廃都行きの馬車
「サフィー・プラハ、出ろ」
大広間から出された後、背後で裁定を終える鐘が一度、乾いた空へ突き刺さった。終わりの合図は思ったより軽い音。
私は明朝の馬車での送致が決まった。そう、廃都へ送られるために。
それまでの間、石造りの小部屋に過ごしていた。アプリルが軟禁されていた小部屋よりも狭くて冷たい。
こんな部屋だから、そんなに眠れなかった。
今までで最悪の寝床。いや、これからより悪くなると思うけれど。
廃都……授業で聞いたことがある。
隣国にあったかつてのオアシス都市で、広大な砂漠の中央部に位置していた。
都市機能があった頃は湖があって、人々で賑わう交易路の要所だったんだけれども……
戦乱と疫病で衰退し、湖が枯渇して放棄……と習った。教室で聞いた語句が、いまは刃の背のように冷たい。
今は追放先として使われるくらい。
そんな場所に、私は追放される。
「……っ」
学院の建物から出ていくと、外は既に噂を聞きつけた群衆で埋め尽くされていた。
白いハンカチや花束はどこにもない。黒や赭土の外套が重なり、道は鈍い色で埋まっていた。
太陽が昇っている中、無数の視線が一斉に私へ突き刺さる。
「偽善者!」
背筋が凍り付く。ついこの前まで、私は彼らから羨望と憧れの眼差しを浴びていたはずなのに。
人々の表情は、もう私に慈しみを与えるものではなかった。
「よくもアプリル様を陥れたな!」
「殿下を騙すなんて……許せない!」
最初に浴びせられたのは罵声だった。次に投げつけられたのは石ころ。
小石が肩を打ち、鋭い痛みが走る。
罵りは名指しから、やがて職名、最後は存在そのもののへと矮小化していく。言葉が人を名詞に変える速度は速い。
さらに別の石が頬をかすめ、血が滲んだ。
「やめて……!」
叫んでも、誰も耳を貸さない。
むしろその声をかき消すように、笑い声と罵声が入り交じって押し寄せた。
「泣き真似をするな!」
「まだ芝居を続ける気か!」
「哀れだ……」
ひとりだけ低く呟いた『哀れだ』という男の声のほうが、石より痛かった。
兵士達は淡々と私を馬車に押しやる。
群衆の間を進むたび、両耳には容赦ない怒号が突き刺さった。
「……私はヒロインなのに」
小さく呟いた。
でもその声はすぐ、群衆の嘲笑にかき消される。
「ヒロインだって? 意味不明な言葉を喋っているぞ、この女」
「聞いたか、こいつはまだ言ってやがる!」
「滑稽ですらない……」
笑い声の渦が私を突き落とす。胸の奥がひび割れていくのを感じた。
やがて馬車の黒い扉が目の前で開かれる。
まるで棺の蓋が開いたかのように。
内側からは二度と押し返せない種類の木。掌が知っている。
「いや……いやよ……!」
必死に首を振るけれども、兵士の力には抗えない。
乱暴に背を押されて、私は車内に押し込まれる。
硬い床に打ちつけられ、息が詰まる。
「助けて……こんなの……」
まだ石が飛んできて馬車の木枠を叩く。罵声の中、幼い子供が石を拾おうとして、隣の母親に止められていた。
子は私を見て、母は子を抱き寄せながら視線だけを地へ落とした。守る手と、見ない眼。
ほんの一瞬の、救いになり損ねた構図。
扉が閉められていく時でさえ、外の群衆の罵声が最後に突きつけられた。
遠くにアプリルが見えたような気がした。
あの赤い瞳が風の向きだけ確かめるように細められ、私に触れず、しかし逸れもしない。
その距離は、言葉より重たかった。
「二度と戻ってくるな!」
「廃都で朽ち果てろ!」
重たい音を立てて、馬車の扉が閉ざされた。中からは開かない。
罵声の音量は低くなったけれども、はっきりと聞こえる。
光はほとんど消え、わずかな隙間から聞こえていた人々の怒号も、遠ざかっていく。
(ヒロインでありたかったのに……)
笑顔の王子に抱きしめられる妄想をしたけれども、すぐに消えていく。
残ったのは絶望だけ。
薄暗い車内で、私は震える手で顔を覆った。
涙はもう止まらなかった。
(どうして……どうしてこんなことに……私は、ヒロインだったのに……)
その呟きは、誰にも届くことなく、馬車の暗がりに吸い込まれていった。
馬車は重たい車輪を軋ませて、学院の門を離れていった。
窓には格子がはめ込まれ、わずかな隙間から見える外の景色は、揺れる影と遠ざかる人々の姿だけ。
(最悪の……バッドエンド……)
ヒロインから証人。証人から罪人。呼ばれ方が、私の中の順番まで塗り替えていく。
外の喧噪はもう聞こえなかった。
代わりに残ったのは、車輪の単調な響きと、胸の奥で鳴り続ける鼓動。
(どうして……? 私が、どうして……?)
私は膝を抱え、冷たい木の床に身を縮めた。
かつてドキドキして待ち望んでいた『断罪イベント』。
それを自らの手で始めたはずなのに、結末は全く違った。
私は王子と結ばれるはずだった。真のヒロインとして栄光を掴むはずだった。
「……キリル殿下」
名前を呼ぶ声は震え、喉で詰まった。
思い浮かぶのは、あの夜の月明かりの下で囁かれた甘い言葉。
『未来は、君のものだ』ーーその言葉は、すでに過去の幻に変わっている。
「違う……違うの……私は、嘘なんて……」
声は馬車の中で反響し、自分の耳を打つだけだった。
聖女様は信じろと言っていた。私はヒロインだと、選ばれた人間だと。
なのに、なぜ……?
衣の襟に、かすかに残る香草の匂いーーあの部屋の香り……がした。次の呼吸で、それは砂の匂いに押し流される。
窓の隙間から吹き込む風は冷たく、荒野の匂いを運んでくる。
その先には廃都。
砂に埋もれ、水も緑も失われた、死んだ街。
”風が湖底を歩く街”ーー授業でそう呼ばれていたのを思い出す。いま、風は私の胸底を歩いていた。
そこに私は追放される。
(ひとりで……? 誰も居ない場所で……?)
恐怖が全身を締め付ける。
だけど、馬車の先頭に乗っている兵士達は沈黙したまま、振り返ることすらしない。
私は完全に孤独だった。
揺れる馬車の中、私は震える声で呟いた。
「ねぇ……誰か……間違っているって言ってよ……」
その声に応えるものはいない。
ただ、砂塵を巻き上げる車輪の音が、無情に響き続けていた。
車輪は均等に刻む。私の呼吸だけが乱れている。足元の砂は泣き声を吸っても残さない。
誰も訂正してはくれないまま、馬車は私の物語から”ヒロイン”の綴りを剥がして進んだ。




