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第3話 婚約の儀

 気温は一気に下がり、秋風は容赦なく枯葉を弄ぶ。かろうじて枝にしがみついていた葉は、抗うこともできずに風に引っ張られ、風の流れるままに宙を舞った。


 美桜が目を覚ました日は、まさに婚約の日であった。額に湿った布が置かれ、そばには疲れ果てた様子の侍女が居眠りをしていた。おそらく、世話をしながら眠気に襲われてしまったのだろう。


「…あかねさん」


 起こそうか少し悩んでいた美桜だったが、日付と時間を確認し、婚約の儀が行われるであろう昼まであまり時間がなかったために、自身の侍女長を揺すり起こした。


「んん…美桜さま…どうか目を覚ましてくださいませ…」

「もう起きてるわよ、貴女こそ早く起きて頂戴」


 苦笑いを浮かべた美桜は、寝言を呟く彼女にそう声をかけた。優しくその頬につんと触れれば、やっと彼女は目を開いた。


「あ、やっと起きたわね。おはよう」


 にこっと優しく微笑んだ彼女は、よっと布団から出ると、静かに身支度をしに衝立の奥へと向かった。


「え…?み、美桜さま!?」

「声が大きいわよ、茜さん。みなが起きてしまうでしょう?」


 美桜は自身の唇にそっと人差し指を添えた。いつもの彼女の笑みに安心した茜は、一人ぽたりと雫を落とした。


「ち、ちょっと茜さんったら…そんなに心配をかけてしまったかしら?」


 袖で顔を隠す茜に、彼女は慌てて駆け寄った。既に桜色の淡く儚い印象を演出する着物をある程度まで着付けた美桜の瞳は、どこか亡き父、笙彗しょうすいに似ていた。


「美桜さま、お上手になられましたね…」

「ん?あぁ、着物のこと?でも、帯はやっぱり苦手なの。私は巫女装束の方が好きよ。そうだ、帯と羽織は貴女が選んでくれる?」


 思い出したようにそう頼み、衝立の方へと戻った彼女は、桐箪笥きりたんすをそっと開けた。様々な色の帯がずらりと顔を揃えている。少し着物の袖を濡らした茜は、にっこり微笑むと共に頷いた。


「もちろんです…お任せくださいませ!」

「だから声が大きいってば…」


 やる気に満ちた茜の声に、彼女は苦笑いを浮かべた。先ほどまでぐっすり寝ていた他の次女たちはその声に起こされ、美桜の顔を見るとみな安心したのか目元を袖で隠した。

 こうして、先ほどと同じやりとりを繰り返すことになった美桜は、またも苦笑いを浮かべるほかなかったのであった。




◆◇◆◇◆




 皇宮こうぐうは、五つの大きな建物から成っている。

 皇領の真ん中で、皇族が暮らす中央殿ちゅうおうでん

 皇領の西側に位置し、愚者討伐組織・龍月組や、皇宮内の警護を行う武官ぶかんの仕事場、西陽殿せいようでん

 皇領の北側に位置し、各国の特産物や、勅許ちょっきょが下りた料理人、料理店や洋服店などが集まる北栄殿ほくえいでん

 皇領の東側に位置し、文官ぶんかんや、男性官吏だんせいかんりや侍女などが暮らし、仕事を行う東照殿とうしょうでん

 皇領の南側に位置し、各国の王族や使者など、来賓を迎えるための南禄殿なんろくでん

 後宮は、王国の勢力争いが激化することを懸念した暁月ぎょうげつが禁止したため、始めから存在しない。この世界の皇宮こうぐうは、人間が生きる表世界おもてせかいの常識的な皇宮とは全く違うだろう。


 この皇宮の中央殿にて、美桜と氷櫂の第一皇子・さきがけ秀水しゅうすいの間の婚約が正式に結ばれた。


 美桜はいつもの巫女装束ではなく、亡き父が誕生日に送ってくれた着物を着用した。氷櫂の言いなりにはならないという、小さな抵抗の現れであった。

 しかし、既に龍月組で輝かしい成績を残している十一歳の青年・秀水は、狐面で素顔を隠したままその場に現れた。面の下から覗く青緑せいりょくしょくの瞳の奥からは、芯の強さが感じられる。


 中央殿の西側、主に儀式に使われる大広間に、龍月組関係者や各国の特使、国営放送(裏世界で最も広く普及している放送局)までもが集まっていた。


「聞いてないんですけど…」


 あまりの人の集まりように、美桜は一瞬顔を引き攣らせた。とはいえ、これは婚姻の儀ではない。ただ書類に署名するだけだ。

 深呼吸をした彼女は、ふと唐突に視線を感じ、部屋の端へと目をやった。途端、心臓が止まるかと思った。


 視線の主は彼女の母・紗和さわであった。目が合うなり、気まずそうに目を逸らした彼女に、後ろに控えていた侍女・小春こはるが何か声をかけた。

 母はこの婚約をどう思っているのだろうか。本当は自分の夫を殺したかもしれない男の息子に嫁がせるのは嫌だったのではないか。そう思えばどこか胸が痛くなり、彼女は母の元へ向かおうと一歩踏み出した。その時だった。


義姉あね上、この度は両家にとってよい契りとなりましたね」


 ああ、またあの声だ。彼女にとって最も忌まわしき存在である氷櫂は、穏やかな笑みを浮かべながら紗和の方へ歩み寄った。彼の後ろを、妻である帆稀ほまれがゆっくりと歩いてきて、紗和の手をとる。


「紗和さまの素敵な娘さんと我が子が夫婦めおとになるなんて、夢のようですわ!」

「え、えぇ…そうですね…」


 基本的に淑やかな性格で気が弱く、自分の意見をあまり持っていない紗和と、天然で主人の言うことをなんでも聞く単純な性格の帆稀ほまれを、美桜は絶望の目で傍観していた。


 ああ、この人たちは自尊心が欠如しているんだ。彼女らの言動には誇りというものが微塵も感じられない。ただひたすらに強者に従い、機嫌をとり、体裁を保つことしか考えていない。

 氷櫂は、そんな二人の女性のやりとりを微笑みながら見ていた。微笑ましく思っているのではない。彼は嘲笑っているのだ。


「…なんて憐れな生き物」


 父が亡くなった今、もはや何も頼れない。だが、彼女は絶対に屈したくはなかった。

 生まれ持った病弱な体と向き合いながらも、自分の意思をしっかりと持ち、家族を支えてくれた父のように、強く生きるのだ。母のように周りに簡単に操られ、簡単に捨て駒にされるような存在にはなりたくないと、彼女はこの時強く思った。


 大人たちのやりとりを見て、密かに決意を固めていた美桜は、静かに近寄ってくる男の存在に気がつかなかった。


「美桜さま、何を睨んでいらっしゃるのですか?」


 思わずびくっとした彼女は、慌てて声がした方を振り返る。そこにいたのは、きちんと狐面を外した秀水であった。


 彼は美桜よりも一つ年下であるはずなのに、身長は彼女よりも高く、程よく筋肉のついた体を濃浅葱こいあさぎの着物に包んでいる。あの憎い男の息子であるというのに、彼の纏う雰囲気は父親とは違って、威厳すら感じる強さと、どこか安心感もある優しさとを併せ持っている、不思議な人物であった。


 優しく穏やかな心地よい声を投げかけた彼に、まだ警戒の糸を解いていない美桜は、咄嗟に扇子でその顔を隠した。


「私程度の女に、敬称は必要ありませんわ」

「はて…?美桜さまは、お祖父様の長男であられる笙彗さまのご息女で、私よりも年上の方でございます。敬うべき方に敬称をつけるのは当然では?」


 彼の回答に、美桜は目を見開いた。先ほどの言葉は、亡き父・笙彗しょうすいがよく言っていた言葉だ。それをなぜ彼が知っているのだろうか。

 呆然と立ち尽くす美桜の前で、秀水は後ろに控えていた官人に何か囁かれ、こくりと小さく頷いた。


「申し訳ありません。父上に呼ばれたので、行って参ります。どうかご自身を大切になさってくださいね」


 今では秀水の方が高い身分にあるというのに、彼は深く礼をしてからその場を後にした。


 美桜は、氷櫂の息子など、傲慢で下品な男であるに違いないと思っていた。従兄弟であるとはいえ、父同士の仲が良くなかったためにあまり接点がなく、何度か顔を見たことがある程度であったためだ。

 しかし、秀水はあまりにも礼儀正しく、彼女の予想は裏切られる展開になったのだ。


「…どうやったら、あの男からあんなに綺麗な心を持った息子が生まれるのかしら?」


 あまりの出来事に衝撃を受けた美桜は、かなり失礼な言葉を無意識のうちに口にした。側に控えていた侍女たちは、彼女の唐突な失言に冷や汗をかくのであった。

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