第十三話(完)
「そんな貴方だからもう一度『食べることの幸せ』を思い出してほしかった。最初はそれだけだったんです。だって、あんなまずいドリンクで満足してるなんて考えられなかったんですもの」
「別に満足していたわけでは……」
「妥協していたなら尚更ですわ。だから、今こうしてカミロ様と笑顔で食事をできていることが本当に嬉しくて」
「あぁ、そうだな……」
「でも、『このまま』というカミロ様の言葉が胸に刺さったんです。美味しいものを食べられるだけでいいのか、カミロ様のそばにいるだけで満足なのかって……」
静かに目を閉じたベリーナは小さく深呼吸してから、覚悟を決めたようにまっすぐカミロを見つめた。
「私はただ美味しいものを食べるだけでは、もう満足できないんです。カミロ様と一緒に美味しいものを分け合って、一緒に『美味しいね』って笑い合いたい。お腹いっぱい食べて『幸せだね』って、一緒に笑顔になりたい。だから……」
ベリーナの目に浮かぶ涙。
カミロは衝動的に彼女に駆け寄り、彼女を強く抱きしめた。
「すまない、ベリーナ。全部……全部私が悪いんだ」
ベリーナも堪えきれずカミロの胸に縋り顔を埋めた。
「私は本当に傲慢な人間だな。貴女を泣かせているのは私だというのに、その涙を拭うのが自分以外の誰かでないことに安堵するなんて。ベリーナ、そのままでいいから聞いてくれ」
彼女が胸の中で小さく頷いたのを確認すると、カミロは呟くように口を開いた。
「貴女は私が今まで会ってきた令嬢方とまるで違っていた。食べることに夢中、というものそうだが、何よりも人を肩書きでは判断しなかった。明らかに好条件の男を目の前にしても、貴女が大切にしたのは、自分の中にある条件だ」
胸の中で静かに耳を傾けるベリーナを、カミロはそっと抱き寄せる。
「そんな貴女なら私のような人間でも、きっと最大限尊重してくれるに違いない。その時はまだそんな打算的な考えでしかなかった」
あの時の彼が一番大切にしたいと考えていたのは公爵家。ならば、その考えを簡単には否定できない。
ベリーナの考えも同じだったのか、彼女は無言のまま小さく首を振った。
「それなのに、周りの人間が次々と貴女の魅力に惹かれ関係を築いていく中で、自分だけがそこから外れていくような感覚に私は焦りを覚えた。自分から『契約結婚』なんて一歩引いた関係を提案していながら……私はもうその時からベリーナの愛情に甘えていたのかもしれない」
カミロは節目がちに俯くベリーナの頬を手を当てる。
二人の視線が重なり恥ずかしさに背けたベリーナの顔を、カミロはもう一度しっかり自分の方へ向けた。
「ベリーナ、私は君が好きだ」
その瞬間、ベリーナの目から一筋の涙が流れた。
「私に『食べることの幸せ』を思い出させてくれた貴女に、今度は私が違う幸せを教える番だ」
「違う幸せ……?」
「あぁ、貴女のことを愛する男と一緒になれば素晴らしい人生が歩める。それを私が身をもって証明してみせよう、この人生を賭けて」
「カミロ様」
カミロの腕に抱かれ、ベリーナはまるで子供のように泣きじゃくった。
その姿にカミロは苦笑いしながらも、幸せそうな笑顔を浮かべる。
「気付くのが遅すぎるって笑ってくれてもいい。でも、あの時『契約結婚』なんて言葉で誤魔化しながらも、こうして貴女を逃さなかった私を褒めてくれないか?」
「褒める……申し訳ございませんが、お断りいたします」
「ベッ、ベリーナ!」
予想外の返事にカミロは慌てて、ベリーナの顔を覗き込むと、さっきまで泣いていた彼女が満面の笑みを見せた。
「カミロ様、きちんとしたプロポーズもまだですのに、何を許せと? 褒めるのはその後ですわ」
「ベリーナ、君には一生敵わない気がする」
「なら、私が一生かけて女心を教えて差し上げますので、それでもよろしいですか?」
「もちろんだ」
ベリーナは静かに立ち上がりドレスの裾を直すと、凛とした表情でカミロを見据える。
「ベリーナ・モリス伯爵令嬢」
カミロはベリーナの前にゆっくりと跪き、その手を取り唇を寄せる。
「愛している……結婚してくれないか」
緊張で揺れるカミロの瞳を見つめながら、ベリーナは小さく頷いた。
「謹んでお受けいたします。二人でお腹いっぱいになるくらいの幸せになりましょう!」
「ベリーナ、どこに行ったんだ? ベリーナ!」
「旦那様、先ほど奥様方ならもうお出かけされましたよ。まだいらしたんですか?」
「出かけた? 一緒に行くと言っておいたのに、どうして……」
「さぁ、旦那様には置いていかれる心当たりがないのですか?」
「それは……とにかく私もすぐに出かける。ジョルジュ、皆には早く仕事を切り上げて、いつも通り感謝祭を楽しむよう伝えてくれ」
「承知いたしました」
颯爽と身を翻し、この家の主人であるカミロ・ファラン公爵は早足で玄関に向かう。
妻に置いていかれたというのにどこか嬉しそうなその背中は、いつものように彼女への愛で溢れていた。
執事長であるジョルジュがゆっくりと頭を上げふと窓の外を眺めれば、すでに馬車に乗り込もうとする彼の姿が目に入り、思わず笑いが込み上げる。
「今日もお元気そうで何よりです」
「わぁ……今年の感謝祭も盛り上がっているわね。あら、あちらは新しいお店じゃない? 絶対食べないといけないわね」
「ベリーナ様! 今日もたくさん食べていってくださいね」
「ありがとう。あとで寄らせてもらうわね、もう今から楽しみでたまらないわ」
「ベリーナ様、うちもぜひ!」
「もちろんよ。その煮込みを食べないと感謝祭に来た意味がないもの」
次々とかかる声に笑顔で応えているのは、ベリーナ・ファラン公爵夫人。
普段よりも少し控えめな装いながら笑顔で人々を幸せにするようなその明るさは、彼女がこの領にやってきた時から少しも変わらない。
「あの……お母様」
そんな彼女のドレスの裾を小さな手を握りしめている男の子。
母親譲りの可愛らしい丸く茶色い瞳で好奇心いっぱいに周りをキョロキョロと見回すたび、父親譲りの黒く艶のあるくせ毛が元気よく跳ねた。
「ロベルト、これが感謝祭よ。賑やかでしょう?」
「はい……でも、お父様は一緒じゃなくていいの?」
「お父様は、いいの。仕事だからって私とのディナーの約束を忘れるような人には、少し反省してもらわないとね。それより見て、美味しそうなものがたくさん」
「はい! お店がいっぱいです」
「そうね、どれも素敵なお店ばかりよ。ロベルトは何か食べてみたいものはあった?」
ゆっくりと手を上げ、少し恥ずかしそうにロベルトは指を向ける。
「あれとあれとあれ……あとあれも食べたいです」
「偶然ね。私もそれ全部食べようと思っていたの。一緒に食べましょう」
「お母様……あともう一つ、いいですか?」
「もちろん!」
あまりの可愛らしいお願いに、ベリーナも蕩けた笑顔で応える。
「お母様がお話してくれた『魔法のお菓子』が食べたいです」
「まぁ、覚えていてくれたの? 嬉しいわ。『ミエル』っていうお店なの。とても人気だから売り切れるといけないわ。すぐに行きましょう」
「はい!」
弾けるように笑った息子の手を取り、ベリーナは『ミエル』の列に並んだ。
少しずつ列が進むたび胸を躍らせるロベルトの姿が、小さい頃の自分と重なり彼女も自然と頬も緩めた。
しばらくしてようやく二人の番がやってくると、目の前に並ぶたくさんの菓子にロベルトの目が輝いた。
「わぁ……これが、魔法のお菓子」
こっそりそう呟いた息子に笑顔向けてから、ベリーナも目の前のお菓子に目を向ける。
「ベリーナ様、いつもありがとうございます」
「こちらこそいつも素敵なお菓子をありがとう。今日もどれも美味しそうで迷うけど……ジャム入りの焼き菓子をお願いしていいかしら?」
「はい、ありがとうございます」
お目当ての菓子を手に興奮気味のロベルトを連れ、ベリーナはベンチに座った。
「ロベルト、見て。これが『魔法のお菓子』よ」
「わぁ……」
焼き菓子の上に乗った赤く艶のあるジャムがまるで宝石のように見えたのか、ロベルトはじっと菓子を見つめていた。
「このお菓子の魔法はね、大好きな人と一緒にする魔法なのよ」
「大好きな人?」
「そうよ。私にとっては……そうね、ロベルトかしら」
「ぼっ、僕もお母様が大好きだから、魔法使える?」
「……ロベルト、申し訳ないが、ベリーナとその魔法を使うのは私だけだ」
「おっ、お父様!」
突然の父の登場に慌てるロベルトとは正反対に、不機嫌を上手に隠しながら穏やかに微笑んだベリーナ。
「あら? カミロ、遅かったわね。お仕事は大丈夫なの?」
「今日は仕事なんか入れていない……そろそろ機嫌を直してくれないか」
「どうしようかしら。だって何回言ってもカミロったらお仕事ばかりなんですもの」
「それは……」
「お父様……これ」
困り果てたカミロの前にロベルトが小さな手で差し出したのは、『ミエル』のお菓子。
「これで魔法使ってください!」
「ロベルト……ありがとう」
手渡されたお菓子を半分に分け、カミロはベリーナに微笑む。
「ベリーナ、ほらこれで笑顔になろう」
「もう……」
少し照れながらもベリーナは半分になったお菓子を受け取る。
「ロベルト、今お父様が魔法を使ったの、わかった?」
「えっ、いつの間に!」
カミロとベリーナを交互に見つめ、目を丸くするロベルトの姿に二人は嬉しそうに見つめ合う。
「ロベルトにも特別にこの魔法を教えてあげるわ」
ベリーナはカミロからもらったお菓子をさらに半分に分けて、ロベルトの手の平に乗せた。
「いい? 好きな人と一緒に美味しいものを食べたら、不思議と幸せになれるの。だからこれで三人はずっと幸せよ」
終




