消えぬ灯
【アプリル視点】
それでも、わたくしにはまだ”仕事”が与えられていた。
学院の決まりなのか、それとも”見せしめ”なのか。
数時間ごとに呼び出され、護衛の目の前で食器の片付けや廊下の掃除を命じられる。
彼らは無言のまま、わたくしの一挙手一投足を監視していた。
磨き終えた銀器に自分の顔が映るたび、そこには”令嬢”ではなく”罪人”の影。
白手袋も取り上げられ、素手で触れた冷たい金属が、まるで『お前の誇りなどもう要らない』と告げているようだった。
「……終わりました。次はどちらを?」
「厨房へ行け。次の皿が届いている」
監視役の声は冷たく、感情が無かった。
わたくしは静かに頷き、食器を盆に載せて歩き出す。
足音が石床に乾いた音を立て、周囲の視線が刺さる。
廊下の先で、通りがかった生徒達が小声で囁くのが聞こえた。
「断罪された令嬢って、あの人だったのね……」
「見た? まだメイドの真似事をしているわ」
言葉の一つひとつが、硝子の破片のように心をかすめていく。
それでもーー俯かない。
俯いたら、グルナの思う壺だと分かっていたから。
(……この屈辱も、いつか真実を記すための証拠になるわ)
冷たい床を歩くたびに、心の奥で何かが強く燃える。
誇りを奪われても、わたくしの信念までは誰にも触れられない。
やがて仕事を終えると、また衛兵に連れられて小部屋へ戻された。
そんな日々を数日過ごしていく。
そして明日は裁定。
学院と殿下の前で、わたくしは罪を問われる。
誰もが信じて疑わない告発に書かれた罪を。
サフィーの名が刻まれたであろうその羊皮紙が、すべてを決める。
石造りの小部屋は、昼よりもさらに冷え込んでいた。
蝋燭の炎だけが頼りで、影がゆらゆらと壁を揺らす。
外の風の音が耳に残り、眠るどころではなかった。
その時ーー
小さなノック音が響いた。
「……アプリル様。あたしです、ロータスです」
扉を叩く音の後、衛兵の影が廊下を通り過ぎる。
その足音が完全に遠ざかるまで、ロータスは扉の外で身を潜めていたのだろう。
小さな隙間から彼女が滑り込んでくると、かすかにハーブの匂いが漂った。
あの子は……わたくしを気遣うために、命がけで来てくれたのだ。
両手には、小さな包みを抱えている。
「夜分に申し訳ありません……でも、どうしてもお渡ししたくて」
彼女は囁くように言いながら、包みを差し出す。
布を開くと、中には小さなパンと、手縫いの白いリボンがあった。
パンの香りは温かく、ほんのりと甘い。
「厨房の方が余ったから……少し冷めてますけど」
「……ありがとう、ロータス」
パンを見ただけで、胸が詰まった。
この数日、与えられた食事は冷たく、まるで”残飯”のようだった。
「本当に、貴女だけね。わたくしを信じてくれるのは」
「当たり前です。あたしは……アプリル様がどんな方か、見てきましたから」
ロータスの声は震えていた。
彼女の手が、わずかに拳を握る。
その仕草が愛おしくて、痛ましくて、わたくしはそっとその手を包み込んだ。
「ありがとう。でも、貴女まで巻き込まれてはいけません。明日の裁定では……わたくしの事は、もう忘れて」
「そんな……できません!」
彼女は首を振った。
眼鏡越しに大きな瞳がにじみ、蝋燭の光を反射する。
「みんなが何を言っても、わたくしは信じてます。だってアプリル様は、あたしに”名前を呼ぶ権利”をくれたじゃないですか」
胸の奥が熱くなった。
思わず息をのむ。
あの日の光景がよみがえる。初夏の温かい風、ハンカチに移った石鹸の匂い。
新米だった彼女に、わたくしは笑って言ったのだ。
グルナに破滅させられる前、王家の分家筋であり殿下と婚約していて皆が”令嬢様”や”お方様”と呼んでいた中で、”アプリルって呼んで良いわよ。あなたも一人の人間なのだから”と。
それが、彼女にとって特別な意味を持っていたのだろうか。
とはいえ、”アプリル様”って呼んでいたけれども。
「……そんな昔のこと、覚えていたのね」
「忘れるわけありません。あの日から、あたしの生き方は全部アプリル様に教わったんです」
ロータスの頬を伝う涙が、蝋燭の光を受けて煌めいた。
その光景が、やけに美しくて、胸が締め付けられる。
「……ありがとう。でもね、わたくしはもう、運命を受け入れる覚悟をしたの」
「それでも……それでも、信じてます。きっと真実は明らかになります」
彼女のその言葉に、わたくしはかすかに笑みを浮かべた。
この世のどんな祈りよりも、彼女の言葉が美しく思えた。
ーー信じる、という行為そのものが、こんなにも強くて優しいなんて。
「ロータス」
「はい」
「もし、明日の裁定で……わたくしがどうなっても、泣かないでね」
たとえ毒を飲むことになっても、大衆の前で首を刎ねられようとも。
「……無理です」
「ふふっ、正直でいいのよ」
二人で小さく笑い合う。
それだけで、この暗い部屋が少しだけ明るくなる気がした。
「うん、これで良いかな」
ロータスは立ち上がると、机の上に蝋燭をもう一つ置いた。
芯に灯を灯すと、部屋の中がふわりと明るくなる。
「これ、あたしからの願いです。明日、どんな結果になっても……この灯りが消えませんように」
その言葉を残して、ロータスは静かに扉の外へ出ていった。
扉が閉まると、残された光が二つ、ゆらゆらと揺れている。
わたくしは椅子に戻り、蝋燭を見つめた。
淡い光の中で、ロータスの涙の跡が脳裏に残る。
そして、そっと呟いた。
「……ありがとう、ロータス。この灯りが、わたくしの心まで閉ざさせないわ」
外では風が鳴り、遠くで鐘が響く。
夜はまだ長い。
けれど、もう恐くはなかった。
「この灯り、消えませんように」
わたくしはそう呟き、蝋燭の火に手をかざした。
小さな炎の中に、ロータスの涙が映っている。




