夕暮れの廃都
「着いたから、降りろ」
馬車は長い沈黙の旅を終えて、やがてぎしぎしと軋みながら停まった。
馬のいななきも、車輪の軋みも、次の瞬間にはすべて止まった。音が消えるだけで、世界の形までも削られていくようだった。
何度も昼と夜を繰り返し、停まった時には夕暮れが迫っていた。
「ここが……」
兵士の一人が扉を開いた。冷たい風が車内に吹き込み、砂の匂いと乾いた熱を運んでくる。 その先に広がっていたのは、灰色の石造りの建物が崩れかけた廃墟の街だった。
風が通り抜けるたび、粉塵の光を帯びて宙に舞った。
それはまるで、滅びた祈りの残響みたいだった。
生きている人の気配はどこにもなく、ただ風が空虚に鳴り響くだけ。
「降りろ」
再度兵士に促されて、私はおぼつかない足取りで馬車を降りた。
靴底が砂を踏む音がやけに大きく響いた。
私が所持していたものは全て没収されて、服だけが残っている。
「ここが……廃都……」
見渡しても誰も居ない。
王子も、学院の友も、聖女様さえも……ここにはいない。
背後で馬車の扉が閉まり、兵士の一人が鞭を鳴らす。
車輪が砂を巻き上げながら遠ざかっていく。
「ま、待って……!」
思わず駆けだした。
けれど兵士の背中には、最初から情も言葉もなかった。
そして、兵士達は振り返らない。
やがて馬車は砂嵐の向こうへと消えていった。
「うう……」
広大な沈黙が残された。
風が頬を撫でるたびに、砂粒が刺さるように痛む。
「嘘……」
声が震え、涙が頬を伝った。
あの大広間で、殿下の隣に立っていたときの拍手が、いまも耳の奥でこだまする。舞踏会の景色が目の前に浮かんでくる。
あれが夢だったのか、それともこの現実が罰なのか。
かつての『ヒロイン』としての輝きは、ここには一欠片も存在しない。
私は膝をつき、崩れた石に手を置いた。
冷たい石の感触が、現実を突きつけてくる。
「……いや」
嗚咽と共に声が漏れた。
夢も、希望も、すべては学院に置き去りにしてきた。
残されたのはただ、孤独だけだった。
「こんな場所……」
私は枯れ果てた井戸の縁に腰を下ろして、砂を掬い上げる。
かつてはここに湖があったのだろうか。掌から零れ落ちる砂の冷たさに、胸が痛んだ。
しばらくして、奇跡のように水が残る井戸を見つけた。
掬い上げた水はぬるく、鉄の味がした。
飲み下した瞬間、胸の奥から熱いものが込み上げてきて、涙と一緒に喉を焼いた。
それが生きる痛みなのか、まだ死ねない罰なのか、自分でも分からなかった。
夕暮れの空に、鳥の影ひとつ見えなかった。
それでも私は、何かを探すように空を見上げていた。
太陽が沈み、廃都に夜が訪れた。
風の音は日中よりも強く、建物の隙間を抜けて笛のように鳴る。
月が砂に反射して白く光り、崩れた塔の影を長く引きずっていた。
「……寒い」
瓦礫の隙間に身を潜め、服の裾を抱きしめる。
昼は焼けつくように熱かった砂が、夜になると氷のように冷える。
掌に残ったぬるい水を口に含むと、すぐに喉の奥へ消えていった。
月を見上げた。
まるで学院のバルコニーで見た月と同じーーそう思った瞬間、胸が軋んだ。
(殿下……私、間違ってなんか……)
声に出そうとしても、唇が乾いて音にならなかった。
砂の中で、誰も答えない。
ここには祈りも、観衆も、誰一人いない。
ただ、風だけが『終わり』を繰り返し囁いている。
やがて、頭の奥がじんわりと重くなった。
眠気なのか、夢の引きずりなのか分からない。
目を閉じると、まぶたの裏に光が滲んだ。
それは蝋燭の光……いや、あの夜、聖女様の部屋で見た淡い炎の色だった。
「……グルナ様?」
思わず呟いた瞬間、耳元で風が揺れた。
確かに聞こえたーー”選ばれたヒロイン”という囁き。
「……私は……ヒロイン」
その言葉を繰り返すたび、胸の奥がじくじくと痛んだ。
同時に、涙がこぼれて頬を伝う。
聖女様のあの声も、あの微笑も、王子の手も……みんな砂のように指の間から零れ落ちていく。
「もう……いないの?」
返事はない。
ただ、崩れた建物の中で何かが軋む音がした。
まるで、誰かが扉を開けるような音。
「……誰?」
身体を起こして辺りを見回す。
風が止み、砂の粒が空中で静止しているように感じた。
崩れかけた礼拝堂の奥から、かすかな光が滲んでいた。
ふらつく足取りで近づく。
光は、割れたステンドグラスの破片に反射しているだけのはずだった。
でもその光の中に、誰かが立っていた。
白い影ーーそれは、かつて見上げた”聖女”の姿に似ていた。
けれど、顔は闇に溶けて見えない。
「……グルナ様?」
返事の代わりに、風が砂を巻き上げて、彼女の輪郭を崩した。
光の粒子が霧のように散って、誰もいなくなる。
私は膝をつき、呆然とその場に崩れ落ちた。
頬に残る涙が、冷えた砂に吸い込まれていく。
(……消えた……全部)
夜の空には雲ひとつ無く、満月だけが残酷なほど美しかった。
その光の下で、私の影だけが静かに震えていた。




