第5話 困惑
美桜が本当に眠ってしまってから数分後、一人の女性医官と美桜の侍女たちが医療室へ現れた。診察の結果、精神的な疲労と栄養不足によるものと診断され、点滴が施されることになった。
秀水から指示が出たと聞き、信頼できる女医を連れてきた茜は、いつまで経っても美桜のそばを離れない秀水を不思議に思っていた。他の侍女たちも、警戒心を解いてはいない様子で彼の動きに注目している。
その視線に気づいていた秀水は苦笑いを浮かべ、侍女たちに話しかけた。
「…そんなに私が気に食わないのですか?」
いきなりの彼の言葉に、侍女たちはびくっと体を震わせた。父に次いで、皇位継承権第二位の彼は、氷櫂に似てかなりの美形男子であり、常に他者に穏やかな笑顔を向ける男だ。そして、一定の表情を保っているが故に、本心が全く窺えない男でもあった。
そんな彼が、公衆の前で明らかな怒りを見せたのだ。それも、何か特別な思い入れがあるわけでもない女のために。
「い、いえ!滅相もございません!どうして第一皇子さまが、美桜さまをそこまで気にかけてくださるのかと…」
「どうしてって、愛する妻ですから」
単純な疑問を口にした茜に、彼は恥ずかしげもなくそう返した。まだ十歳を過ぎたばかりの少年だというのに、平然とそんなことを口にした彼に、思わず茜は頬を赤く染める。
自分が言われたわけでもないのになぜか赤面している茜に気づいた秀水は、くすくすと小さく微笑み、面白そうな目で彼女を見た。
「茜どのは純粋なんですね?」
直球に『恋愛に不慣れ』とは言わず、ほんわかとした言葉を選んだところにも、一部から女たらしと揶揄されている氷櫂に似た部分が見える。なんとも手強い男だ。
◆◇◆◇◆
秀水は医療室の椅子に腰掛けてしばらく美桜の手を握り、しばしば額の汗を拭ってやっていた。特に何か語りかけるわけでもなく、ただ静かに彼女に寄り添う。茜も彼の行動に安心し、少し心を許しつつあった。数十分後、そんな彼らのもとに、記者を全て帰し終えた様子の氷櫂が訪れた。
「秀水、いつまで完璧な婚約者を演じているつもり?記者はいなくなったし、そろそろ帰ろうじゃないか。お前は、その程度の女に時間を費やさねばならんほど暇ではないのだから」
彼が医療室に現れて、まず口にしたのはそれだった。茜も侍女も、あまりのいいように目を見開き、絶句した。秀水はなんと返すのだろうと、横目に彼を確認する。
「…わかりました、お父様」
以外なことに、彼は素直に立ち上がった。途端、茜は絶望した。先ほどまで、本当に美桜を愛してくれる男だと思うほどの扱いを見せていたのに。自分もまた、この女たらしと言われる男にだまされたのか、と床を睨むしかなかった。
息子の行動に満足げに頷いた氷櫂は、どこか嘲笑うような目で茜を見た。しかし、次の瞬間、秀水の口から発された言葉に、皆が目を見開くこととなった。
「では、父上は“その程度の女”を、私の婚約者につけたのですね?」
「…は?」
これには、氷櫂も驚愕だった。茜は侍女と目を見合わせ、微笑んだままの秀水に視線を戻した。
「大切なお祖父様を亡くし、心を痛めている私と彼女をわざわざ民衆の前に引っ張り出し、実の父である笙彗さまを亡くされた美桜さまを長時間の拷問に晒し、父上は何がしたいのですか?」
冷酷な声だ。でも、確かに微笑んでいる。そう、まるで氷のように、冷たくも美しい。そんな声と佇まいであった。
沈黙が続き、氷櫂の表情がこわばり始めた頃、秀水はまた椅子に座り直した。汗ばんだ美桜の額にそっと柔らかな布で触れ、ただただそばに寄り添う。まさに恋人のように。
「帰ってください。私が父上の分まで、彼女に謝罪いたします」
強い言葉だった。皇帝の血筋を引く、誰かを守るための声であった。茜は予想外の言動を見せた彼に感動し、もはや泣きそうなほどに感極まっていた。侍女もみな、今や秀水の横顔に惚れている様子である。
「……」
氷櫂は何も言わなかった。ただその場に立ち尽くし、息子の背中を眺めていた。そんな彼の元に、一人の男性医官が駆けてくる。
「氷櫂さま!患者さまの容体が豹変いたしました!」
「…わかった、すぐ行くよ」
その声は、低かった。怒りか、焦りか、はたまた絶望か。いつもの甘く優しい彼からは想像もつかないような声に、医官は震え上がった。
秀水だけはそんな彼に怯むことなく、いつもの可憐な笑顔を彼に向けていた。
「いってらっしゃいませ、お父様」
「…ああ」
静かだった。でも茜には、そこに小さな炎が灯されたように見えた。秀水は美桜から目を離さなかったが、父の鋭い視線を背に受けていた。
◆◇◆◇◆
数時間後___
夜を通り越して、太陽が顔を出し始めた頃。
「ん…」
小さな美桜の声が、静寂な部屋に響いた。眩しい朝日にうっすらと目を開き、ぼんやりとした視界のまま辺りを見渡す。
ふと、自分の手が暖かい何かに包まれていることに気がついた。美桜は視線を自分の手元に移し、そこに白い頭が寝ていることに気がついた。
そう、白い…白かった。
「え…?」
白髪は皇族の特徴だ。そしてそれは大人ではなかった。しかし、体の大きさの割に大人っぽく、天女のように優しく、それでいて安らかな寝顔をしていた。
「し、秀水さま!?」
その正体に気づいた美桜は、驚きのあまり思わず身を引いた。だが、彼女の手は、しっかりと秀水に掴まれており、決して離してはくれなかった。
「うっ…!?」
思わず、美桜は大きなため息をついた。女でもないのに、両親に蝶よ花よと大切に育てられた男だ。きっとマザコンか何かで、彼女を母親だと勘違いしているのだろう。
美桜は優しく、彼の手を引き剥がそうとした。しかし、どれだけ彼の手を引っ張っても、それが彼女を手放すことはなかった。本当に寝ているのかと、疑いたくなるくらいに。
だめだ、これはどうしようもないと再び大きなため息をついた美桜は、何か彼を起こせるものはないかと辺りを見渡した。そこでようやく、彼女は隣のベットに寝かされている存在に気がついた。
「あ、茜?なんであなたがここで…」
そこに寝ていたのは、茜と自身の侍女たちであった。皇族の秀水がなぜか自身のベットに頭を預けて寝ていて、侍女がベットを使っているなんて…異常な光景であった。
「ちょっと…起きてよ、茜」
「ん…」
しかし、彼女の声に目を覚ましたのは秀水の方だった。彼は寝起きが弱いのか、何度か目を擦ってぼーっと辺りを見渡し、小さな欠伸をいくつか漏らす。そしてようやく視界が明瞭になったのか、美桜の困惑した顔を見てようやく今の状況に気がついた。
「あ…!?も、申し訳ありません!」
慌ててその手を離すと、その場に土下座する。美桜は、自身の目の前で皇位継承権二位の男が頭を下げているこの状況に、余計混乱した。
「僕なんかに触られて…嫌でしたよね?」
そう美桜に尋ねる彼の目は、どこか潤んでいた。年相応の可愛らしさが垣間見える表情でありながら、紳士としての距離感を保っている。どこか憎めない青年であった。
「いや、とまでは…」
「本当ですか!?」
「うっ…」
思わず美桜がそう溢せば、彼の目はきらりと輝き、ばっと顔を上げる。よくもまぁこんなにころころと表情が変わるものだ。そんな彼は、ふとした笑みを漏らすと、そっと視線を床に落とした。
「よかったぁ、父のせいで、尊敬する笙彗さまの娘さまにまで嫌われているのかと思った」
「…?今なんて?」
彼の独り言は、あまりに小さくて美桜の耳には聞こえなかった。聞き返した彼女に、秀水は愛おしそうな視線をむけ、首を横に振る。
「いえ、なんでもありません。そんなことより…」
彼は彼女の問いには答えず、再び彼女の手を取った。
「これからよろしくお願いしますね、美桜さま」
「っ!?」
彼は甘い言葉と共に、彼女の手の甲にそっと口付けた。わけがわからなかった美桜はその頬を赤く染めたものの、なぜか嫌な気がしなかったことは彼女だけの秘密である。