はどうしたのって聞いたら、今朝殺しました、ですって。最高でしょ。可哀相な子供達、ああ可笑しい」
大して可笑しくもなさそうに紫煙を吐き出すと再び白銀の銃を構える。
砕けた頭は一つだけぶら下げた目玉で未だこちらを見ている。
トリガーにかかる男の指は細長く、蜘蛛のようだ。
「純真無垢に口出しは無用よ、無法地帯」
銃口の狙いが心臓から頭へ移る。この男は眉一つ動かさずに撃つだろう。
「街は関係ねぇ、俺とあんたの話だろうが」
後ろ手にホルスターから銃を引き抜き、男の心臓に向け構える。
ああそうだ、俺は路地裏のドブを這って生きてきた、何の自慢にもならないが、それでも生きてる。
それでも生きられることを知っているからこそ、容易に死ぬ人間も、それを食い物にしている人間も気に入らない。
相方に言わせれば泥臭い考え方らしいが。
指一本の震えが合図になりかねないガンカウンターの空気を割るように、突如踏み込む複数の足音。
それに混ざる話し声が耳に届くや否や、男はあっさりと銃を降ろして音の方へ身体ごと向き直る。
「お店にいないから、どこ行ったかと思った」
「あれっ、もう次のお客さん?」
暗い階段から現れたのは、オーナーの身長に対し半分もない小柄な二人の男。
関係者なのだろう、一目でそれとわかる出で立ちをしているが、サイズと言い雰囲気と言い、何処か人間離れしている。
「おかえり、この人は私のお客よ、ここのお客じゃないわ。それであんたたち、収穫はどうだったの」
「あったよ。言われた通り蘭桂坊のゴミ捨て場に落ちてた」
チビな男二人のうち、黒髪の方は顔の半分が隠れるんじゃないかと思うほど大きなゴーグルをかけているせいで、口元でしか表情が窺えない。
「ごみ擬装してたからね、ちょっと手間取った」
茶髪の方は髪と同じく茶色い目をして、全体的に色素も表情も薄い。
マントのようなものを被ってはいるが、隙間から覗く変態臭い衣装はやはりあの男の見立てだろうか。
「死んだ人間は血縁だろうと恋人だろうと生ゴミだもの、間違っちゃいないわね。ちょっとみせてくれる」
「状態はまぁまぁかな、僕は食べないから知らないけど」
そう言いながら、茶髪のチビが肩に提げていたクーラーボックスを降ろす。
ごとん、とかなり重そうな音がしたが箱を下げていた本人からその箱の重さは窺えなかった。
「私だって食べないから知らないわよ」
留め具を外すと、勢いよく蓋が跳ね上がりドライアイスの冷気が溢れ出す。
中身を一瞥、頷くと透明なビニールに包まれたものを掴み上げ死体の前に突き出す。
一見それは、よくできた人形にしか見えなかった。
「坊ちゃん、お代の一部、確かに頂いたわ」
千切れた斜めにぶら下がった死体の耳元に、男は確かにそう囁いた。
俺の方に向いた片目は差し出されたそれの方は見ていない。
「おい」
「ん、ああこれ?坊ちゃんの妹よ。これもウチが受け取るべきお代に加算して良いのよ。ダメージも少ないわね、高く売れるわ」
透明なビニール越しに力無く目を閉じる五、六歳の少女。
伸びきった手足や特有の色は、少女が死体であると言うことを如実に物語っている。
「全く可愛らしいお嬢さんだこと」
影になった笑みを捉えた途端走る怖気と連動して降りていた腕が跳ね上がり再び照準。
「そいつ降ろせッ」
「まともな反応ね、あんたは正しいわ」
あんたの世界ではね。
見事な足払いを貰う刹那、逆転する天地と覗き込む蛇の目。
それを更に覗き込むように潰れトマトよろしく崩れた頭が鎮座している。
男は俺に馬乗りになったまま、チビの黒髪にビニールを預ける。
白銀の銃はぶれることなく、俺の心臓に構えられていた。
黒髪がビニールを受け取ると、空いた手でどこかから数枚の札を取り出しチビの茶髪に渡す。
「帰ったばっかで悪いけど、その肉の配達お願いね。マーロウの店は判るでしょ、50から下に値切るようなら"後が怖い"と言いなさい。あと朝ご飯が何もないから配達済んだら好きなとこで食べてきて。売り上げは使っちゃダメよ」
「小虎で食べてもいい?」
「杏仁豆腐つけてもいい?」
「何でも良いから、腐る前に配達しちゃって!」
わたわたと出掛けるチビ二人を見送りながら、少しばかり疲れたような溜息を吐く。
「あの子たちがね、ここの従業員よ。私の家族でもあるけど」
それで“わたしたち”か。
「拾ったのか」
「孤児と言えば孤児ね。まぁそれより、この話を終わらせましょうか」
単純に火力なら俺が上だ、ここでぶっ放せばこの男の上半身はなくなっちまうだろう。
だがそれは余りにも頭が悪い。不可侵は守り通すべきルールだ。
「私はきちんと断ったでしょう、無法地帯やあなたの世界のルールは捨てて臨めと。あなたは引き返すべきだったのよ。なのにあなたは無法地帯のルールに沿って、純真無垢の底辺を覗いた。これは行き違いなんてもんじゃない、わかるか」
「あんたはこの展開を読んでいた。だからこれ以外のカードを配らなかった、違うか」
返す言葉を聞くなり口角を上げた真っ暗闇から紅い舌が覗き、ゆるゆると唇を這う。
「お宅らの夜と、ここの闇は、質が違うんだよ」
襟を掴み上げ、浮いた耳元に滑り込む蛇の低い囁き。
その猫撫で声はマカブラの手招きに似て、今にも引き金を引いてしまいそうだった。
「何故、自殺代行を?」
聞くと立ち上がった襟から手を放し、銃も腰元にねじ込む。
「あなたは何故、他殺代行を?性に合ってるから、それとも、それしかなかったから?きっかけはそうかも知れないわね、私の答えはどちらでもないわ」
回りくどい言葉を並べながら、未だに椅子に放置されている元青年・現死体へ歩み寄ると、それと向かい合うように、その膝へ腰を下ろす。
酷い光景だが、彼にはとてもよく似合っている。
「今日はよく突き飛ばされるな……畜生」
独房の床に倒された身体を起こしはしたものの、立ち上がるのが億劫で直ぐ後ろの壁に腰を下ろし、背を預ける。
その位置から吹き飛んだ頭を覗き込む男の姿が見えた。よくそんなもん見てみようと思うな。
「私がこんな事をしているのはね、これが私にとって何よりの快楽だからよ」
死体の肩に腕を回しながらこちらに向いた歪み笑い。
そこには本来の顔が判らなくなりそうなほど複雑な色が浮かんでいた。
「言ったでしょう、若い男の死体に飛びつくババァ、年端もいかない少女を煮込んで喰うマーロウ、気に入れば生身でも死体でもいい私、犬としかできない女。これがこの街の正気なのよ。この街で異端なのはね、あなたの方なのよ」
ぶら下がった目玉に赤い舌が這う。もう吐きそうだ。
「後悔してるって顔ね」
「正直、してないとは言えないね」
「正しいわ。私だって"本来正気を主張出来るのは何か"解ってるつもりよ。その中で生きていけなかったから、この街にいるだけ。まぁ厳密に言えばここは居心地が良いだけで、何処でだって生きていけるけどね」
言葉を切り、紫煙を吐く。
ゆらゆらと立ち上る煙の糸は裸電球に絡みつき、融けるように消えた。
「でもこの子はそれに気付けなかった。うちのお客はみんなそうよ。みんな新上海の人間なの。無法地帯や純真無垢の人間はいないわ。無法地帯の人間はドブを這い回って生きる術を知っているし、自殺なんかする前に撃たれて死ぬわ。純真無垢の人間はここで人生を謳歌してる。死ぬ理由がアレすぎるプレイか薬しかないのよ、我ながら呆れるけど。何もないのは堅固な城壁に守られながら世界を舞台に華々しいビジネスを展開する新上海だけ。清潔な街並みに立派な外車にブランドのドレス、私たちから見たら何がいけないのか知りたいくらいの世界だわ」
砕けた頭の断面を首から上で唯一まともな形を残す下顎までを指で辿る。
「あなたが私を理解出来ないように、この子たちの世界には私たちが理解出来ない側面や軋轢があるってことね。私の商売が成り立ってることが何よりの証拠だわ」
男は溜息を乗せた紫煙を吐くと短くなった灰柄を砕けた頭に放り込んだ。
火種が消える音は、水溜まりに灰柄を捨てた音と変わらない。
死んだら生ゴミ、とはこの男の言葉だ。
「撃つ前にさ、見付かったか、って聞いてたよな。あれは?」
首だけでこちらを向くことが面倒になったのか疲れたのか、死体の肩から腕を降ろすと空いたそこに頭を預け、新しい煙草に火を付ける。
その体勢が妙にくつろいで見えた。
「あれは私の持論よ。過去に例えば三つ、忘れられない楽しい思い出があるのなら、今の苦労を抜けた先には三百の幸せがあるの。だからあの子に言ったのよ、あなたの幸せな記憶を呼び起こしてご覧なさい、と。一つでもあったなら、これから先はあなたの勝ちよってね。その勝ちへの生き方までは知らないけどね」
「良いこと言ってる風に聞こえるから不思議だよ。あんたの過去はどうなんだ」
「今ご覧の通りよ。こんな人間が出来上がった昔話が聞きたいの?」
「やめとく」
「あんたもそうでしょ、鉛玉としかファック出来ない街の住人にどうしてなったのかなんて、答えられても困るわ」
「言えてるよ」
暫しの沈黙、この部屋には窓もなければ時計もない。
外の音も一切届かない生臭い薄闇の中で死を待ったここの客たちは、一体どんな思いでその瞬間を迎えたんだろうか。
俺のように鉛玉と火薬がものを言う世界で暮らす日陰者と、銃口を突き付けられることもなく真っ当に暮らしながらもここに来た客、どちらが幸せなのか。
一等まともなのは勿論銃口を突き付けられることもなく真っ当に暮らし、真っ当に墓に入る連中だが。
俺がその暮らしを生きた時、それを幸せだと思うだろうか。
初めからそうだったなら、それが幸せなんだろうか。
俺も此処で死んだ奴も、道を間違えたという点では同じなんだろう。
間違えた末に辿り着いた場所が違うだけで。
ならばそうだ、純真無垢の人間もそういうことになる。
俺に難しいことは解らない。
つまり、つまりだ。この世は幾重にも分かれた下水管でしかなくて、みんな違ってみんないいってことか。
まぁそうだ。
「無法地帯の人間が鉛玉としかファック出来ないガンスリンガーなのと同じように、私たちは夕闇としか踊れないマカブラなのよ。お解り頂けたかしら、この街や、この店を」
「未だに理解に苦しむ部分はあるけどな。それは何処の街を覗いたって同じだろう?世界が一つじゃないことは理解したつもりさ」
「上出来よ、私たちは隣人を愛せとも憐れめとも言わない。ただ居るだけよ。不可侵が大前提としてあろうとも、あなたはあなたの世界をあなたのルールで生きればいい。まぁ死にたくなったらいらっしゃいな、好みじゃないけど今日のよしみでコレクションに加えてあげないこともないわ」
「冗談だろ」
血の付いた唇が歪む様は正直、冗談とは思えなかった。
「なぁ、あんたはもう一つ、俺に答えるべき質問がある」
「あったかしら?」
無関心を装っているのか本当に無関心なのか、死体の指を弄び、こちらを見ようともしない。
「あるさ。俺はこう聞いた。"あんた、何だ?"」
死体の指で唇をなぞり、一瞥。
「BAR Water Danceのオーナー兼マスター、或いは自殺代行業者。それでも不満ならとっておきの答えがあるわ。純真無垢統轄。私がイノセントブルーよ」
街の統轄。変態としてただ者じゃないことは見ればわかる。しかし変態を統べる変態だったというのは想定外にも程がある。
「何よその顔」
「完全に想定外だった」
「あらそう?まぁ街の統轄なんて表に出ないもの、当然ね」
じゃあ、また後でね。
座ったままの死体に静かに囁くと、男は白銀の銃を腰に差したまま独房を後にする。
「あんたが朝っぱらに来るから寝ずにオープンじゃない。どうしてくれるの、眠いわ」
「衝撃体験しまくりで吐きそうなんだけど、どうしてくれんの。あと眠い」
「……吐いたら」
どうでもよさそうに言い捨てると暗い階段をさっさと上ってゆく。
次第に近付いてくる喧噪の向こうに死んだ兄妹の姿が霞んでいった。
どれくらいあの空間で過ごしていたのだろう、一段一段を踏みしめながら時間を飛び越えてしまったような錯覚を感じた。
前を行くこの男はきっと、自殺代行稼業の繁盛を喜んではいないのだろう。
"これが快楽"そう言い切る目は酷く冥かった。
ならば何故続けるのか、それが確かに彼にとっての快楽で、言葉を借りれば彼に振られた役だからだろう。
"これが俺なんだ"自分に言い聞かせるように俺にそう言いながら、冥い目をして祈るように弾丸を放つ男を俺は知っている。
自由に見える街ほど、それは知らずに演じさせられているのかも知れない。
そうではないといいと誰もが願いながら。
階段を上りきった先の小部屋は、それでも独房に比べれば遙かに広く明るく、カウンターの向こうに集まり始めた人の声が俺を安心させた。
チラリと店内を窺うが、照明は薄暗く朧気な酔客の気配とカウンター内の様子しか見えない。
どうやら不在のオーナーに代わり、いつの間にか戻っていたチビ二人が切り盛りしているようだが、カウンターの高さをカバーする為に置かれた踏み台が面白い。
あれがないと酒を出せないのだろう、チビは大変だな。
階下に流れる血を見ることもなく、鼻につく匂いを嗅ぎ取らず、死を選んだ人間の頭上に立って笑いながら一夜を楽しむ。
独房の光景もこれも、間違いなくこの街のあるべき顔なのだろう。
「JINちゃん」
背後から名を呼ばれ、反射的に振り向くとオーナーが居た。
「わかってると思うけど。この街を正面から見ないことよ。偶然隣り合った世界を飲み込もうとか、理解しようとか思わないで頂戴。あの兄妹のことも」
「……わかってるさ。俺たちの世界は違ってて、あいつらはここで終わりなんだ。明日御伽噺になれたかもしれなかったとしても、今日ここでその話は終わりなんだ」
薄く笑んだまま伏し目に頷く男は羽根のジャケットを血塗れにしてしまったのだろう、意外なほど普通に白いスーツを着こなしている。
「って、あんた何で俺の名前知ってんの」
余りにも自然に呼ばれ、危うく流してしまうところだったが俺はこの男に未だ名乗っていないし、この男の名を聞いていない。
男は毛先に僅かに残る血を拭いながらいい加減に答える。
「統轄だからよ」
髪の世話で忙しいのだろうか、戻る言葉は酷く端的だった。髪切れ。
その手短な回答に納得すべきか、追及すべきか。
「自由はね、決まり事や台本の上に成り立つの。常に先を読みなさい、でないと演出家に寝首を掻かれることになるわよ」
髪型を整え直し、襟元を正した男が意味深な言葉を紡ぐ。
「あとねJINちゃん。私と仲良くしとくとイイコトあるかもよ?」
にまりと笑むと背を向けて店内へと出て行く。
常連客ばかりなのだろう、登場に合わせ声が上がるのを遠く聞いていた。
「はあ」
溜息一つでソファに腰を下ろす。
出て行くタイミングも逃したし、ここで一晩寝てしまおうか、寝てしまおう。
「JINちゃん」
ごろりと横になったところで再び呼ばれる。
が、この声は誰だ、変な声しやがって。俺は眠いのでほっといて下さい。
「JINちゃんってば」
ピシリと手の甲を打たれる。
「何だよ……ちゃん付けで呼ぶなよ。何だよチビの片方かよ何だよ」
チビのうち、茶髪の方が短い鞭を片手に仁王立ちでこちらを窺っている。
マントを被っていないので変態くさい衣装丸出しだが本人は気にする素振りもなく平然としている。
「寝るなら帰れってオーナーが」
なんと酷い一言だろうか。
顔色一つ変えずに佇むチビがとても酷い生き物に見えて思わず涙ぐみそうになる。
「呑むなら奢るって」
茶髪のチビに深く頷くと立ち上がる。通りを挟んですぐ無法地帯とはいえ、塒までのガソリンが明らかに足りていない。
ここでガッツリ補給させて貰おう。俺とお近付きになったことを後悔させてやろう。
勇んで店内に出て行く視界の隅でチビがソファに寝転がる様子が見て取れた。俺が邪魔だっただけなんじゃないのか。
そもそもあいつらは何者なんだ。謎が多すぎる。
「あら、お出ましね」
イタズラっぽい歪み笑いと差し出されるグラス。
見事なまでに貌を使い分ける男に負けじと笑み、宣戦布告。
「ここにある酒全部、呑み尽くしてやるからな」
この街やこの男を理解する必要はない。
自分が根を張る無法地帯のことすら理解せず本能で楽しんできたじゃないか。
それでいい。
もともと深く考えるのは苦手なんだ。
どうにかなるさでどうにかなってきた、それで世はこともなし、だ。
「オーナー、俺は俺の流儀であんたと付き合うことにした。あんたが何だろうと」
「ただの変態相手にいい心掛けね」
「で、俺の流儀で外せないことがあるんだが。What's a name?」
「Nothin'。残念、無いわ。この街に来るより前に個人としての名前は捨てたの。あんたみたいな通り名も持ってないから、好きに呼ぶと良いわ」
「じゃあ変態で」
「受けて立つわよ鉛玉」
すっかり見慣れてしまった歪み笑いをカウンター越しに見上げる。
この男は常にこうして笑っている。
この歪んだ街の現実を受け止めも受け流しもしないまま。
だから言えるのだろう、"私がこの街だ"と。
人間は人生の内何度か取り返しのつかないミスを犯す、そういうもんらしい。
あの日の俺のミスは恐らく"全人類が選択し得るミスの中でも最凶最悪のハズレを勇んで選んじまった。"と思ったことだろう。
正解だと思ったチョイスがとんでもない貧乏くじだった、なんてこともザラにある世界だ。
いい方に転んだのならいいじゃないか、それで世はこともなし、だ。
この世界には朝と夜がある。
日が昇る朝は一つでも、星の瞬く夜は星の数だけ存在する。
朝よりも多彩に色を変える宵闇の中に、無法地帯の夜や、純真無垢の夜がある。
闇が交わるその一瞬を楽しめばいい、そうだろう。