第6話 抗う
婚約の儀から数日が経った日の朝___
美桜はいつものごとく、彼女の職場である中央殿南の麗月神社へと向かった。この神社には、代々の皇族の魂が祀られており、実力を認められた異能者しか従事できない格式高い神社だ。
巫女装束に身を包んだ美桜は、大きな鳥居の前で深く一礼する。朱がよく映えるそれをくぐれば、朝日に照らされた拝殿が目に入った。
拝殿と本殿の間で鯉が泳ぐ池に、日光が反射して輝いている。そこにかかっている橋に足を運べば、彼女の元に鯉たちが集まってきた。水辺特有の爽やかな匂いがふと鼻に染みて、数日前の嫌な記憶を忘れさせてくれる。
「ふふ……おはよう。みんな元気そうね」
まるで我が子を慈しむ母のように微笑んだ美桜は、手に持っていた鯉の餌をはらはらと水面に落とした。波紋が広がり、ぽちゃん、ぽちゃんと飛沫が跳ねる。餌を取り合う食いしん坊な鯉たちに、美桜はくすくすと笑みを漏らした。
成長した鯉は、この大陸で重宝されている神獣・龍神へと姿を変えるとされている。故に皇宮ではさまざまな場所で飼われており、特に神聖な神社のもとでは美しい模様を持つ錦鯉たちが集まっていた。華やかな水の揺らぎに、程よい黒と色濃い朱が美しかった。
「美桜さま!」
彼女が池の中を微笑んで見守っていたとき、遠くから彼女の名前を呼ぶ声がした。振り返れば、十数人の侍女たちがこちらに駆けてきている。声の主はおそらく侍女長の茜だろう。
「なぁに、もう。そんなに大勢で……」
「氷櫂さまから、もう巫女の仕事は降りるようにとの伝達が!」
美桜がゆっくり立ち上がれば、茜は息を切らしながらそう報告した。一瞬、美桜の目は見開かれたが、すぐに前を向いて小さく息をつく。
「……そう。で?」
「は、はい?」
「氷櫂さまがおっしゃったから、なに?あの方は皇帝でもなんでもないでしょう?」
凛とした声でそう返す彼女に、侍女たちは言葉を失った。今まで悔しながらに唇を噛んでいた主が、急にそんなことを口にするとは。
「しかし、巫女というのは既婚の女性はしないもので……」
「まだ婚約しかしてないじゃない。それに、伊織さまと婚約していた際は、巫女の仕事をすることを許されていたはずよ」
「ですが!今回のお相手は次期皇帝の秀水さまです!」
「だったらなおさら、氷櫂さまのお言葉にはなんの拘束力もないのではなくて?」
茜は心配事を次々に口にしたが、その全てに美桜は論理的な返事を返した。さすが笙彗の子だ。病弱とはいえ、頭の良かった彼は、皇帝の座につくに相応しいと樹尭帝からも評価されるほど論理的な思考回路を持っていた。
鯉の餌を入れていた巾着をたたんだ美桜は、自分の侍女長の目をまっすぐに見やると、その口を開いた。
「茜さん、あなたが私を心配してくれているのはわかるけれど……私はいつまでのあの男に屈するわけにはいかないの」
「美桜さま……」
それでも心配そうな顔をする茜の手を、彼女は優しく包み込んだ。
「大丈夫よ、あなたたちに迷惑はかけないわ」
美桜は侍女たち一人ひとりの目をまっすぐに見つめた。大丈夫、私を信じて。そう、語りかけるかのように。
「……承知、いたしました」
ついに、茜が折れた。後ろに控える侍女たちも次々に頷き、肯定の意を示す。貴女を信じます、という彼女たちの言葉が、美桜の心に直接聞こえてくるようだった。
優しい光がさす池の橋に、確かな絆が輝く。思わず頬を綻ばせた美桜の笑顔は、ありふれた表現だが、太陽のように美しく、輝かしかった。和やかな時間に心を満たされた彼女は、ふう、と一息つき、その足を舞殿の方へと向けた。
「さて、そろそろ舞殿に……」
「じゃあ、僕にも迷惑をかけないでくれる?」
その言葉に、美桜の足は止まった。何度も聞いた耳障りな声、氷櫂だ。
振り返れば、拝殿と本殿をつなぐ渡り路にその男はいた。案の定、偽りの笑顔をその顔に貼り付けて医官の装束に身を包んだ彼は、数十人の官吏たちを従えている。
(まるで仏みたいな顔ね。生と死の淵に立ち会いすぎて、ついに自分が生きていることを忘れたのかしら?)
心の中で皇女らしからぬことを呟いた美桜は、その場で深く一礼し、形式上の敬意を示した。そのままにっこりと作った笑みを浮かべた彼女は、天女のような表情のままに口を開く。
「叔父上、この神社に健康運のご利益はありませんよ?」
美桜の挑発するような言葉に、侍女たちの顔は引き攣った。氷櫂の医官姿を、彼女は皮肉たのだ。後ろに控えていた官吏たちもその場に固まり、やがてこそこそと噂話を始めた。
「おい、何様のつもりなんだ?あの女」
「バカ!美桜さまだよ!最近秀水さまと婚約なさったじゃないか」
「え、美桜さまなの!?穏やかな姫君なんじゃ……」
官吏たちがざわつくなか、氷櫂だけは冷静に顔を作って言葉を返した。
「……そんなの、皇族なら知ってて当たり前じゃない?」
「ではどうして、この神聖な場所に正装でお越しにならなかったのですか?」
(この女……言い返すようになったか)
美桜の返しに、氷櫂は思わずその目を見開いた。あの時、母親のことを引き合いに出せば、すぐ言うことを聞いたというのに。婚約会見で、あれだけ自分が逆らってはいけない相手だと教え込ませたはずなのに。
「というか、僕に突っかかってないで、巫女をやめて后教育に集中したらどう?」
「その言葉を聞かねばならぬ理由は、一体どこにあるのでしょうか?」
「え?」
「それに、自分のことを棚に挙げていらっしゃるのはご自身ではなくて?」
冷たい風が、両者の頬を撫でる。氷櫂の目には、彼女が大嫌いな兄の姿と重なって仕方がなかった。病弱でありながら、知識が豊富でよく頭の回った兄の論理的な話し方と、美桜の反論には似ているところがある。チッ、と小さく舌打ちをした。
侍女たちも官吏たちも、気まずさにその目線を逸らさずにはいられなかった。なんとかせねばならないと、侍女長の茜と氷櫂の一番の側近は目で合図を送る。それぞれの主をこの場から離そうという目配せであった。
「美桜さま、そろそろ……」
「氷櫂さま。もうじき診察のお時間が……」
恐る恐る、二人はそう声をかけたが、当の本人たちはその場から動かなかった。美桜はもはや、氷櫂を思いっきり睨んでいた。
(この男のせいで、大切にしてくれていた人を二人も失ったというのに……父上との思い出まで奪われるわけにはいかない)
そう。父が褒めてくれた舞を、巫女としての仕事を、手放すつもりはさらさらなかった。今この男に屈すれば、大切なものが何もかも奪われてしまう。そう、本能で察知していたのだ。
沈黙が背筋を這う。上辺だけの優しさと笑みに吐き気がする。父の本当の優しさと笑みを知っている彼女にとって、それは偽物以外のなんでもなかった。
「あれ……美桜さま?」
緊張した雰囲気が漂うなか、ふと誰かから名前を呼ばれた。その声の主を視界に捉えた途端、氷櫂の表情が凍りつく。
「父上も、ここにいらしたんですね。おはようございます」
丁寧にお辞儀をした青年は、次期皇帝にして美桜の婚約者、氷櫂の実弟である第一皇子、秀水であった。
「秀水、どうしてここに?」
動揺した氷櫂がそう聞けば、しっかり正装を身に纏った彼は微笑んで答える。
「今日は笙彗さまの月命日ですから」
その言葉に、美桜の心臓が跳ねた。どうして彼は、父の命日を覚えていてくれているのだろうか。時の固定であった樹尭にしか、父は認めらなかったというのに。
「そうだ、美桜さま」
「は、はい……」
いきなり彼は美桜に話を振った。氷櫂の表情は険しくなり、美桜の表情は固まる。あの時の、美桜が倒れた時のことを二人とも思い出しているのだろう。
「笙彗さまの月命日ともなれば、きっと舞を奉納されますよね?」
にこにこと、無邪気な笑みを浮かべた彼は、一歩彼女に歩み寄った。何を言われるのかと緊張した美桜がこくりと頷けば、秀水はその反応にもう一段階頬を綻ばせる。
では、と彼は美桜に顔を寄せると、その耳元で囁いた。
「貴女の美しき舞を、私に見せてくださいませんか?」
「っ……!?」
頬を赤に染めた美桜は、思わず彼の顔を見やった。ふっと目が合い、鼓動が早まる。先ほどまでの緊張感は風に流され、淡い感情が彼女を優しく包んだ。