第9話
これだけ高ければ、死ねるだろう。
私は千恵美のマンションの屋上の縁に立って、濡れた部屋着の上から腕をさすりながら、無表情に思った。
そこに、この状況に不似合いな電子音が鳴り響いた。携帯の着信だ。
私は顔をしかめながら、一応それを取り出し、画面を確認した。
―『智』
親指が反射的に動き、気付けば私は電話を耳に近付けていた。
『早まるなあああ!!』
大音声だった。
「な…にを…」
『死ぬなあああ!!絶対後悔すんぞ!!』
「何言って…」
『反省ならしていいが、後悔はすんな!!だから、死ぬな!!』
「っ…智と離れるなら、私は生きてた方が後悔するよ!!死んだ方がマシなんだよ!!」 一瞬、沈黙した。しかし、それは智によって、すぐに破られた。
『加奈…物事を【マシ】かそうでないかで判断するのは良くねえと思うぜ、俺』
「…でも【マシ】な方が良いじゃない」
『なあ加奈、お前死んだ事あんの?』
今の智の声に最初の勢いは無い。でも、大きな声ではないのに、威圧感がある。
「無いよ」
『じゃあまず比べらんねえよ。そもそもが話にならない』
「…何で、分かったの」
私は、まるで問い詰めるように、言った。一瞬、智は戸惑ったような間を空けて、『いや…』と言った。
『…マジで加奈、死のうとしてんの?』
「…」
私は無言でいる。無言の―肯定。
『俺さ、朋ちゃんと別れたよ』
唐突に、智は言った。
『俺が昨日朋ちゃんに告白されて、いいよって言ったのは、どうせ知ってんだろ?』
「…」
『でも、別れたよ』
智は繰り返した。
『別れたんだ』
一際強い風が吹いて、マンションの屋上の縁に立っていた私の体は、傾く―屋上の内側に。
『加奈が俺に気遣ってた理由、それじゃないかな、って思って。朋ちゃんには悪いけど、俺、別に朋ちゃんの事が好きだったからいいよって言ったんじゃないんだよ』
私の返事も無いのに、智は一人で喋り続ける。
『嫌いじゃなかったから。朋ちゃんが俺を好いてくれて、俺に好いてほしいと望んでいたから、俺は―朋ちゃんを好きになる努力を、しようかなって、思った。だから、いいよって言った』
少し間があった。ため息を吐いたのかもしれない。
『でもそんな事のせいで、加奈が俺に変な気を遣って…俺、それが嫌だったんだよ。加奈がどんどん離れてくのがさ…』
微かにため息の音が聞こえた。
『…あーもう、ほんっと、全部俺が悪かったよ!朋ちゃんに半端な気持ちでいいって言った事も、加奈が離れていく事も…だから、ごめん。さっきの電話で加奈に泣かないって言われてやっと、気付いたんだよ。自分がやった事に…んで、考えた。今度はちゃんと考えた』
息を吸う音が聞こえた、気がした。
『俺、加奈の事が好きだわ』
…それは、出来すぎた話ではないか。智はひょっとして、依存状態を思い違いしてるんじゃあ…。と、私は、喜ぶより先に、思った。が、その訝りは次の智の言葉によって氷解していく。
『俺、すごい加奈に依存してたと思う。でも、そんなのとは別に、俺は、加奈が好きだ。…それで、俺、あの…つまり照れてた訳で…だからこの電話のはじめに、あんな感じだったんだよ。何で自殺ネタかっていうとだな…ドラマで見たのがさ…うん…まあとりあえず、その…加奈はツッコミだから』
最後の台詞だけ、私は大いに合意しかねたが、しかし。
「智…ありがとう。
―私も…」
***
雨は止んだ。小さく突き出た屋根がある場所で雨を凌いでいた私は、ふと夜空を仰いだ。
智は私の状況を聞き、『馬鹿かお前!ちょっと待ってろ!』と、どこかで聞いたようなセリフを吐いて電話を切った。それを私は待っているのだった。
しばらく待っていると、階段の方からどたどたという音が聞こえ、やがてその音の主が現れた。
「やっほー智」
「…やっほー、加奈」
膝に手をあて、息を整える智―走って、来たのだろう―少しして、私に向き合った。
「寒そうな格好だな…ほら」
そう言って照れた表情で顔を背けながら智は、自分の着ていた上着を私の肩にかけてきた。流石に実際にこんなベタすぎる事をしてしまう人を目の当たりにしてしまった私は、ドン引きするより他なかった。
「…んだよその顔…やってみたかったんだから、いいだろ」
「…まあ、ありがたいんだけど…」
事実、暖かかったので、助かったけれど。智は顔を背けたまま、夜空を仰ぐ。どこまでベタなら気が済むのだろう。
―分かっている。ベタなのは、私に気を遣っているからなのは。
「いいの?これで」
私はかすれた声で聞いた。
「いい。これで」
見上げたまま、智は答えた。
そう、と私は言って、智から視線を外し、再び夜空を見る。満天とは言えずとも、ちらほらと星が光っていた。
沈黙。けれど、無粋な電子音がそれを破った。智の携帯電話だ。
もしもし、と出た智はしかし、すぐにその電話を私によこしたのだった。私は不思議に思いながらも『いいから』という智の声に促され、耳をあてる。
『…加奈先輩』
「!」
この声は―
「朋ちゃん…?」




