第4話 本気
婚約の儀は名前の割に内容が薄く、契約書への署名はたったの十分で終わった。予定されていた2時間のうち、その後の時間のほとんどは記者会見に使われた。
「美桜さまは以前、獅子崎家の伊織さまと婚約されていたかと思いますが、今回はなぜそれを破棄されてまで再契約を?」
そんなくだらないことに、誰が興味があるというのだろうか。美桜は感情を殺し、表情を一定に保つことに精一杯で、応答することができなかった。してやられたのだ、氷櫂に。もし事前に記者会見があると聞かされていれば、想定される質問に対する回答を用意することもできたというのに。
案の定、彼は端で会見を見ていた。やはりその口元は、どこか嘲笑っているように見える。下手なことを言えばどうなるかわからないという無言の圧と、自分が彼に何をしたのだろうという精神的ストレスに、美桜は頭が狂いそうになった。
「失礼、そのような繊細な問題は、みだりに問いかけるものではないかと思います。彼女も困っていますし、今後似たような内容の質問は自粛していただけませんか?」
黙り込んでしまった美桜の代わりに、口を開いたのは秀水だった。男であるというのに天女のような笑みを浮かべた彼に、辺りからは感嘆の声が漏れる。
「ねぇ、聞いた?政略結婚だというのに、紳士な方ねぇ」
「さすが氷櫂さまのご子息だわ」
美桜は一瞬、ちらりと秀水の方を見やった。あぁ、そうだ。やはりこの男も氷櫂の息子であったと、当たり前のことを思い出す。
氷櫂は、切れ長の目とキリッとした眉が特徴的な、整った顔立ちをしていたために、多くの侍女から言い寄られていた。しかも、嫁があのような感じであるものだから、その美貌をいいことに気に入った侍女に手を出し、愛人が何人もいるという噂が立つほどであった。
彼と同じように整った顔を持った秀水もまた、自身の美貌をわかった上で黄色い歓声をうまく使い、押し付けられた女を皆の前で庇うことで、世間からの評価をあげているのだろう。やはり血は争えない。
「他の質問であれば、なんでも受け付けますよ」
穏やかな笑みを浮かべた青年に、またもや記者たちの手が続々と上がる。美桜は小さく俯き、孤独に少しのため息を吐いた。
普段、人前に出ない十二歳の少女は、このあと長時間の生き地獄を味わうこととなった。
◆◇◆◇◆
それから30分が過ぎ、美桜の顔に生気がなくなってきた頃、突然会見は打ち切られた。
「失礼、実は我が姪は最近体調が良くないのです。突然のことで申し訳ありませんが、終了時刻を早めさせていただけませんか?」
氷櫂の声だ。どうせまた『亡き兄の子を気遣う素敵な大人』というイメージを印象づけるための演出であろう。
しかし、今や美桜にとってはそんなことはどうでもよかった。隣に座っていた秀水は、美桜の異変をふと感じ取り、そっと彼女の腕に触れた。次の瞬間、ふっと美桜の体から力が抜けていき、彼女はそのまま前に倒れた。
「美桜さま!」
侍女たちの声が遠くから聞こえる。秀水が咄嗟に支えたために、頭を打つことこそなかったが、意識を失っている様子であった。
彼は無言で美桜を抱き上げ、そのまま大広間から出ていった。侍女が彼女を受け取りに来たが、秀水はそれを拒み、自身で医療室まで運んだ。
「誰か、父上《《以外の》》医官をお願いいたします。できれば女官で、優秀な者を」
「し、承知いたしました…」
いつも穏やかな彼の声は、どこか怒りに満ちているように聞こえた。普段とは違った雰囲気を纏った彼の言葉に少し怯んだ様子の側近は、慌てて廊下を駆けていった。
実はこれは、美桜なりの精一杯の抵抗であった。秀水は異能が強く、優秀なことで知られている。そんな彼が美桜に触れた途端、彼女が倒れれば、観衆からは彼が美桜に何かしたのかもしれないと見える。それを狙ったのだった。
彼女の想定では、その後すぐに茜が駆け寄り、彼女に連れられて部屋に帰れる…はずだった。それが何故か、今や秀水の腕に抱かれているのだ。確かに、美桜が倒れた後に何もしない方が、『何かしたのかもしれない』という疑いがかかるだろう。それに、こうして美桜を自ら進んでいくことで好感度は得られる。
だが、もしそれが彼の狙いであるならば、観衆が見えなくなったところまでで良いのだ。皇宮内は、訓練を受けた武官が警備を行っているため、記者たちはそこまでは追いかけてこれない。何より誤算だったのは、何故か彼が怒っていることであった。
倒れたフリがバレているのだろうか。不安になった美桜は、声をかけてみようかと迷い、薄目で彼の表情を伺った。
(やっぱり怒ってる…)
さて、どうしたものかと、痛む頭を無理やり働かせこの先の行動を考えていた彼女の耳に、ふと怒りに満ちた低い声が降ってきた。
「ただでさえ心労が重なっている美桜さまを、こんなにも追い詰めるなんて…」
驚いた。秀水は本気で心配してくれていたのだ。
美桜は彼を騙していることが申し訳なくなり、その手でそっと彼に触れ、実は起きているのだと伝えようとした。しかし、いくら彼の腕に触れても、肝心の秀水は気づいていない様子で、彼女には見向きもしなかった。心を痛めた美桜は、意を決し、ついに彼に話しかけることにする。
「あの…秀水さま…」
「しっ、ここで喋っては、貴女の計画は潰れてしまうでしょう?」
秀水は、美桜とは顔も合わせずにそう返した。どきんとした。彼は全てをわかっていたのだ。
なんて男だと目を見開けば、ほら、この先にあと二人武官が控えていますよ、と小声で告げられる。美桜は慌ててその目を閉じると、気を失ったフリを続けた。
どこか気に食わなかった。氷櫂と同じように、この男にまで手のひらで転がされているような気がした。でも___
氷櫂とは違い、秀水の言葉はどこか温かかった。優しさというか、なんというか___
愛、のようなものを感じた。
(何言ってるの、私!)
自分で勝手に妄想しておいて、恥ずかしくなった美桜は、ぶんぶんと首を横に振った。ついでに足もじたばたさせ、先ほどの言葉を無理やりに記憶の中から追い出す。
「ちょっ…美桜さま!」
急に暴れだした美桜をみて、慌ててぎゅっと抱きしめた秀水は、困り顔で彼女を見つめた。ふと彼と目が合えば、妄想にふけっていた彼女は、いきなり現実に引き戻される。
(…そうよ、彼は従兄弟よ。家族を愛するのは、普通ではなくて?)
そう思うと、急にしっくりきた。美桜はそれに納得して、小さな息をつく。彼を家族だと思えば、その腕はどこか暖かく、安心感を与えてくれるように思えた。
「温かい…」
「ふふ、それはよかったです。もう少しで着きますから」
彼女の独り言に、秀水は真面目に返答した。それからしばらく歩いていた彼だったが、医療室が近くなった頃、ふと異変を感じた。
美桜の呼吸が、規則的になったのだ。その表情がコロコロと変わることもなく、ただ安らかに___眠っているようであった。
「…美桜さま?」
秀水が話しかけても、返事はない。ただ美桜の静かな吐息だけが、彼の耳に入ってきた。
「ごゆっくりおやすみなさいませ」
くすりと小さな笑みを浮かべた彼は、よっと彼女を抱き直し、静かな昼の廊下を一人、歩いていくのだった。真冬の白い太陽が、窓越しに彼らを照らしていた。