1 現実社会の2人
都会のオフィスビルの高層フロアー、もう夜の11時が過ぎようとしているのに部分的に明りがまだ灯っていた。広いフロアーの中、デスクで仕事をしているのは2人だけだった。
1人は熱心にパソコンの画面を見ながら、資料の内容を分析して対応を考えていた。佐藤直人、この会社の若手の中で最も仕事ができると高く評価されていた。
彼の良い所であり悪い所であったが、自分の心や体にどんなに負荷がかかっても、課題を解決するまでは絶対に諦めなかった。優しい性格で、人から頼まれたらいやとは言えず、そこにつけ込んだ上司や同僚にいろいろなことをやらされていた。
もう1人のパソコンの画面は、既にシャットダウンされていた。北川風香は、少し離れた場所にある彼の様子を、とても心配そうにちらちら見ていた。彼女は彼以上の能力の持ち主であったが、会社では自分の仕事を横に置き、彼のためにほとんどの時間を費やしていたので、評価はあまり高くなかった。
(今日もいろいろな人に仕事を押しつけられましたね。疲れた不健康な顔をして………私はあなたが心配です。)
そして最後には、がまんできなくなり立ち上がり、彼のデスクのそばに歩いて行った。
「佐藤さん。最終電車、大丈夫ですか。」
「えっ。今何時ですか。」
「11時10分です。佐藤さんは東西線に乗るんですね。」
彼女は東西線の下り電車を鉄道の検索サイトで調べた。
「あっ。最終は11時20分です。走ればまだ間に合いますね、戸締まりは私がしますから、早く行ってください。」
「北川さんこそ。これからどうやって帰るのですか。」
「近くに住んでいますから大丈夫です。これでも都心の高層マンションに住んでいる金持ちの娘ですよ、気にしないでください。」
「毎日北川さんには、最後の戸締まりをしてもらうだけじゃなく、問題解決のために的確なアドバイスをしてくれて、いろいろ僕の仕事を助けてもらっています。このごろ、とんでもないほどお世話になっていますね。埋め合わせは絶対にします。どうでしょうか今度の休日?……」
彼のその言葉を聞いて、彼女は満面の笑みでうなづいた。
………
彼は急いでデスクの上を片付け、彼女に丁寧に会釈をしてからエレベーターの前に向かった。すると夜間節電の影響で動いていなかった。それを見て、彼は階段を走って下りた。
10階フロアーから下りる階段は、永遠に続くと思えるほど長かった。ようやく1階に着いたと思った瞬間のことだった。
(痛い!!!)
彼は、心臓を容赦なくわしづかみにされたような強烈な痛みを感じた。
………
「ミカちゃん、今日も彼を助けることができたわ。それと、初めて誘われたの!」
いつものとおり、彼女はうれしそうにスマホの待受画面を見て、「ミカ」と名付けたかわいらしい天使の画像に話しかけた。
それから、フロアーの戸締まりをして階段に向かった。
(もう、12時近く。また、友達の家に泊めてもらおう。このところ毎晩だから、きっといやがるわね。)
彼女の部屋は、最寄り駅が都心から1時間くらいの貧乏アパートの1室だった。
いつものとおり階段をゆっくり歩いて薄暗い1階にまで下りた時、床に倒れている人影が見えた。
(えっ、何、誰。)
彼女は急いで、その人影に近づいた。
「佐藤さん!!!大丈夫ですか。どうしたんですか。」
彼を抱きかかえ呼びかけたが、何も反応がなかった。
彼女はスマホで救急車を呼んだ。
‥‥
電話がつながった。
「救急管制センターです。」
「救急車での搬送を大至急お願いします。東西線神大駅のそば、セントラルタワーの1階フロアーです。」
「救急搬送が必要な方の状態は。」
「青白い顔をして意識を完全に失っています。かすかに呼吸はしていて、心臓の音は小さく不規則です。」
「心筋梗塞の恐れがありますね。できる限り早く救急車を向かわせますから、その場でお待ちください。」
北川風香の心は、不安で押しつぶされそうだった。佐藤直人の上半身を抱きかかえたまま、彼の顔をじっと見つめていた。
(心や体に大きなストレスが溜まって、もう限界だったのですね。気づいてあげることができなくて、ほんとうにごめんなさい………でも、回りの人に心配させないよう、自分の不調を一生懸命に隠すところが、あなたのほんとうに良い所です。)
なかなか救急車は来なかった。そのうちに、彼女は彼の様子がおかしいことに気がついた。
(えっ。呼吸している!!!)
顔を近づけると、呼吸は止まりそうだった。そして心臓の音を聞いてみると、ほんのわずかな音が数秒の間隔で聞こえるような状態になっていた。
「どうしよう。死んじゃう………」
彼女の目から大粒の涙が流れ出した。
涙はスマホの待受画面の天使の上に落ちた。
………
急に、彼女の耳に救急車の大きなサイレンが聞こえてきた。入口がらストレッチャーを動かして、2人の救急隊員が入ってきた。
「大丈夫ですか。今、患者さんを運びますからね。」
(よかった。これで安心………)
彼女は意識を失った。
………
彼女が意識を取り戻すと、いつの間にか救急車の中に乗っていた。目の前には、ストレッチャーの上で人工呼吸器を付けられている彼が横たわっていた。救急隊員がその様子をモニターしていた。
「佐藤さんは大丈夫でしょか。」
その問い掛けに、救急隊員は彼女の方を見ながら言った。
「なんとか心肺停止になるのを回避しましたが、正直申し上げて、この状態になると非常に厳しいです。」
それを聞いて、彼女の目からまた大粒の涙が流れ始めた。
………
「風香さん。風香さん。」
不思議なことに、初対面だった救急隊員が彼女の名前を呼んだ。
彼女が涙をぬぐって救急隊員の方を見ると~
「ミカちゃん!!!」
救急隊員の顔が、天使に変わっていた。彼女がスマホの待受画面にしている「ミカ」と名付けたかわいらしい天使の顔だった。
「彼に残された命の時間は、後5分しかありません。それは、この世界での時間です。けれど、異世界に転生すれば5分を5年に伸すことができます。」
「異世界に転生ですか?」
「はい。彼だけではなく、彼が今直面している過酷な運命も同時に転生されます。しかし、伸された異世界の時間の中で、運命にあらがい勝つことができれば彼は生き続けることができます。」
「ミカちゃん…失礼しました…天使様の言うとおりにすれば希望はあるのですね。」
「はい。しかし、ただ一つ条件があります。」
「なんですか。」
「今直面している過酷な運命を引き継ぎ、異世界の中で最悪の状態からスタートする彼を、誰かが一緒にW転生して助ける必要があるのです。ただしW転生ですので、その転生者も彼と同じ運命を共有します。風香さんいいのですか。」
「私がW転生者になります。」
「過酷な運命に勝てなければ、風香さんの命もそこで終わりになりますよ。」
「そうなったらそうなったで、私には少しも悔いはありません。」
彼女はストレッチャーの上の彼の顔を見ながら、ゆっくり、想いを込めて言った。
「W転生してあなたを助けます~幸せをこの手」
そう言った瞬間、彼女と彼の姿は救急車の中から消えていた。
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