第2話 講和の迷宮
1919年1月、パリ。
霧がセーヌを覆い、ヴェルサイユ宮殿の尖塔は白く霞んでいた。講和会議は三ヶ月目に入り、勝者たちは疲労と苛立ちを隠さず、敗者たちは沈黙の中で裁きを待っていた。
鏡の間の回廊を、カール・フォン・エーデルシュタインはゆっくりと歩く。壁に並ぶ王侯の肖像。その視線は、今ここに立つ者たちを見下ろしているかのようだった。
提示された講和条件は、想像以上に苛烈だった。
オーストリアは縮小国家へ。ハンガリーは切り離され、チェコスロバキアは独立。軍は解体され、賠償が課される。
それは敗戦処理ではない。中欧という地理そのものの解体だった
「地図から消える」
カールは低く呟く。
そこへ、プラハから呼び寄せた経済学者エミール・レーマンが現れる。眼鏡の奥の目は疲れているが、まだ光を失ってはいない。
「連合国は我々を交渉相手と見ていない。ただの分割対象だ」
「ならば対象ではなく、必要な存在になる」
カールは机に広げた地図を指でなぞった。
東経十度から三十度。ドナウを軸にした帯状の地帯。
東ではボリシェヴィキ政権が固まりつつある。西では資本が戦後復興の名で市場を求めている。
「彼らは緩衝地帯を欲している。ならば我々がそれになる」
夜、ハンガリー軍将校イシュトヴァーン・バラージュが合流する。ブダペストでは革命の火種が燻っているという。
「時間がない。軍内部も割れている」
三人は夜通し覚書を練った。
協同組合を基盤とする経済自立。市民皆兵による武装中立。いずれの陣営にも属さぬ非同盟外交。
理想論ではない。中欧が生き延びるための、唯一の構造だった。
翌朝、英国代表団との非公式面会が実現する。応対したのはロイド・ジョージ首相の側近の一人。
「第三の道、か。アカの拡張を防ぐ壁になると?」
カールはエミールの試算書を差し出す。
「食料自給率八割。重工業は限定的に維持。外部市場に依存しない経済圏を形成できます」
側近は黙って資料を読み込む。
「フランスは反対するだろう。だが、ソ連の影響がドナウまで及べば、欧州全体が揺らぐ」
会議は迷宮だった。
フランスは徹底的な解体を主張し、米国は理想を語りながら距離を置き、イタリアは領土要求を譲らない。
それでも、条文の隙間に一文が滑り込む。
――ダニューブ連邦の暫定的枠組みを三年間認める。
完全承認ではない。条件付きの実験。
だが「解体」ではなく「再編」が選択された瞬間だった。
ウィーンに戻った日、リングシュトラーセに緑の旗が掲げられていた。黒金の帝国旗ではない、新しい色。
「迷宮は抜けたな」
エミールが言う。
カールは首を振った。
「いや。迷宮は地図の上に移っただけだ」
東の赤軍は国境を測り、西の金融資本は市場を探している。
講和は終わりではない。
それは、中欧が自らの形を決めるための、猶予に過ぎなかった。
新聞は小さく報じた。
「中欧連邦構想、暫定承認」
だがプラハでは最初の協同組合が登録され、ブダペストの士官学校では中立防衛論が講じられる。
一九一九年の冬。迷宮を抜けたはずの連邦は、まだ入口に立っていた。




