第2話 大人の事情
数日前、獅子崎家___
美桜の婚約者、伊織は、龍月組の入隊試験を受けるために、日々鍛錬に明け暮れていた。
異能者が暮らすこの裏世界には、他者の血肉を喰ったことで、不老長寿の身体を手に入れた異端の異能者・愚者が存在する。彼らは自身の強化のために無差別な惨殺を繰り返しており、その被害数は年間で数万はくだらない。
そんな愚者を討伐するための皇帝直轄の組織が龍月組である。彼がこの組織への入隊を志しているのは、婚約者である美桜を傍で守るため。健気な男である。
稽古に一区切りがつき、休憩していたとき、彼のもとに一人の従者が駆け寄ってきた。
「伊織さま、当主様がお呼びです」
その従者の顔に、彼は見覚えがあった。父の側近で、龍月組でも幹部の位置にいる実力者だ。
「わかりました、すぐ向かいます」
彼は疲れた体に鞭打って立ち上がると、駆け足で父の部屋へと向かった。彼の背中を押すように、初夏の風がふわりと弧を描いた。
◆◇◆◇◆
「失礼します」
3度、きちんとノックをしてからその戸を開けば、彼の父は難しそうな顔をして書斎に腰掛けていた。
「お呼びでしょうか、父上」
きちんと礼をした彼を父は上から下までじっと眺めた。そして、一つ大きなため息をついたのち、躊躇いつつもその口を開いた。
「樹尭帝が崩御されたそうだ」
「なっ…」
時の皇帝が死んだ。それは政権の交代を意味する。自分たちの生活を始め、この世界が大きく変わる可能性を秘めていた。
それよりも、彼は婚約者の美桜が心配でならなかった。つい最近、実の父を亡くしたばかりで気を病んでいたというのに、彼女を可愛がっていた祖父まで亡くすことになるとは…不憫でならなかった。
「あの、美桜は…」
「そのことなんだが、これからは『美桜』などと軽々しく呼ぶでない。しっかり敬称をつけろ」
伊織が普段通りに彼女の名を呼べば、父は過剰なほどに反応した。彼はなぜそこまで咎められるのか訳が分からず、戸惑いの表情を浮かべて父の顔色を伺った。次の瞬間に、彼の耳に入ってきた情報は驚愕的なものだった。
「お前はもう、美桜さまの婚約者ではない」
一瞬、意味がわからなかった。彼は呆然とその場に立ち尽くした。そんな彼をよそに、彼の父は次々と現実を突きつけてくる。
「樹尭帝の第二皇子であられる、氷櫂さまのご判断だ。お前はもうとっくに十五歳になったというのに、二度も龍月組の入隊試験に落ちている。火国にルーツを持つ御三家の本家が一つ、獅子崎家当主の長男でありながら、未だ国術である武術のうち、刀術と体術しか使えん」
御三家とは、代々龍月組で輝かしい成績を残している三つの名家の総称だ。伊織の父はそのうちの一つ、獅子崎家の当主であった。また、獅子崎家はもとは火国の家系であるため、火国で発達している武術を得意とし、その実力を龍月組でも代々発揮している一族であった。
にも関わらず、未だに伊織は刀を使って戦う刀術か、丸腰で戦う体術しか会得していなかった。そこを氷櫂に指摘されたのだという。
「それに引きかえ、氷櫂さまのご子息、秀水さまは、お前より4歳も年下なのに、すでに三大術式の基礎は使いこなせる上、青面には値する実力の持ち主であられる。秀水さまの方が、よっぽど美桜さまに相応しい」
青面とは、龍月組の階級のうちの一つだ。龍月組の者は常に狐面で素顔を隠しており、その面の模様は階級に応じた色で描かれる。その色が階級の名前になっていた。ちなみに、青面は上から二番目、組内に百人もいない幹部である。
「…実力不足は重々承知しております。ですがなぜ急に…!」
「もう決まったことだ。大声を出すでない」
彼は納得がいかなかった。婚約が決まってからの五年ほどを、彼は美桜との将来のためだけに費やしてきたと言うのに。これ以上頑張っても、もう彼女とは結ばれない運命にあると言うのだ。
「少し考えればわかるだろう。大人の事情というものだ」
父は、容赦無く曖昧な言葉でその話を打ち切った。伊織はただ床を睨むことしかできなかった。この婚約は父にとっても利益のあるものであったのだから、父だって納得いっていないはずだ。そう分かっていても、彼は父を恨んでしまった。
「…承知いたしました。ですが、一つお願いがございます」
諦めたように承諾した伊織は、真っ直ぐに父の目をとらえた。
「美桜さまに文を贈らせてくださいませ。苦しんでいるであろう彼女に、最後に寄り添いたいのです」
「…いいだろう。それくらいはなんとかしてやる」
意外にも、父はあっさりと承諾した。それが、絶望に満ちていた伊織の目に、少しの光を宿した。
「ありがとうございます。では、失礼いたします」
深々とお辞儀をし、丁寧に扉を閉めて父の部屋を出た彼の顔は、怒りと恨みに満ちていた。
「絶対に龍月組に入隊して、美桜を取り返す…!」
彼の低い声で発せられたその決意は、孤独な廊下の影にふと落ちた。
◆◇◆◇◆
「皇后って…どうして私なんかが!」
氷櫂からの言葉を受け止めきれずにいた美桜は、思わず声を荒げた。彼は冷酷な目で少女を見下ろし、手の焼ける子供の世話でも見るかのように嘲笑った。
「どうしてもなにもない。そなたは巫女でありながら龍神さまと契約を結んだ異例の皇女だ。そんな才能のある者は、国母に相応しいだろう?」
「っ…ですが、私には…」
彼女はどうしても、諦められなかった。伊織と初めて会った時に言われた、『貴女を一番側で守り抜きます』という言葉が、頭から離れなかったからだ。
その言葉を守るためか、彼は何度も龍月組の入隊試験に挑み、何度落ちても果敢に挑戦してくれていると聞いていた。
手紙のやり取りで、もう諦めて良いと伝えたこともあったのだが、彼は『貴女に相応しい夫になる』と言って聞かなかった。そこもまた愛らしいと思い、押し付けられた婚約に本気になれる方となら、幸せになれるかもしれないなんて淡い期待を抱いていたというのに。
「安心しろ、伊織どのもすぐに快諾したそうだ」
叔父の言葉に、美桜は思わず顔を上げた。氷櫂は、目が合うと驚いたような顔をしていた。『期待していたのか?』とでもいいたげな顔に、美桜はまた俯く。
「そなたももう十三になるだろう?少しは大人になって、兄上を___そなたのお父様を安心させてやってはどうだ?」
「っ…!!」
彼の言葉を聞いた途端、美桜はその男をキッと睨んだ。その顔が気に食わなかったのか、氷櫂は深いため息と共に、小さな恨み言を吐く。
「…睨んだ顔まで、うざったい兄上と瓜二つだな」
小さな声を、地獄耳の美桜は聞き逃さなかった。
「そのうざったい兄の娘を、大事なご子息に嫁がせてよいのですか?」
彼はまたも驚いたような目で彼女を見た。自身の顎を少し撫で、ニヤリと笑った彼は、なぜか満足そうに頷いた。
「己の立場も実力もわかっていない小娘にしては、かなりの大口を叩くものだ。気に入った」
愉快そうに微笑んだ彼は、『少し現実を教えてやろう』と屈み、その目線を美桜に合わせた。
「皇族である夫を亡くしたお前の母親は、男児の一人も産んでいないんだ。龍月組に入隊しているわけでもなければ、傑出した才能もない。いわばお荷物だ。僕は元から皇族で、今の段階では皇位継承権第一位なんだけど?」
「っ…!」
途端、美桜は唇を噛んだ。この男は、婚約と母を天秤にかけろというのだ。いくら睨んでも、この男の勝ち誇ったような顔は崩れない。もう、他に道は残されていなかった。
「…承知いたしました」
「うん、賢い判断だ。さすが兄さんの子供だね」
自身が望む返答をした途端、手のひらを返した彼はにっこりと微笑んだ。
「じゃあ、僕はこれで。正式な婚約は明後日だから、準備しておいてね」
上機嫌な叔父は、ひらひらと手を振り、さっさと部屋を出ていった。まるで、すべて計画通りにうまくいっているかのように。
だんだんと、目の前が暗くなっていくように感じた。何も考えられなくなり、意識が遠のいていく。
「美桜さま…?美桜さま!」
月明かりに照らされた彼女の部屋には、ただ侍女たちの叫び声だけが響き続けた。