第十話
感謝祭から数日、カミロとベリーナを取り巻く空気が変わったことに、ジョルジュを始め家の使用人達は皆気付いていた。
正確に言えば、二人ではなくカミロの方。
ベリーナに対する態度にあからさまな甘さが含まれるようになり、それは知らないふりをするのも難しいほどだった。
例えば、仕事の時は一切よそ見などしなかった彼が、窓の外からベリーナの声が聞こえるだけで落ち着きをなくしたり、何度もそちらに目をやったり。
かと思えば、週に何度もお土産を買ってきては喜ぶ妻の姿に満足げな笑みを浮かべ、週一度の幸せ会議では向かいに座るベリーナを穴が開くのでは? と心配になるほど、頬を緩め彼女を見つめることすらあったのだ。
「カミロ様? 何かお話でもおありですか?」
「いっ、いや、別に……ただ」
「ただ?」
「今日も美味しそうに食べるなと思っただけだ」
「あら、いつも言っているじゃありませんか。『美味しそう』ではなくて、本当に美味しいんです!」
「そうだな……」
いつも通りの答えを返し少し機嫌を損ねたベリーナにすら、カミロは慈しむような微笑みで応えた。
「旦那様、ちょっとよろしいでしょうか?」
そんな主人の様子を見兼ねたジョルジュが声をかけたのは、その日の夜だった。
「どうした? 何か問題でもあったか」
「ええ、問題です。大問題でございます」
「何があった?」
先ほどまでの緩んだ笑顔を消し、カミロは厳しい表情で眉を寄せた。
「旦那様、はっきり言わせていただきます……奥様のこと、好きなんですね?」
「はっ?」
言われたことが理解できなかったのか、カミロはそのままじっとジョルジュを見つめた。
「おや? 自覚すらないとはこれは相当重症でございますね。ですが、恋に付ける薬はないと申しますので、さてどうしたものか……」
「恋? 誰がだ?」
「旦那様でございます」
「私が? 誰に?」
「奥様以外に誰がいらっしゃるというのです」
ジョルジュは少し語気を強め、カミロを見据えた。それはまるで父が子を諭すようなそんな説得力があり、背の高いカミロがなぜかジョルジュよりも小さく見えるほどだった。
「私がベリーナを? いや、それは」
「おや? まだ気付いておられなかったのですか」
恋。
明確なその言葉を前に、カミロは最近の自分の行動を振り返った。
朝起きて、ベッドに妻であるはずの彼女がいないことに矛盾を感じ、漏れ出すため息。
「あら、カミロ様おはようございます。よくお休みになられましたか?」
「あぁ、ありがとう」
お決まりの挨拶だとしても、自分の体調を気遣うその言葉だけで自然と緩む頬。
そして、書斎の外から彼女と男が楽しそうに話していれば、それがたとえ使用人であろうと心の奥でじわりと滲み出す黒い感情。
「……これが恋?」
「あまりそういったことにご興味がない様子でしたが、まさか初恋もまだだったとは」
ジョルジュのその言葉で、名前のなかった感情を一気に自覚したカミロは、恥ずかしさに顔を手で覆った。
「仕事に対してはあれだけ敏感でいらっしゃるのに、ご自分のこととなると本当に鈍感でいらっしゃる」
「……うるさい」
「これからどうなさるおつもりですか?」
「どう、とはどういうことだ?」
「それはもちろん奥様との今後でございます」
「今後も何も結婚するのだから、何も変わりないだろう」
何の躊躇いもなくそう言い切ったカミロを見つめ、ジョルジュは盛大にため息を吐いた。
「ご自分で提案しておいて、やっぱりお忘れだったんですね。奥様がこちらに来られてもうすぐ一年ですよ」
「一年、そうだな」
「この契約結婚をお決めになった時に、一年後にこの結婚について改めて話し合うと決めたことをお忘れですか?」
「あっ……」
初めて聞いたかのような驚きを見せるカミロに、ジョルジュはため息も付かず静かに目を伏せた。
「奥様はきっと前向きに考えてくださるでしょう。おそらく後回しにしていた後継ぎのことも旦那様からお申し出があれば、拒むこともなさらないはずです」
「後継ぎ……」
「どうやら、旦那様は後継ぎのご誕生よりも奥様との閨事の方にご興味がありそうですが」
「そっ、そんなことはない!」
頬を赤らめ不自然に視線泳がせながらそう叫んでは、カミロの言葉に何の説得力もない。
「まぁ、それはさておき……本当にこのままの関係でいいのですか。今はっきりと奥様にお気持ちを伝えなければ、この先ずっとこのままです。それはお二人にとって本当に幸せな結婚と言えるのですか」
自らが仕える主人への言葉としては不敬かもしれない。だが、カミロを子供の頃から知るジョルジュにも彼に対する思いがある。
特に先代が亡くなってからは私欲を捨て、全てを公爵領に注いできたカミロの幸せを願うのは、ある種親心のようなものだろう。
「……ベリーナはどう思っているだろうか」
「それは奥様にしかわかりません。だからこそ旦那様の素直な想いを知ってもらうべきではありませんか。話はそこからです」
「……わかった。今度の『幸せ会議』で彼女に伝えよう」
「では、ガレッティには奥様のご機嫌が良くなるようなディナーを用意するよう伝えておきます」
「あぁ……彼女が笑顔になる、最高の料理を頼んでおいてくれ」
「承知いたしました」
『幸せ会議』当日、先に食卓についたのはカミロだった。
だがいつもの堂々とした姿はそこにはなく、落ち着きなく体を揺らしながら座っていた。
「カミロ様、お早いですね。お待たせしてしまい申し訳ございません」
「いや、私が早く来ただけだ。気にしないでくれ」
その場が明るくなるような華やかな黄色のドレスを纏ったベリーナは、そんなカミロの様子に少し困惑しながらも、綺麗な所作で席に座った。
今まで待たされることはあっても、カミロが先に来ることなどほとんどなかったのだから彼女が困惑するのも当然だ。
しかし、食卓にガレッティ渾身の料理が運ばれると、ベリーナの戸惑いは跡形もなく消え去ってしまった。
「わぁ、なんて鮮やかなお色のスープかしら。今日の私のドレスそっくりだわ」
満面の笑みを浮かべながら、彼女は目の前のスープをじっと見つめた。
「今日のスープは、ニンジンポタージュでございます。柔らかく煮て丁寧に裏漉ししておりますので、口当たりもまろやかです。ぜひお楽しみください」
「ありがとう、いただくわ」
微笑んだベリーナは、優雅にスプーンを手にすると、綺麗な仕草でスープを口に含んだ。
「……美味しい。さすが、ガレッティ様だわ」
「恐れ入ります」
「どうぞ、カミロ様も早くお試しになって」
「あぁ」
ベリーナに促され一口飲んだカミロが、一瞬にして表情を変えた。
「美味しいな。いつものポタージュも最高だが、こちらもなかなか」
「ありがとうございます。では、私はキッチンに戻りますのでゆっくりお楽しみください」
ガレッティは満足そうに微笑んでから、深く頭を下げ部屋を後にした。
「次は何が出てくるんでしょう、楽しみですね」
「そうだな、スープがこれだけ美味しければ期待ができる」
「楽しみだわ……今日はカミロ様もご一緒できるのですか?」
「私が食べられるようになったものから作るよう頼んである。もしかしたら貴女には物足りないかもしれないが」
「そんなことありませんわ。一人で食べるより二人で食べる方が楽しいに決まってますもの」
弾けるように笑ったベリーナの様子に、ジョルジュが目で合図を送る。
『今です、旦那様!』
その視線を受けわざとらしく咳払いをしたカミロは、大きく息を吐いてから意を決して口を開いた。
「ベッ、ベリーナ! 今日は少し相談があるんだが」
「ご相談事ですか、カミロ様からなんて珍しい。でも、こういう時こそ力になるのが妻ですから、何でも仰ってくださいませ」
「ありがとう……相談というのは、その、二人のことなんだ」
「二人ですか?」
不思議そうに辺りを見渡し、首を傾げたベリーナ。
「カミロ様、申し訳ございません。そのお二人というのは、どちらに……」
「ベリーナ、二人とは貴女と私のことだよ」
「私達でございますか?」
予想外の答えに、ベリーナは目を丸くしたままカミロを見つめた。
「もしかして貴女も忘れていたのか? 一年経ったらまた改めて今後のことを話し合おうと言っていたじゃないか」
「確かにそのようなお約束をしておりましたが、すっかり忘れておりました」
困ったように笑ったベリーナの姿を前に、カミロはなぜか「彼女が自分と同じ想いである」という自信を持っていた。
だがその自信が錯覚だったことを、彼はこの後身をもって知ることとなる。
「実は私もそのことをすっかり忘れていたんだ。ジョルジュに言われて、そろそろきちんと話し合わなければいけないと思って」
「そうですね。では、まずカミロ様のお考えをお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「私か?」
「ええ、この結婚をご提案いただいたのはカミロ様ですので、ご意向をお伺いしたいんです」
ベリーナは穏やかに微笑みながらカミロを見つめた。
そのあまりにまっすぐな視線に戸惑いながらも、彼もベリーナを見つめ返した。
「私は……このままずっとベリーナと共に暮らしていきたいと思っている」
「このまま、ですか?」
ベリーナがそう問いかけた瞬間、カミロのそばに控えていたジョルジュが天を仰いだ。
「あぁ、私と貴女は今とてもいい関係を築けていると思っている。だからこそ、このままずっと互いの幸せを願える関係でいたんだ。それともう一つ……」
「何でしょうか?」
「先延ばしにしていた後継ぎの件だが……その、ベリーナさえよければ、私達二人で考えていけたらと思うんだが、どうだろうか」
不安げに瞳を揺らすカミロ。そして、その横で目頭を押さえ俯くジョルジュの姿を横目に見ながら、ベリーナはいつになく真剣な表情でカミロをまっすぐ見据えた。
「カミロ様のご希望はわかりました。ですが、私からの返事は少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「……それはどういうことだ?」
思いがけない彼女の返事に、カミロは慌てて椅子から立ち上がった。
その拍子にテーブルのポタージュが溢れそうなほど激しく揺れた。
「申し訳ございませんが、少し一人になって考えたいことがあるんです。わがままを言ってすみませんが、お願いいたします」
立ち上がり深々と頭を下げたベリーナに、カミロは力なく椅子に沈んだ。
「わかった……では、来週の会議でなら返事を聞かせてくれるか」
「はい、必ず……すみませんが、残りの食事は部屋で摂らせていただいてもよろしいですか?」
「あぁ、ガレッティに伝えておく」
「ありがとうございます。では、失礼いたします」
ベリーナは改めてカミロに深々と頭を下げると、一度も振り返ることなく部屋を出ていった。




