信じたかった、そして
鐘が三度、乾いた音を立てたとき、わたくしは鎖の冷たさで自分の手首を思い出した。鐘の残響が梁を伝い、胸骨の奥を三度叩いた。
その数だけ、手首の鎖の冷たさが増す。
黒いメイド服。白いエプロン。磨かれた床に映るのは、場違いな『侍女』の影。
二度目の裁定ーーそれが今のわたくしの立場だった。
高窓から指す光は冷たく、客席のざわめきは熱い。
視線はひとところへ集まる。中央に引き出されたわたくしに。でも白いドレスへの少女へも。サフィー・プラハ。
「……アプリル・ブラチスラバ」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
殿下の声は低く、広間の空気をたやすく支配する。
告発状が掲げられた。
サフィーが震えを押し殺して読み上げる条々ーー備品損壊の濡れ衣、毒の小瓶、復讐の暴言、殿下の動向を書き付けた密書の企て、日記の呪詛、身分詐称。
読み上げられるたびに、客席に『やはり』の気配が増えていく。
(そう来たわね、サフィー。貴女は”証拠”を握っているつもり)
わたくしは、否認した。背筋を伸ばしても、声は震えた。
一度目の断罪で学んだのは、言葉の強さではなく、声に宿る孤独を嗅ぎ分ける人々の残酷さだ。彼らは孤独の匂いに群がる。
次の合図で、壇上にいる彼女が”証言”へ移る。
薄く笑った口元で、彼女はわたくしの『意図』をなめらかに語った。
割れた茶器は『わざと』。日記の切れ端には『呪詛』。小部屋のベッド下には『毒』。
王子の掲げる小瓶が、光を鈍く跳ね返す。
(ベッドの下……そこに置くなら、埃の筋が不自然に切れるはず。見える人には見える手つき)
否定の言葉は、ざわめきに吸い込まれていく。
広場の空気は、誰かが息をのむたびに”黒”へ寄る。
わたくしはただ、指の先に力を込めた。鎖の輪がかすかに鳴る。
「お待ちください!」
ロータスが割って入った。
不器用で、正直な同僚。彼女はわたくしのために声を張り上げ、しかし『事故』という言葉で、かえって”壊した事実”だけを補強してしまう。
彼女の『事故です』は、正しさでわたくしを救おうとして、事実だけを強くした。
それでも、わたくしは心の底で彼女に礼を言った。
私は一歩、前へ出た。
鎖が床石をひっかき、鋼の音が伸びる。
手を伸ばした先は彼女の肩でも頬でもない。殿下の手にある告発状。
破るためではない。降ろさせるために。
その一瞬、彼女と目が合った。
怯えと、焦燥と、わたくしに向けたなにかの色。
「……なぜ……サフィー。どうして貴女が、わたくしを……」
思考より先に足が出る。
鎖が床を擦り、銀粉のような音が走った。
届かない問い。
衛兵の手が肩を押さえつけ、膝が床に落ちる。
見物人には、それが”逆上”にしか見えないことを、わたくしは分かっていた。分かった上で、止めたかった。
サフィーは騙されているだけ。
グルナ様を信じすぎて、真実が見えなくなっているだけ。
わたくしはそう思いたかった。
だから……
「お願い……貴女は破滅しないで……」
でもどうすることも出来なかった。
サフィーはもうわたくしの言葉なんか信じないし、聞き入れない。
彼女の目にはわたくしは、悪人としか見えていない。
グルナが壇に上がる。
あの時と同じように。
銀の髪、澄んだ声。
「わたしは……信じたかったのです」
一度目の断罪でも、最後にわたくしの背を押し落とした文句。
あの柔らかさは、刃の角度を隠すための絹だ。
(二度目も、その言葉で人は傾くのね)
わたくしには絶望しか残らない。
せめて、サフィーが破滅しないことを祈るだけ……
そう思っていた。
するとサフィーはもう一段、踏み込んだ。
「夢で見ました」
「寝言で『クーデターを』」
その二つの言葉がサフィーの口から出た瞬間、広間の色が白から灰へと変わった。
誰かの鼻で笑う小さな音が、連鎖して広間を満たしていく。
わたくしは息を止め、耳の奥で脈打つ音を数えた。
(……何故? こんな事を……?)
この言葉を発しなければ……きっかけとなった、『倉庫番を大金で買収』という虚偽の証言をしなければ……貴女の勝ちは決まっていた。
それなのに、明らかすぎる墓穴。
わたくしを追い詰めようと、自滅したのだろうか。違う、そんな事はあり得ない。
こんな事を言わなければ、勝ちなのは分かっているはず。
だから、どうしてなの……
(サフィー、何で貴女は”勝ち筋”を捨てたの?)
さっきまでの彼女は、用意された証拠線を寸分違わずなぞっていた。
割れた茶器、呪詛の切れ端、毒の小瓶。
グルナが用意したものだろう。
ーー”見せれば信じる”という、裁定の手順にぴたりとはまる札。
なのに今、彼女は自分の札を、わざわざ”夢”と”寝言”で濡らしている。
真実味を剥がす言い草を、自分の口で。
視界の端で、モニカが紙端の繊維を語り、書記官が『掃除の女』の記録を読み上げる。
ロータスの震える声が、わたくしのほうへ伸びて来ては千切れて落ちる。
その一つひとつが、実は彼女の足場を削る刃になるのを、サフィーが分からぬはずがない。
(なぜ……? どうしてなの……?)
答えは、彼女の視線にあった。
泣き声が裏返るたび、ほんの一秒だけ、彼女はわたくしを見た。
殿下にも、グルナにも向けない目。
助けを請う目ではない。
”確認する目”だ。
わたくしがここにいるか、見ているか、届いているかーーそれだけを見ていた。
胸の内で何かが音を立てる。
そこからは早かった。記憶が連結していく。
・『大金で倉庫番を買収』ーー実家が減封されたわたくしには不可能。彼女はその矛盾を知らないはずがない。
・切れ端と毛羽立ちーー『紙の酸化』を知らぬ彼女ではない。
・”夢”と”寝言”ーー理性の場に持ち込めば、一撃で信憑性を失う言葉。
(サフィーは、崩している。意図して)
「グルナ様、信じてください! 私は何も……」
彼女は必死にグルナへ懇願していた。
本気なのか……いや、違う。彼女がもうグルナに救われるつもりなんかない。
「わたしは信じたかったのだけれども」
やがてこの言葉が今度はサフィーに突き刺さる。
二度目の絹の刃が。
場は決まった。
でも、決まったのは”誰の真実を採用するか”だけ。
わたくしが知るべき真実は、別にある。
目を閉じずに、まっすぐ彼女を見る。
サフィーは、崩れ方を選んでいた。
潔白を取り戻すために、わたくしが選べなかったやり方で。
ーー自らが”悪役”になる、崩れ方。
殿下の声が下る。
虚偽告発に証拠捏造。結果は廃都への追放。
観衆が沸き立つ。
サフィーの足がよろけ、衛兵に拘束される。
その頬の涙には、もう誰にも美談に見えない。悪人が絶望した時の涙だ。
でも私には見えた。
彼女が最後にわたくしを見なかった理由。それは、わたくしに”言わせない”ため。
ーー「止めてはいけない」と。
彼女自身の破滅で、わたくしの嫌疑が完全に剥がれるように。
(気づいてしまった……)
胸の奥に、乾いた風が通り抜けた。
ようやく、言葉になって落ちる。
ーーサフィーは、わたくしを守ろうとしていた。
ーー断罪される形で。
解放の宣言がわたくしの鎖を外す。
でも、手首に赤い輪郭が残るように、気づいてしまった真実は消えない。
鉄の輪が去っても、心の中にはもう一つの輪が嵌まっている気がした。
最後にサフィーが衛兵に引かれていく。
グルナの扇が畳まれ、殿下の視線は逸れ、ざわめきはわたくしの方へ”無罪”という花冠を投げる。
わたくしは受け取らない。受け取れない。
花は、わたくしの頭に合わない。
合うのは、たったひとつの決意だけ。
(貴女が落とした”舞台”の幕を、わたくしが上げ直す。『信じたかった』で誰も突き落とされない場所まで)
鐘が四度、確かに鳴った。
三度は断罪の合図。四度は出立の合図だ。
わたくしはグルナと殿下の間を真っ直ぐ歩き、深く一礼してから背を向けた。
大広間を出ると、外の空気は眩しいほど白かった。
群衆のざわめきが背に遠ざかるたび、心の奥に沈殿していた何かがざらりと剥がれていく。
足が震えていた。恐怖ではなく、ようやく歩き出せる場所を見つけたから。
この震えを止めたら、また誰かを信じられなくなる気がした。




