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挿話②:灰の村と白き牙

その夜、すべてを失い、ひとつの疑問だけが心の奥に残った

 彼はただ、死にゆく存在であった。弱く、ただ奪われるだけの存在であった。

 

 ──そう、あの夜までは。


 地の底から唸るような咆哮が響いた。

 それは獣ではなく、人の声だった。欲望に染まり、剥き出しの暴力へと変じた叫び。幼い彼の耳に、その声は雷鳴よりも恐ろしく、火よりも熱かった。


 小さな村が燃えていた。

 木造の家々は火に呑まれ、夜の帳を赤く染め上げていた。焦げた煙と油の匂いが鼻を突き、悲鳴と怒声が混じり合って空へ昇っていく。

 

 彼は、祖母と呼んでいた老女の腕に抱えられ、闇の中を走っていた。

 足元には、獣道。木の根が飛び出し、湿った落ち葉が滑る。だがその人──彼の祖母は、一度も転ぶことなく、彼を抱いて走った。


 「フェルを、呼びなさい」


 その声は、震えていた。

 だが、確かだった。


 彼は、意識の奥に沈んでいた記憶を引き出すように、喉の奥から名を呼んだ。


 「……フェル……!」


 それは、彼がまだ言葉を覚えはじめた頃、森で出会った白い子狼の名だった。


 ──それは初夏のある日。陽の光が葉の隙間からこぼれ、森の空気が柔らかく揺れていた午後だった。


 彼は、薪拾いの帰り道に、かすかな鳴き声を聞いた。

 それは風の音に紛れるほど弱く、震えるように細かった。耳をすませ、草をかき分けたその先に、小さな白い塊が倒れていた。


 子狼だった。

 足をくくる罠の鎖が、骨まで喰い込んでいた。目は閉じられ、呼吸もかすかにしか感じられなかった。


 「……だいじょうぶ?」


 恐る恐る手を差し伸べた。

 子狼は微かに身じろぎしたが、逃げようとしなかった。ただ、震えていた。


 彼はその罠を慎重に外し、布を裂いて傷に巻いた。

 血が染み、手が汚れた。怖かった。でも、それ以上に「このままでは死んでしまう」と思った。


 それから彼は、毎日こっそり森に通った。

 家族にも村人にも言えなかった。狼は“災いの兆し”とされていたから。

 それでも彼は、湯でほぐした干し肉を運び、湧き水を器に汲み、草の寝床を整えた。


 「フェル。きょうも、だいじょうぶだった?」


 声に出すたび、子狼の耳がぴくりと動いた。

 それが嬉しくて、彼は名前をつけた──フェル。白くて、冷たい風のような音を持つ名。


 そうして一月ほどが過ぎたころ、フェルはようやく立ち上がり、彼の手のひらをそっと舐めた。


 その日、彼ははじめて“自分が何かを救えた”気がした。


 ──だが、それは長くは続かなかった。


 ある日、村の狩人が跡を追い、白い子狼の存在が知れると、

 「祟りだ」「殺せ」と言い出す者が現れた。

 彼は泣きながらフェルを森の奥に逃がした。


 「ごめん……でも、生きて……」


 それが最後の言葉だった。


 ──そして、今。あの夜。火の中で、その名を呼んだ。


 その瞬間、夜の闇を裂くように、雪のようなものが駆けた。

 いや、それは白い毛並みをもつ獣──

 フェルだった。


 成長したその姿は、かつての面影とは似ても似つかぬ、威厳と恐ろしさを湛えていた。

 銀の瞳が彼を見つめ、鋭く吠えると、追ってきた野盗の男たちが悲鳴を上げて逃げていく。


 祖母はその場に膝をつき、彼を地に下ろした。

 唇が、震えながらもやさしく笑う。


 「そんなに泣くんじゃない……最後に、そのかわいい顔を見せてごらん。さあ、もう──いきなさい。強く、生きるんだよ……アル」


 その名は、遠い昔、彼がほんの小さな子どもだった頃、ただ一人だけが呼んでいた名だった。


 火の音も、風の音も消えたかのようだった。


 「……母さん?」


 そう問いかけた瞬間、彼の胸に浮かんだのは、かすれた記憶の断片だけだった。


 ──気のせいかもしれない。今はまだ、確信は持てない。


 その夜、炎に包まれた村の中で、ひとつの命が静かに散った。

 だが、もうひとつの命は、白き牙に守られ、生き延びた。


 ──それが、彼の“はじまり”だった。


 数日後。

 彼は、森の奥深くで目覚めた。

 フェルが傍らにいた。焚き火の近くで、白い体を丸めていた。


 「……フェル」


 小さく呼ぶと、蒼銀の瞳が開かれる。

 だが、次の瞬間、彼の中に流れ込むような言葉があった。


 「ようやく、目覚めたか」


 それは、口から発せられたものではなかった。

 けれど、確かに“意味”として伝わってきた。彼の心の奥に、誰かが語りかけるような響き。


 フェルは言葉をもっていた。あるいは、それに近い何か。


 そしてその夜、フェルは語った。


 「おまえは、我らの血を継ぐ者。だが、混ざりし者でもある」

 「約束の地での加護を失えば、おまえの命は限りあるものとなる」

 「母は、おまえを守るために全てを捨てた。名も、時間も、そして……最も大切なものの記憶すらも」


 その言葉を聞いても、彼の表情は変わらなかった。

 心のどこかが軋んでいたが、母という単語が、自分と繋がるとはまだ思えなかった。


 ──“祖母”だったはずのあの人に、そんな面影はなかった。

 そう思い込もうとする自分がいることにも、彼は気づかないふりをした。


 「……全部、忘れてしまったってことか」


 そうつぶやいた声は、微かに揺れていた。


 だが、心の奥で、なにかが静かに芽吹いた気がした。


 それは怒りでも、悲しみでもなかった。


 ──それは、誓いだった。

白い牙に守られ、炎の夜を越えた少年。だがまだ、彼はその名の意味も、遺された想いも知らない。次章は、『霧の森と封じられた記憶』へとつづきます。どうぞお楽しみに。

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