第九話
「カミロ様が覚えていないのも当たり前です。だって、子供の頃のことですから」
「子供の頃?」
「以前母に連れられて感謝祭に参加したことあるって、お話ししたことありましたよね?」
記憶を手繰るよう遠くに視線を向けながら、ベリーナは静かに口を開いた。
「母はあの通り賑やかな人で色々なところに出かけるのが好きだったので、あの日も私を連れてこちらの感謝祭に参加していたんです」
「確かに昔は他領からもたくさんの人が遊びに来てたな」
「ええ、私はこんなに大きなお祭りに来たのは初めてで、見るもの全てが新鮮でした」
思い出すように目を閉じたベリーナ。
「街中に飾られた色とりどりの旗と踊り出したくなるような音楽。遠くからでもよく聞こえる活気ある人々の声に、何よりも広場に並んだたくさんのお料理は私の目を奪いました」
「その頃から食べることが好きだったのか」
揶揄うようにカミロがそう聞くと、ベリーナは少し不満そうに口を尖らせた。
「好きではありましたけど、今ほどたくさんは食べて……いえ、今も別に変わりませんけど」
「まぁ、そういうことにしておこう。すまない、続けてくれ」
「はい……ここに着いてすぐ、母はご友人を見つけて立ち話を始めてしまって。そうなったらもうしばらくはそこを動きません」
「……想像はつくな」
「始めはそばにいましたが、まだ小さかった私は退屈してしまって。母の目を盗んでこっそりそばを離れたんです」
「一人で?」
「はい、最初は近くを見てすぐに戻ってくるつもりだったんです。でも、感謝祭があまりに魅力的で」
嬉しそうに語るベリーナが、パッと目を見開く。
「色々な所から漂ってくる食欲を誘う香りに誘われるように屋台を覗いては隣の屋台へ、そしてまた次の屋台に……と、夢中になって広場を回りました。そんな中でも一際目を引いたのが、あの『ミエル』のお菓子です」
「確か、思い出があると言っていたな」
「ええ。周りにも漂う芳しい甘い香りに誘われて、お店を覗くと、そこには綺麗に形の整えられたお菓子がずらりと並んでいました」
『ミエル』の菓子は、厳選された材料を用い一流の職人が丁寧に作り上げることで出来上がる至高の菓子だ。
そのため、素朴ではあるものの艶やかなその姿に、目を奪われる者も少なくない。
「もうそのお菓子があまりにも美味しそうで、どうしても食べたくて行列に並んだんです。少しずつ列が進んでいって、ようやく私の番になって……」
目の前に並ぶ色々な種類の焼き菓子の中で、少女ベリーナが目に留めたのは、赤いジャムが乗った焼き菓子。
「そのジャムがまるで宝石みたいにキラキラしていて、気づいたら言っていたんです『これください』って。でも、なかったんです」
「売り切れていたのか?」
「いえ、一人だったからお金を持ってなかったです」
「なるほど、それでどうしたんだ?」
「どうしていいかも分からず戸惑っていたら、目の前にそっと硬貨が置かれたんです」
『支払いはこれでお願いします』
そう店主に声をかけたのは、ベリーナよりも少し年上の男の子。
「髪の毛は紳士のようにきちんと整えられていたけど、お顔にはまだ幼さが残る男の子でした。背丈も私とあまり変わらなかったけれど、落ち着いたその話し方がとても印象的で、その時の私にはとても頼もしく思えたんです」
カミロを見つめ優しく微笑むベリーナに、彼の古い記憶が少しずつ浮かび上がってきた。
『ミエル』の菓子を前に、落ち着かない様子で手を握り締め辺りを見回していた女の子。
「でも、すごく複雑でした。もちろんその男の子にはお金を返すって伝えたんです。でも、それはプレゼントだからと、断られてしまって」
確かにカミロ少年は断っていた。
目の前の可愛い女の子にカッコつけたかったから、なんて今は口が裂けても言えないが。
「だから、言ったんです。『半分にして一緒に食べましょう』って。そうしたら何て言われたと思います?」
「あっ、いや……それは」
ベリーナはわざとらしく声を抑え、眉を吊り上げた。
「美味しいものを食べたら幸せになれるんだよ。だから二人とも幸せだね……って。こんなこと、今のカミロ様なら想像できませんものね」
「あの女の子は君だったのか……」
「思い出してくださったんですね」
「あぁ……さすがにはっきりとはいかないが、思い出したよ」
照れくさそうに頭を掻きわざと視線を泳がせたカミロに、ベリーナも自然と頬を緩めた。
「ベンチに座って一緒にお菓子を食べたのは覚えていますか? もうすごく美味しくて夢中になって食べていたら、カミロ様が笑い出して」
『慌てなくてもいい、誰も取らないから』
そう言って嬉しそうに笑うカミロ少年がベリーナの頭に浮かぶ。
「だからこそ、私はカミロ様に思い出してもらおうと思ったんです」
「思い出すって、何を?」
「食べることの楽しさです。だって、食事がどうでもいいなんて、絶対にカミロ様の本心ではありませんもの!」
そう言い切ったベリーナをカミロは黙ったまま、じっと見つめていた。
いつの間にか日は傾き、二人が座るベンチには街路樹の影が落ちる。
「正直言うと、舞踏会でお会いした時はカミロ様だとすぐに気付かなかったんです」
「貴女が私を幽霊と勘違いした、あの日のことか?」
「もうそれは忘れてくださいと、何度もお願いしていますのに……」
不満そうに唇を尖らせたベリーナに気付かないふりをしながら、カミロはそっと彼女から視線を背けた。
「なら、どこで気付いたんだ?」
「お話ししているうちに話し方があの男の子に似ていることに気付いて、お顔もよく見れば面影がありますもの」
「そうか……?」
「ええ、ちょっと偉そうなところなんてお変わりなく……でも、あの頃は眉間にシワはなかったですけど」
少し揶揄うように唇を上げ、ベリーナはカミロを見つめた。
打算的に選んだ相手、彼とってベリーナはそういう存在だった。
むしろ、自分の願いを最優先できる相手に巡り会えたからこそ、カミロは彼女の存在を尊重している今に満足していた。
結婚生活としては配慮のない提案にも快く頷いたベリーナに甘えながら、夫としての役割を放棄し彼女の存在に癒されていた自分。
そんな中でも、彼女は子供の頃の小さな思い出を胸に、夫となった自分のことを支え続けてくれていたのだ。
「ベリーナ……君は」
冷静になればなるほど、カミロの体は震えた。
湧き上がる羞恥、込み上げる落胆。
自分勝手な行動の裏で、妻となった彼女が静かに灯していた変化への光。
その存在に気付いた今、彼は一体何をすべきか。
その答えは彼だけが出せるものだった。
「すまない」
「謝らないでください。私が勝手にやったことですよ? むしろ、何で黙ってたんだって怒ってくれてもいいくらいで」
「どうして怒るなんてことができる?」
力なく笑いを漏らしたカミロの背中に、ベリーナはそっと手を添える。
「だって、カミロ様が今こうしていらっしゃるのは、全てこの公爵領のためではないですか。それを私は自分勝手に変えようとしたのですから」
「自分勝手? それを言うなら私の方だろう。君にこんな結婚を提案するなんて」
「あら、それなら私だってそうですわ。むしろ、この結婚を利用したようなものなのですから」
「でも、それは私を思ってのことだろう?」
「それでも利用したことは事実です。カミロ様だって公爵家のことを……って、こんな言い合いをしてたら、またジョルジュに怒られてしまいますわね」
顔を見合わせ、気まずそうに笑い合う二人。
「お互い目的は違っても、カミロ様も私も幸せになるために行動したことは確かです。それは、結婚する時に二人で決めた約束を破るようなものではございませんよね?」
「いや、そうだが……」
「なら、今のままでいいじゃありませんか」
ゆっくりと顔を上げ、ベリーナはまっすぐ前を見据える。
「他人から見たら不恰好な関係かもしれません。でも二人が幸せだって思えることが何よりも大切ですもの。だって私達はお互いが幸せになるために結婚したのですから」
そう言って嬉しそうに笑うベリーナの手に、カミロは自分の手を重ねる。
「……ここに貴女の幸せもちゃんとあるのか?」
重ねられた手を握り、ベリーナは力強く言い切った。
「だから、ずっと言ってるじゃありませんか。『美味しいものを食べたら幸せになれる』って。誰に向かってそんなこと聞いていらっしゃるの?」
いつも通り頼もしい妻の姿に、カミロの顔に笑顔が戻る。
「確かにベリーナにそんなことを聞くなど愚問だな」
「そうですよ、カミロ様。……あら、まだ煮込みが残ってるわ。カミロ様も一口食べます?」
「ベリーナが食べさせてくれるのか」
「まぁ、子供じゃないんですから」
いつの間にか寄り添っていた二人の影が、静まり返った道路に長く伸びていた。




