まだ、終わってない
真夏の太陽が照りつける午後、屋外プールには甲高い笑い声と水音が飛び交っていた。
市民プールとはいえ、リゾートのような雰囲気が売りらしく、若者で賑わっている。
拓人はその日、大学の友人に誘われて来ていた。
とはいえ、皆は先に帰り、残っているのは彼ひとり。
「最後にもう一回泳ごう」と軽い気持ちで一人、プールに戻ったのだった。
日が傾き始め、観客席もだいぶ空いていた。
水着のままベンチに腰を下ろし、ぼんやりとプールサイドを眺めていると、不意に誰かが隣に座った。
若い女だった。
白いビキニ。肩までの黒髪。浅く笑っている口元。
「ひとり? 友達、帰っちゃったの?」
唐突な声がけに、拓人は一瞬戸惑ったが、すぐに軽く頷いた。
「うん。君も?」
女は返事をせず、視線をまっすぐ水面へ向けた。
その横顔が妙に静かで、まるで水に沈んだ人形のようだった。
目は笑っていない。
「泳げる?」
「……ああ、まあ一応は」
「じゃあ、私と勝負しよ?」
拓人は軽く笑った。ナンパか、イタズラか、あるいは人懐っこいだけか。
どちらにせよ、断る理由はなかった。
彼は立ち上がり、彼女とともにプールの深い側へと歩いていった。
太陽が傾き、監視員の数も減っている。
プールの端のほうには人影も少ない。
水は青く、静かだった。
「せーの、で潜って、長く潜れたほうが勝ちね」
女がルールを告げた。
拓人は頷き、深呼吸を一つ。
そのまま、二人は水中へと沈んだ。
水の中は静かだった。
揺らめく光と、自分の鼓動。
耳の奥で泡の音がくすぐる。
息が持たなくなる前に、水面へ上がろうとした——そのとき。
腕を掴まれた。
女だった。
彼女は、水中で目を見開いていた。笑っていた。
でもその笑みは、異様に歪んでいた。
力が強い。異常だ。
拓人は暴れようとしたが、女は脚でも絡みつき、彼を水底へ押し込んでいく。
苦しい。
肺が爆発しそうだ。
水面は遠ざかっていく。
——助けを求めて、水上に手を伸ばした。
しかし女は口を開いた。
泡が弾けるその中で、はっきりと、こう言った。
「まだ、終わってないよね?」
——視界が暗転した。
*
気がつくと、拓人はプールサイドに寝かされていた。
人だかりができていて、誰かが人工呼吸をしていた痕跡がある。
救急隊員の声がする。
「もう少しでアウトだったな」
「こんな時間に、深い方に一人で入るなんてな」
拓人はかすれた声で訊いた。
「……あの女は? 一緒にいた、白いビキニの子……」
周囲はざわめき、数人の大人が顔を見合わせた。
「一人で溺れてたんだろ? 女の子なんていなかったって」
「たぶん、夢見たんじゃないか?」
「過呼吸だったしな……」
だが拓人は確かに、彼女と潜った。彼女に沈められた。
手の甲には、爪で引っかかれた赤い跡が残っている。
**
数日後、彼は再びプールを訪れた。
答えを知りたかった。
職員に食い下がって訊ねた。
「先週、この辺りで……白い水着の女の人が……」
老年の職員が、ふと表情を曇らせた。
「……白いビキニ? それなら……ずっと昔に、ひとり、いたな」
拓人の背筋が粟立った。
「十年前だったか、カップルがここに来ててな。彼氏が冗談で、水中で長く潜れる勝負しようって言って……女の子が深いとこで溺れた」
「彼氏が助けたんですか?」
「いや。逃げたよ。女がもがいてるの見て、怖くなって。そのまま置いて帰った」
「……その後、女の人は?」
「亡くなったさ。心肺停止で。白いビキニだった」
拓人は震えた。
心の奥底に、自分のやった行為が重なったからではない。
ただ、あの目を、もう一度見た気がしたからだ。
職員は続けた。
「それから、毎年、誰かが“水中で女に掴まれた”って言うんだ。誰も本気にしないがな。お前が見たのも、たぶん——」
そのとき、プールの奥で、誰かが悲鳴を上げた。
男の子が水面に浮かびながら、泣き叫んでいる。
「なんか掴んでくる! 女が、笑ってる!」
職員が走っていく。
拓人は、ただそれを見つめていた。