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十九

作者: 蓮根
掲載日:2026/02/02

その人は、まるで雨上がりの墓地に立ち込める霧のような匂いがした。


湿り気を帯びて、冷たく、どこか腐敗の予感さえ孕んだ、逃れようのない影の匂い。土の匂いと、枯れた菊の残り香と、誰かが捨てた線香の灰が混じり合ったような、決して晴れない湿気。


初めて嗅いだ瞬間、私の肺の奥がざわついた。それは不快ではなかった。むしろ、懐かしい毒のように、体の芯まで染み込んでくる感覚だった。


私はまだ十九で、嫁入り前の娘である。


実家では、母が毎日「そろそろ良い縁を」とため息をつき、父は黙って煙草をふかす。私はそんな家を、息苦しく思いながらも、どこかで諦めていた。女はいつか嫁ぐものだ、と。


けれど、あの匂いを嗅いだ瞬間、私は初めて、自分の体が別の目的のためにあるのかもしれないと思った。


彼の匂いは、私の少女の頃の清潔な記憶を、ゆっくりと侵食していった。







これは私の夢か、はたまた幻影かもしれないが。



彼は確かに私に触れた。

 

彼に触れたとき、私の指先は微かに震えていたと思う。それは恐怖ではなく、もっと根源的な「発見」の喜びだった。世の中には、これほどまでに完成された「欠落」が存在するのかという、ほとんど宗教的な驚き。


彼の腕は細く、骨が浮き出ていて、触れると氷のように冷たかった。なのに、その冷たさの中には、焼けるような渇きが潜んでいるのが分かった。まるで、長い間水を拒否し続けた砂漠の底に、まだ微かに残る熱のようなもの。


私はその腕に指を這わせながら、自分の指が白く細いことを意識した。まだ、誰にも汚されていない指。けれど今、この指は彼の欠落に触れている。


私は彼の腕を、そっと握りしめた。骨の感触が掌に伝わり、胸の奥が疼いた。ああ、この人は、私の指で壊れてしまうかもしれない。壊れてほしい。


彼は私を見る。


その瞳は、私という個人の魂を求めているのではない。ただ、自分の空虚を埋めるための、あるいは自分の惨めさを肯定するための、都合のいい「聖母」という名の鏡を探しているだけだ。

私はその視線を真正面から受け止めながら、内心で小さく笑った。


ああ、あなたは自分がどれだけ醜いか、どれだけ惨めかを、誰よりもよく知っている。それを認めたくないからこそ、私を「救済者」に仕立て上げようとしている。


けれど本当は、私に救われることなど望んでいない。ただ、私に「見られている」実感が欲しいだけなのだ。


私はまだ、処女のはずだった。母の教え通り、男に体を許す前に、心を許すなと。ああ、もう!古臭いったらない!けれど私は自分で思っていたよりも親不孝者だったらしく。彼の視線は、私の心を先に剥ぎ取っていった。着物の裾を少しずつ捲り上げるように、ゆっくりと、確実に。





「私は弱い」




彼がそう口にするたび、私の内側で何かが甘く、疼くように鳴り出した。

それは蜜のようにねっとりと喉を通り、胃の底で熱を帯びて広がっていく。





ああ!


なんて美しい嘘なのだろう。


彼は自分が「弱い」のではないことを、誰よりも知っている。自分が「傲慢」であり、「選ばれた者」であるという幻想を、必死に守ろうとしているだけだ。そしてその幻想を維持するために、「弱さ」という名の薄汚れた衣装を纏っている。

私は、その衣装を剥ぎ取るのではなく、むしろより深く、より重く彼にそれを着せかけてやりたいと願う。

もっと惨めに、もっと無様に、もっと救いようのない姿でいてほしい。

そうすれば、私はもっと深く彼を愛せるから。


私はまだ十九。世間では「まだ若い」と笑われる年齢。でも、この疼きは、年を重ねた女のものより、ずっと純粋で、ずっと残酷だった。


彼が熱を出した夜があった。

古いアパートの六畳一間で、薄い毛布一枚にくるまり、歯を食いしばって震えている姿。

額に触れると、驚くほど熱かった。汗で濡れた前髪が額に張り付き、蒼白い顔に一本の青い血管が浮かんでいる。

私は喜びさえ覚えた。

彼の熱い息が私の手のひらを湿らせるとき、私は自分が万能の神になったような錯覚に陥る。


「かわいそうに」と囁きながら、彼の乱れた髪を撫でる。

その瞬間、私は彼の叔母になり、近所の娘になり、彼に群がってきた数多の女たちの一部となって、彼という孤独な遊戯の中に埋没していく。


彼は目を閉じたまま、かすれた声で私の名前を呼んだ。

それは、祈りでも、呪いでもなく、ただの確認だった。

私がまだここにいるかどうか。

私がまだ、彼を見捨てていないかどうか。

私は濡れた手ぬぐいで彼の額を拭き続けた。着物の袖が汗で重くなるのも構わず。十九の私は、まだ母の膝で泣いていた頃の癖で、指を口に含みそうになった。でも、すぐに思いとどまった。これは私のものだ。彼の熱は、私のものだ。


彼は私のことを「怪物」と呼んでいるのかもしれない。

「男よりも下等で、貪欲で、脆い存在」だと。

けれど、愛しい人、あなた。本当の意味で貪欲なのはどちらかしら。

自分の空虚を他人の情熱で埋めなければ呼吸もできないあなたと、その空虚を知りながら、あえてその中に溺れてやる私。

私たちは、どちらも救いようのない共犯者なのだ。

彼が私を蔑むことでしか、自分を保てないように。

私が彼に蔑まれることでしか、自分を満たせないように。

私はまだ、嫁入り前の娘。帯を締める手は、いつも少し震えていた。けれど彼の前では、震えなかった。震えるのは、心の奥だけだった。


朝が来た。


目が覚めると、部屋の空気は淀んだ沼のように停滞していた。

六畳の空間に充満する、安酒の臭いと煙草の吸い殻の残骸。灰皿には、ねじ曲がった吸い殻が山のように積まれ、床には空の硝子瓶が転がっている。

彼はまだ寝たふりをしている。布団の中で、微かに肩が上下しているのが分かる。

カチカチと時を刻む古い置き時計の音だけが、私たちの沈黙を嘲笑うように響いている。

私は、彼が必死に「自分を保とうとしている」のを感じていた。

昨夜、私の腕の中で見せたあの無防備な渇望を、彼は朝の光とともに「なかったこと」にしたいのだ。

彼にとって、私は朝とともに消え去るべき「怪物の物陰」でなければならない。

私は布団の端に座り、膝を抱えた。着物の裾が少し乱れている。十九の私は、まだ体が軽く、膝を抱えると、まるで子供のように小さくなれた。でも、心はもう子供ではなかった。


「水は」


掠れた声を出したのは、彼を日常へと引き戻すためだった。

彼は重い体を引きずって起き上がり、卓の上のペットボトルに手を伸ばす。

その横顔を、私はまじまじと見つめた。

朝日がカーテンの隙間から差し込み、彼の頰を薄く照らす。

志賀直哉がどう言ったかは知らない。


けれど、今の彼こそが、一番美しいと私は思う。


朝日を浴びて、自分の卑小さに耐えかね、今にも崩れ落ちそうなその震える輪郭。

私に支配され、私を蔑み、それでも私から目を逸らせないその矛盾した魂の形。

彼の唇は乾いてひび割れ、目尻には細かい皺が刻まれている。

それでも、その顔はどこか神聖で、まるで古い聖像のように儚い。


私は手を伸ばし、彼の頰に触れた。冷たく、乾いていた。十九の指は、まだ柔らかかった。


彼が差し出した水は、驚くほど透明だった。

硝子瓶を傾けると、冷たい水が私の喉を滑り落ちる。

私は喉の奥を鳴らしながら、それを飲み干した。

彼はそれを感嘆に近い眼差しで見ていたけれど、私はただ、彼の中に溜まった澱みを、私が代わりに飲み干してやりたかっただけだ。

彼の汚れも、弱さも、惨めさも、全部、私の体内に取り込んでしまいたかった。

そうすれば、彼は少しだけ軽くなれるかもしれない。

そして私は、少しだけ重くなれる。

水を飲み終えた喉が、かすかに焼けるように熱かった。十九の私は、まだ酒を知らなかった。


でも、この熱は酒よりも強い。


「……まだ、何か御用かな」



彼はそう言って、いつもの薄っぺらな、けれどひどく痛々しい自尊心の仮面を被り直した。

声はわざと低く、冷たく、突き放すように作られている。

私は笑いそうになった。


どうしてそんなに強がるの。


どうして、自分をそんなに遠い場所へ置こうとするの。


あなたはただの人間なのに。


私と同じ、泥にまみれた、ただの寂しい生き物なのに。


私は静かに首を振った。着物の袖が、かすかに音を立てた。



「いいえ。ただ、貴方の顔が、あまりに寂しそうだったので」



私がそう告げたとき、彼の瞳の奥で、何かが確かに砕け散った。

鉄壁の自尊心、選民思想、女性への軽蔑。

それらすべてを支えていた細い糸が、ぷつりと切れた音が聞こえた気がした。

彼の肩がわずかに落ち、唇が震えた。

一瞬だけ、本物の恐怖がその顔を横切った。

自分が「見透かされている」という、逃れられない事実を突きつけられた恐怖。

私はその瞬間を、胸に刻んだ。


十九の私は、まだ多くのことを知らなかった。でも、この恐怖の味だけは、知っていた。


私は、彼が再び布団に潜り込むのを見て、静かに立ち上がった。

着古した着物の襟を合わせ、この部屋に残された「私」という記号を、少しずつ剥がしていく。

髪を後ろでまとめ、帯を締め直し、足袋を履く。

一つ一つの動作が、まるで儀式のようだった。

彼にとっての私は、ここで終わるべきなのだ。

彼が私を「怪物」として憎み続けられるように。

彼が私を「下等な存在」として見下すことで、なんとか正気を保っていられるように。

私は鏡の前に立ち、自分の顔を見た。十九の顔は、まだ丸く、頰に幼さが残っていた。でも、目はもう違う。怪物のような目だった。


さようなら、愛しい、私の欠落。


部屋を出て、戸を閉めた。

その瞬間、私の背中には、彼が必死に隠そうとしていた「孤独」という名の重みが、ひっそりと覆い被さった。

それは冷たく、湿っていて、まるで彼の体温の残り香のようだった。

階段を降りる足音が、静かなアパートに響いた。私はまだ十九。足音が軽かった。


朝の街路は明るすぎて、私の目は眩んだ。

地面に反射する光が、まるで無数の刃物のように鋭い。

行き交う人々の足音、時間外れの烏の鳴き声、何処かの自転車の鳴り物。

すべてが現実の音なのに、私にはひどく遠く、他人事のように聞こえた。

私は歩き続ける。着物の裾が、風に揺れる。


十九の私は、まだ背筋がまっすぐだった。


けれど、私の掌にはまだ、彼のあの蒼白い、冷たい肌の感触が残っている。

指の腹に残る微かな汗の跡。

首筋に残る熱の記憶。

私はそれを、決して洗い流さないだろう。

家に帰れば、母が「どこへ行っていたの」と問うだろう。私は「友達のところ」と答える。



十九の嘘は、まだ軽い。



私は歩き出す。

またいつか、彼が自分の闇に耐えきれなくなったとき、私は再び「怪物」として、彼の前に現れるだろうか。

彼という名の空っぽの器に、私の偽りの愛を注ぎ込むために。

そのとき、私たちはまた、どちらが掌の上で踊っているのか分からないまま、哀れな遊戯を繰り返すのだ。


十九の私は、まだ嫁入り前である。けれど、この幸福は、嫁いでも、決して手放さないだろう。

彼の欠落は、私のもの。









 

彼の匂いが、私の着物の襟元に染みついている。歩くたびに、かすかに鼻をくすぐる。雨上がりの墓地。腐敗の予感。線香の灰。私はそれを嗅ぎながら、胸の奥で小さく息を吐いた。あの匂いは、もう私の体の一部だ。


十九の体は、まだ柔らかく、匂いを吸い込みやすい。


彼の指が、私の髪に触れた記憶。



 

私はまだ十九。




母は「早く良い家に」と言うけれど、私はもう、良い家などいらない。彼の六畳の部屋で、煙草の臭いと安酒の臭いにまみれながら、彼の欠落を眺められただけで、十分だった。


朝の街は明るい。人が多い。誰も、私の掌の記憶を知らない。



私は十九。


まだ、誰にも知られていない女学生だ

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