02幕
錠前が落ちる音は、昨夜より乾いていた。
地下Bar「Noir Knot」の空気は、湿度よりも手順で動く。
最初の客が腰を下ろし、氷がひと回りして止まる。
バーテンダーの三上圭吾は手元だけで店の密度を測り、
バニーの玲奈と紗世は“置く”という仕事だけで導線を整える。音楽はない。
今夜も、縄と呼吸がすべてだ。
袖で芦原 匠は、巻いたコイルの面を指でなぞった。
茹でて油を抜き、乾かして揉み、引いて寝かせた麻縄。数日前より、音が少しだけ落ち着いている。
鳴らす準備は進むが、鳴らすのは今夜ではない。順番は黒川 玲司のトップで決まっていた。
照明が落ちる。
アマーリエが中央に出る。肩を出した衣装、視線は低く、呼吸は浅く整っている。
黒川は早い。胸郭の上に一文字を走らせ、腕を背で交差、後手の形へすばやく導く。
結び目は見せる側に置き、余りを派手に払う。観客の視線は彼の思惑どおりに動く。
——だが、匠の目には肘の角度が気になる。肩の可動域より形の都合が先に立っている。
結びは強すぎ、留めが一点に寄っている。
胴へ縄が回り、菱が立つ。角を誇張すれば視覚は強くなるが、食いの管理が難しい。
皮膚温、汗の粒、指先の色。アマーリエの右手の色がわずかに引いた。耳朶が少し白む。
負担の兆候は末端から来る。
黒川は速度を落とさない。拍子を上げたまま吊りに移る。
支持は上に一点。床は片足支え。片吊りの半荷重を狙う段取りだが、逃げの角度が甘い。
上げ際、アマーリエの肩のラインがぴたりと跳ねた。音はない。だが、縛り手にだけ届く軋みだ。
カウンターの三上が、目でひとつ合図を送る。
——介入を許す、の合図。
匠は二歩で袖を出た。黒川の背中へ回り込み、支持角を指で示す。声は出さない。
黒川は笑いを含んだ囁きで、「大丈夫だ」と言う。
匠はアマーリエの手先を見る。親指と人差し指が一度だけ合わせられ、すぐ解かれる。
余裕が削れるときの小さな手の癖。
匠は迷わず、床側で逃げの支点を作る角度に自分の身体を入れる。
荷重の一呼吸を受けるための、ほんの傾き。黒川の結び目に触れはしない。
触れずに、**端**の向きを戻す位置だけを作る。
血色が戻る。
アマーリエの顎の緊張が、わずかにほどけた。
黒川の手の速度が半拍落ち、解きが始まる。
観客は静かだ。氷の音が途切れ、すぐに再開する。見たものは少ない。
ここでは、見えないことが礼儀になる。
舞台裏に戻ると、黒川が肩をすくめた。
「おまえ、相変わらず真面目だな。客は派手を見に来る」
匠は頷く。否定しない。派手は店を回す。記号は強い。
だが、舞台の縄は、戻せる手で結ばれていなければならない。匠はそれだけは譲らない。
言葉にはしない。手の中で反芻する。
鏡前のアマーリエは、肩を小さく回し、水をひと口で飲み込む。
視線が匠に触れて、すぐ外れる。その短さが礼の代わりになる。
指先の色は均等に戻った。耳朶の温度も左右差がない。跡は浅い。衣装に影響は出ないはずだ。
袖へ戻り、匠は自分のコイルをほどき直す。
端の始末、面の重なり、息の方向。
「足すのは簡単だ」——心の中で何度も繰り返してきた文句が、今夜は少し別の重さで置かれる。
足せば派手になり、力を上げれば“効く”。だが、減らすためには、見えていなければならない。
どこで待ち、どこへ逃がし、どこで終わるか。終わり方の読みが、最初の一手を決める。
次の出番の段取りを三上が短く伝える。
「黒川のあと、軽く床技を一本。時間は六分」
匠は頷く。六分は短くない。決して長くもない。足すと破綻する長さ、減らすと立ち上がる長さ。
ステージの黒が視界の端で濃くなる。玲奈が水を一杯、紗世がタオルを一枚、音もなく“置く”。
黒川の演目が終わり、照明が半歩だけ明度を落とす。
匠は中央へ出た。
観客は静かに座っている。名もなき視線が集中する。
匠は縄を掲げない。ぶら下げもしない。在るまま手に持つ。
アマーリエと正面から合う。合図はしない。呼吸の深さを合わせる。
最初の手で胸郭の上を横切るとき、押さない。皮膚に音だけを残すように通す。
縄が滑り、空気が薄く鳴る。
背へ回り、腕を導く。後手は、肘の位置をモデルに選ばせる。こちらは、選ばせるための時間を作る。
結びは小さく、見せない。端は逃がす方向に置く。解くときに戻る道が、最初から整っていること。
そこに嘘がないこと。
胴に回す。菱はひとつだけ置く。二つ目は作らない。
空白は飢餓ではない。重心の置き場所だ。
アマーリエの吸う息が胸郭を広げ、その最小点で匠は縄をわずかに滑らせる。
観客の輪郭がふっと曖昧になる。何も起こっていないように見える瞬間ほど、縄は仕事をしている。
匠の掌が汗ばむ。無駄に締めたくなる衝動が、爪の先に出る。
待つ。
呼吸が深く落ちるまで、待つ。
待てるやつは少ない。今夜の匠は、待つ側に立つ。
終わりを決める。
端の向きを変え、小さく留める。結びは肌から離れた位置に置く。
解きに入る前、呼吸を一度だけ合わせる。戻す道へ、身体を誘導する。
解きは速くない。戻る速さで速い。
血が指先へ帰る時間に、手を合わせる。撫でない。撫でれば神経がざわつく。
持ち替えの微圧で、終わりを知らせる。
照明が上がる。
客席は立たない。氷が二度鳴る。
アマーリエは目を開け、ほんの短い礼をする。顔の筋肉はほとんど動かない。動かす必要がないからだ。
必要なものは、もう済んでいる。
匠は一歩だけ下がり、袖へ戻る。
三上がカウンターの奥で指を一本立てた。
「六分」
匠はうなずく。時間の中に空白を残せた。足りないものは多い。
だが、今夜、足さなかったことがひとつだけ、確かな手応えになった。
黒川が近づいてきて、コイルを掌で弾いた。
「地味だな、芦原。だが……まあ、悪くない」
彼の笑いには、まだ“派手”が混じっている。
匠は返さない。
派手は店を回す。地味は時間を回す。
ここは舞台だ。どちらも嘘ではない。だが、戻せる手は一本しかない。
鏡前でアマーリエが肩を軽く回す。
匠が視線だけで「どうだ」と問うと、彼女は同じ短さで「問題ない」を返した。
それで充分だ。
会話はいらない。触れ合いもない。
Noir Knotでは、作品と時間だけが客席に届く。
匠は巻き直したコイルを掌に収め、指の汗をタオルで拭った。
“責めたい”は、いつでもできる。
“守って終わらせる”は、ここでしか学べない。
階段の上は湿った夜風。雑音がまとめて落ちてくる。
匠は耳を澄ます。下の階からは、氷の音と衣擦れの気配が、かすかに上がってくる。
明日はまた別の夜だ。
派手が来るか、静けさが来るか、それはわからない。
ただ、縄の終わり方だけは、もう嘘をつかないと決めた。
◇
【Noir Knot 縄技法辞典】 ~派手縄と基本忠実のあいだで揺れる人々~
■派手縄
黒川先輩が愛してやまない“客席向けアピール特化型”の技。
余りを払う動きがやたら豪快で、縄より先に空気がびびる。
店の売上には強いが、モデルの肩は時々弱る。
なお、派手縄をやりすぎると三上マスターの眉間が派手に寄る。
■基本忠実
匠の人生哲学そのもの。
「結びは小さく」「端は逃がす」「呼吸を読む」「戻す道は先に作る」
など、舞台の裏で地味に効く“生涯役立つ小技”が多い。
習得すると、人から「真面目だな」と言われる副作用つき。
■肘角監査
匠が勝手に始めた身体チェック。
肘の角度が1ミリでも気に入らないと、内心で却下スタンプが押される。
黒川先輩にはまったく響かないが、アマーリエにはよく伝わる。
■菱の暴走
菱縄の角を立てすぎた結果、
視覚は強くなるのに身体は「ちょっと待って」と言い始める現象。
匠はこれを見ると眉がひとつ下がり、黒川はこれを見ると満足げに頷く。
価値観は人によって違う例。
■片吊りの沼
“派手に見える”という理由だけで黒川が好む技。
重心がズレると、モデルの肩が無言で抗議してくる。
匠はその抗議を読むのがやたら上手く、結果よくフォローに回る。
沼というより、もはや黒川用の定番トラップ。
■端の道理
匠がずっとこだわり続ける“端の正義”。
「最初の位置に終わりの道があるべき」という理屈を誰よりも守る。
黒川に「地味だな」と言われるが、
三上マスターからはたまに“黙った親指アップ”がもらえる。
■待てる者
縄を握る者の格を決める、隠れた試験。
焦って締めたくなる衝動を抑え、呼吸が落ちるまで待てるかどうか。
匠は第二夜でこれを会得し、黒川は三十夜経っても覚える気がない。
■戻せる手
派手と地味の境界線にして、縄師の矜持。
“責めたい”は誰でもできるが、“守って終わらせる”は難しい。
匠が学び続けている技の核であり、黒川が永遠に勘違いし続ける部分。
今日もNoir Knotの静寂の中で、この一本の概念だけが輝く。
■黒川視点・勘違い色気幻想編
俺・黒川玲司は、Noir Knotで一番“映える縄”を扱う男だ。
これは誰も言わないが、俺はわかっている。照明が落ちた瞬間、客の視線がまずどこへ行くか。
モデル? 違う。匠? もっと違う。
俺の手元だ。
この事実だけで酒が飲める。
いや、飲まないけどな。ステージ前は喉を乾かしておいたほうが呼吸が回る。
……なんで匠はあんなに水ばっか飲むんだ? あいつは胃袋でも鍛えてんのか?
さて。俺は“派手縄”を担当する男である。
自分で言うのもなんだが、俺が縄を払う動きは美しい。
余りを手の甲で泳がせた瞬間、客席の視線が一気に寄る。
これを匠に説明したことがある。
「演出です」とな。
そしたら匠は
「…はぁ」
と、なんとも言えない曖昧な頷きを寄越した。
はぁ、じゃねぇ。もっと敬え。これでも俺は先輩で、ここでトップを張り続けてる男だぞ。
俺は思うのだ。縄には“色気”というやつがある。
色気と言っても、別に“いやらしい”とかそういう浅い話じゃない。
人の動きを引きつける吸引力のことだ。
艶、でもいい。迫力、でもいい。舞台映え。
それらを全部ごちゃ混ぜにして、俺は“色気”と呼んでいる。
問題は、だ。
匠がその“色気”をまったく理解していないことである。
あいつは基本がどうとか、肩の可動域がどうとか、末端の血色だとか。
もちろん大事だ。俺だって最低限は見てる。
ただ、俺と匠では“何を先に置くか”が違うのだ。
俺は、客が“見たい線”を作る。
匠は、身体が“耐えられる線”を作る。
どっちが正しいという話ではない。
ただ、舞台ってのは華がなくちゃ回らんのだよ。
それにしても……俺はずっと思っていることがある。
アマーリエの視線だ。
いや、誤解するなよ? 別に変な意味じゃない。
ただ、俺が縄を払うとき、彼女のまぶたが少しだけ揺れるのだ。
あれを俺は“感心している”と解釈している。
……してきた。
……最近までは、していた。
ところがだ。
匠が袖でアマーリエを見たとき、彼女が一瞬だけ頷いたのを俺は見逃していない。
あの短い頷き。あれは「理解した」という合図だ。
なんで匠なんだ。俺じゃなく?
……まぁ、いい。
匠は真面目すぎる。あれだけ黙って身体を読むやつに、派手縄の“魅せる華”は理解できん。
俺とあいつは別の道を歩んでる。それでいい。
ただ、問題は昨日のことだ。
吊りの半荷重のとき、アマーリエの指先が少し色を失った。
俺もちゃんと見ていた。だが、演目のリズムを壊すわけにいかん。
一瞬で調整すれば済む話――だった、はず。
だが、匠が入ってきた。
あの無駄のない二歩で。
黙って支持角を示し、俺の懐に滑り込むように床を支える。
そのときだ。
客席の気配が変わった。
何が起きた?
派手な動きは俺の担当のはず。
だが、その一瞬だけ、匠が“場を持っていった”のだ。
あいつは派手じゃない。むしろ地味だ。
なのに、あの瞬間だけ、妙な存在感があった。
まるで舞台で光がひとつ寄ったような――
なんだあの嫌な感じ。
俺は舞台裏で言ってやった。
「お前、相変わらず真面目だな。客は派手を見に来る」
すると匠は頷くだけ。
反論もない。
だが、その頷きの奥に“自分は正しい”という静かな芯があるのが見えた。
ああいうやつが一番やりにくい。
派手縄を笑うわけでもない。
否定もしない。
ただ、自分の道だけ黙って研いでいる。
野暮というか、面倒というか……
静かに手強い。
その後の匠の六分間だ。
地味なのに、妙に空間が澄む。
あれは反則だろう。
派手さで押す俺の立つ場所を、音もなく侵食してくる。
……いや、違う。
侵食じゃない。
“別の方向から価値を作った”だけだ。
いいじゃないか、それで。
同じ畑で違う作物を育てればいい。
だが、一つだけ気に入らん。
あいつの縄が“戻せる手”を目指しているところだ。
俺は派手縄の男だが、戻せる手こそが最後に必要だというのは……
悔しいが理解している。
あいつがその理念に本気で近づいてきていることが、
正直、一番やりにくい。
——だから言わない。
「悪くなかった」と。
ただ、
「地味だな、芦原。だが……まあ、悪くない」
このくらいは言う。
それ以上を渡すと、あいつはますます伸びる。
それが面白くない。
俺は派手縄の男だ。
華と勢いで場を動かす男だ。
だが、静けさの中で伸びる匠の背中を、
ほんの少しだけ認めている。
……気づかれていないと思うがな。
まぁいい。
今夜は今夜。明日は明日。
派手の夜もあれば、静けさの夜もある。
Noir Knotはそういう場所だ。
俺はコイルを弾き、軽く笑う。
「次の客は派手が好きだといいんだがな」
そう言いながら、どこかで期待もしている。
匠がまた、俺の縄とは違う煌めきを見せてくれることを。
――もちろん、表では絶対に認めないが。




