第四話
余計な詮索を避けるため、結婚の詳細は執事長のジョセフとベリーナの侍女であるカレン以外には秘密にされた。
だが、政略的な結婚も多い中気にする者は少なく、さらにベリーナの人懐っこい性格のおかげで使用人達からの評判は上々、彼女はあっという間に彼らと打ち解けていった。
「ナタリー、おはよう。いい天気ね」
「奥様、おはようございます。見てください、イチゴの花が咲きましたよ」
「まぁ、可愛らしい。実がなるのが楽しみね」
「奥様、キャベツも順調でございますよ」
「ダニエル、ありがとう。私も彼らの横でのんびりしようかしら」
「いいですね。では、お昼は庭で育てた野菜たっぷりのサンドイッチなどにしてはいかがですか?」
「最高のアイディアだわ」
「では、私がガレッティ様にお願いして参ります」
「ダニエル、ありがとう」
つい最近公爵家に嫁いだとは思えないほど、この家に馴染んでいるベリーナ。
むしろ、彼女の空気に公爵家が包まれていると言ってもいいくらいの存在感は、書斎で仕事に没頭するカミロの耳にも届いていた。
「朝から本当に賑やかな人だ」
大きくため息をつきながらも、彼の顔には笑みが浮かぶ。
今までなら物音がするだけでも神経に触ったはずなのに、彼女が絡む音は不思議と不快ではなかった。
なぜだろうか。
カミロは書類を書く手を止め、ふと窓の外に目をやる。
そこには当たり前のように笑顔を浮かべ、使用人達と過ごすベリーナの姿があった。
「たくさん食べるから、彼女はあんなにも元気なのか?」
あまりにも単純な自分の思考回路に、思わず笑いを漏らしたカミロ。
ベリーナの人を笑顔にする力は、どうやら遠隔でも効果は抜群らしい。
「……失礼いたします。朝のドリンク、お飲みになりますか?」
「ありがとう、いただくよ」
軽やかなノックの後、部屋に入ってきた執事のジョルジュは、トレーに乗ったグラスをカミロの前に差し出した。
中に入っているのは、一見して何とは分からない謎の液体。
色は黒を混ぜたような深い緑色で、手に取らずとも泥のようにねっとりしているのが見てとれる。
その上、いつもは決して表情を崩すことのないジョルジュがピクリとわずかに眉を動かしたことから、それが異様な臭いを放っていることも明らかだ。
にも関わらず、カミロは何の躊躇もなくグラスを手にとると、無表情のまま謎の液体を一気に口の中へと流し込んだ。
ゴクリと大きく喉を鳴らしながら一瞬でその液体を飲み込むと、彼は何事もなかったようにまた書類に向かった。
「……下げてくれ」
一礼しグラスを回収したジョルジュは、そのまま静かに部屋を出て行った。
「あぁ、ランチも美味しかったわ。新鮮なお野菜ってこんなにも心躍るものなのね、カレン」
「特にこちらの公爵領は気候にも恵まれておりますし、良いものが取れるのかもしれませんね」
「だって、茹でただけよ? それなのにこんなに充実した気持ちになるなんて……さぁ、夜はどうやって食べようかしら」
「ベリーナ様、ランチが終わったばかりでございますが」
「だって、待ち遠しいんだもの……それにしてもカミロ様は本当にお忙しいのね。今日なんてまだ一歩も部屋から出ていらっしゃらないわ」
ベリーナは少し心配そうに書斎を見上げた。
「そのようでございますね。昨日もお帰りがだいぶ遅いようでしたし」
「いくらお仕事がお好きでもお疲れになるわよね……ちゃんとお食事できていらっしゃるかしら」
「どうやら旦那様はお食事自体されないようですよ」
「ええ!!」
令嬢らしからぬはしたない大声が出た口を、ベリーナは慌てて両手で塞いだ。
「ごめんなさい。でも、ありえないじゃない。お食事をされないってどういうこと? 旦那様ってもしかして吸血鬼……」
身震いさせるベリーナに、カレンはわざとらしく大きくため息を吐く。
「そんなわけございません。旦那様はテーブルに座ってきちんとお食事を摂らないというだけで、食べ物は口にされております」
「どういうこと?」
「私も詳しくは存じ上げませんが、何でもガレッティ様が特別に旦那様だけのために特製ドリンクをお作りになられているんだとか」
「特別……特製……」
「はい、お忙しい中でもきちんと栄養を摂るための工夫でございましょう。徹底されておりますね」
「ねぇ、カレン。ちょっとだけお願いがあるんだけどいいかしら?」
ベリーナがこうして上目遣いをする時は必ず厄介なことをなると、カレンの勘が訴える。
「ベリーナ様、謹んでお断りいたします」
「なんで、まだ何も言っていないじゃない」
「そのドリンクは旦那様のために作られるものでございます。決してベリーナ様が興味本位で召し上がるものではございません」
「そっ、そんなことないわよ! だってこの家の食事に関しては私に一任されているのよ。なら、お味見くらいは許されるはずだわ」
ふんっと鼻を鳴らし得意げにベリーナが顔を上げると、カレンはまた大きなため息を漏らした。
こうなってしまえば、ベリーナは絶対に自分から引くことはない。
「カレン、お願い。ほんの少しでいいの。ガレッティ様に私の分もお願いしてきてくれないかしら」
「……少しでいいのですね?」
「もちろんよ。コップ一杯、それで十分よ」
子供の頃から行儀も良く手のかからない大人しい彼女が、何がきっかけだったのかある時から急に食べ物に執着するようになった。
不思議に思ったカレンは、その理由を直接ベリーナに聞いたことがある。
その時は子供の可愛らしい一言くらいに微笑ましく思っていたが、美しく可憐な令嬢へと成長した今も、それは変わることはなかった。
「美味しいものを食べたら幸せになれるの。だから、お願い」
子供の頃と変わらない無邪気な笑顔を向けられ、カレンは諦めたように、そして愛おしそうに唇を緩めた。
「……今回だけですよ」
「奥様、本当に……本当によろしいのですね?」
「ジョルジュ、そんなに何度も言わなくても大丈夫よ。今日の夕食はこれに決めたから、また何かを用意してなんて言わないわ」
「いえ、そういう心配では……」
珍しく焦った素振りのジョルジュは、満面の笑みで謎の液体にご執心なベリーナを見つめていた。
「ガレッティ様、こちらは何ていう飲み物ですか?」
「えっと……そちらは旦那様のご要望でお作りしてるものなので、特に名前などはございません」
「まぁ、ということは世界に一つだけの飲み物ってことかしら」
「はい、そう……ではありますね」
なんとも歯切れの悪いガレッティに首を傾げながら、ベリーナは改めて特製ドリンクと向き合う。
「色は……お世辞にも綺麗とは言えないけど、深みのあるいいお色よね」
謎の液体から醸し出される禍々しい雰囲気に、ベリーナもどこか不安げだ。
「なんていうか飲み物の割にはドロドロとして……ポッ、ポタージュよ。そう、ポタージュならとろみもあるのも不思議ではないわ」
まるで自分に言い聞かせるように、彼女は異様な見た目をなんとかいいように変換していく。
「奥様、やはりおやめになられた方が……」
「大丈夫よ、ジョルジュ。せっかく用意してくれたんだもの。お食事を残すだなんて、私の主義に反するわ」
「ですが……」
「大丈夫。これでカミロ様のことが少しでも理解できるようになるなら、いいことでしょ? では、いただきます!」
ベリーナは一度息を吐きグラスを手に取ると、カミロ特製ドリンクを彼と同じように一気に口に流し込んだ。
「んっ……ん! んっっっ!?」
「奥様!」
ベリーナの顔色が瞬く間に真っ赤に変化したかと思うと、すぐに血の気が引いたような青に変わり、彼女は淑女であることも忘れ、手足を激しくバタつかせた。
「奥様、申し訳ございません! こんな物をお出しして」
慌てるガレッティに向かい、ベリーナは力無く首を振る。
「ベリーナ様、無理している場合ではございませんよ! すぐに吐き出してください」
カレンの必死の訴えにも彼女はゆるゆると首を振ると、口の中にあったドリンクをなんとか飲み込み大きく息を吐いた。
「大丈夫ですか、奥様!」
すぐにジョルジュが駆け寄ると、俯いていたベリーナは勢いよくパッと顔を上げた。
「まずいわ! どうしてこんなにまずいの!」
涙目で叫ぶ彼女の悲痛な姿に、皆一様に顔色を曇らせた。
だが、彼女はすぐに何かを覚悟したように大きく息を吸い込むと、まっすぐガレッティを見つめた。
「ガレッティ様、このまずさには当然理由がおありなのよね?」
彼女の揺るぎない眼差しに、ガレッティは思わず目を伏せた。
「はい……こちらは様々な栄養素を一瞬で飲み込めるということを最優先にしております。味覚は完全無視、最小限の量で最大限の効果を得られように、というご指示でしたので」
「つまり、カミロ様がこれを望んだのね」
ガレッティは、恐る恐る頷いた。
「……その通りでございます。そちらのドリンクは旦那様のご指示に忠実に、私が作った物でございます」
「貴方の意向は全く含まれていない、そういうことかしら」
「はい、飲みやすくなるよう色々ご提案はしたのですが」
「もしかしてカミロ様が断ったの?」
「そうです」
「どうして?」
首を傾げるベリーナを見つめ、ガレッティは口惜しそうに唇を噛んだ。
「味を整えようとご提案しても、味などいらないと」
「味がいらない?」
その瞬間、ベリーナの眉がピクリと動いた。
「はい。生きていくことに必要な栄養さえあればいいと」
「栄養さえあればいい、ですって……?」
「ベリーナ様、一旦落ち着いてください!」
ああ、こうなってしまえば誰もベリーナを止めることができない。
怒りを滲ませ目の前にはいないはずのカミロを見据える彼女に、カレンはそう一言かけるだけで精一杯だった。
「ガレッティ様、お味はともかく素材は本当にどれも素晴らしい物だったわ。貴方の最大限の気遣いに旦那様への深い愛を感じたわ」
「奥様……」
「だからこそ、その愛をしっかり受け止めないカミロ様には、きちんと分かっていただく必要があると思うの」
その意味が分からず固まるガレッティに微笑みかけたベリーナは、静かに顔を上げる。
「そのドリンク、私がガレッティ様と共に改良いたします」
腰に手を当て大胆な宣言をしたベリーナに対し、執事長ジョルジュは冷静な目を向ける。
「ですが奥様、旦那様はご自分でお決めになったことは絶対に曲げないお方です。ましてや、口を出されるなどもってのほか、かと」
「あら、ジョルジュは忘れてしまったの? 私とカミロ様の約束を」
「お約束でございますか?」
「ええ。公爵家の食事は全て、私の好きにしていいのではなかったかしら?」
悪戯っぽく唇の端を上げベリーナが微笑むと、ジョルジュは納得したように微笑み軽く一礼した。
「失礼いたしました。私としたことがそのような大切なお約束を失念するとは」
顔を上げたジョルジュは、ベリーナには負けじと何かを企んだように微笑みを称える。
「このドリンクも我が公爵家の大切なお食事の一つでございます。ここは奥様のご要望通りにさせていただかなければ、執事長の面目が立ちません」
「ありがとう、ジョルジュ……いい? こうなったらカミロ様には徹底的に私達からの愛情をたっぷりと感じていただくつもりです」
そこにいた全員が静かに頷くと、ベリーナは満面の笑みで応えた。
「もちろん大事なお仕事の邪魔をするようなことはしないわ。カミロ様のお仕事がもっと捗るような美味しい物をみんなで作るの……さぁ、カミロ様を驚かせて差し上げましょう!」




