挿話①:銀のフォークと縮み上がる大剣
老騎士がその宿を訪れたのは、王都へ戻る旅路のちょうど中ほどだった。
山道を一日歩き詰め、陽が西へ傾いた頃、街道沿いにひっそりと佇む小さな宿の看板が目に入った。
屋根の苔は深く、古びた木の扉には修繕の跡がいくつもあったが、戸口から洩れる温かな灯りが、旅人を迎える気配に満ちていた。
宿の食堂は、木製のテーブルと椅子が並び、奥では鍋がことことと音を立てていた。
「いらっしゃいませ」と声をかけてきたのは、赤毛を三つ編みにした少女だった。
「あなた、ずいぶん歩いてきたのね。靴、泥だらけ。……でも、…まあいいわ、好きな場所に座って待ってて、あったかい物すぐ持ってくるね。」
<きれいな目の人、でも、とてもさみしそうな目をしてる…>
名前を聞けば、コレットというらしい。
まだ十二、三か。にこにことよく笑うが、動きには無駄がなく、食器を並べる手際は大人顔負けだった。
席に案内され、ぬるめのスープを啜る。ふう、と息を吐くと、遠い昔の記憶が湯気とともに蘇った。
かつて彼が仕えていた城でも、夕食はこんなスープの匂いがしていた。
王女が厨房に忍んできて、こっそり味見しては料理人に叱られていたこと——
あの笑い声は、もう戻ってこない。
ふと、扉が乱暴に開いた。
「よう、おっかあ。今日も元気にやってんじゃねえか!」
入ってきたのは、粗末な革鎧を纏った男たちが四、五人。
肩をいからせ、口々に下卑た笑いを漏らしながら、土足で奥へと踏み込んできた。
一番若い男がコレットを見つけ、口笛を吹いた。
「おやおや、こんな可愛いのが働いてるとはな。おっかあ、この子、俺たちに貸してくれよ」
「やめてください!」コレットが椅子の陰に身を隠す。
女将は表情をこわばらせながら前に出た。
「お願いだから、帰ってくれないかね。今日は他のお客もいるんだよ」
「客ぁ? こいつのことか?」
そう言って、老騎士の方を顎でしゃくる男。
その瞬間、彼はスプーンを静かに置き、ゆっくりと顔を上げた。
誰もが、その目の色を見て一瞬だけ言葉を失った。
「……下がっていなさい、コレット」
その一言に、少女は思わず頷いた。
老騎士は手近にあった銀のフォークをひとつ取り、席を立つ。
「なんだぁジジイ、黙ってみてりゃもう少し長生きできたろうに、そんなしょぼくれた身体で、何ができると思ってんだ、そんなフォーク一本で俺たちの邪魔をしようってえのか?」
男のひとりが近づきかけた、その瞬間——
風が鳴った。
フォークがひらりと舞ったが刹那、空気を裂く鋭い音とともに、男の腰のベルトが真っ二つになった。
ズボンがズルリと落ち、足に引っかかり、男は情けない声を上げながら顔面を地面に打ちつけた。
「な、なにしやがるっ……!」
フォークはすでに老騎士の手に戻っていた。
手首すら動かしたようには見えない。だが、全員がその一瞬を見た。
「……今のは“警告”だ。もう一歩、こちらに踏み出せば……“次”は止めはせんぞ」
老騎士は静かに、しかし確かな口調で言い放った。
「おまえたちは、まだ命を捨てるほどの覚悟もなければ、腕も足りぬ。去れ、若い命を無駄にするでない」
無頼漢たちは顔を見合わせ、やがて吐き捨てるように「覚えてろよ!」と叫び、宿を飛び出していった。
しばし、静寂。
女将がぺこりと頭を下げた。
「イヤ〜助かったよ。ありがとう。あの連中、近頃ずっとこの辺を荒らしててね……。でもあんた、ただ者じゃないね」
「いいや、ワシはただの旅の者だ」と騎士は答え、椅子に座り直す。
「食事は温かいうちにいただくものだ。作ってくれた人に感謝をしながらな…」
コレットはというと、目を丸くしたまま老騎士を見つめていた。
「……あの、すごかったです。フォーク一本で、あんな……! もしかして、すごい剣士だったとか?」
彼は答えず、ただ少し憂いのある目を細め、笑ってスープをまた口にした。
そして数日後。
その宿に、あの無頼漢たちの親分が雇ってきたという用心棒がやってきた。
肩幅の広い男で、背中には大太刀。客の前でも平気でその柄に手をかけているような輩だった。
「話は聞いてるぜ。年寄りとは思えねえってな。だが、今度はそうはいかねえ」
男が挑発的に言うと、老騎士は無言でのそりと立ち上がり、店の裏に広がる空き地へと歩き出す。
そして、一本の木の棒を拾い上げた。
「……これで十分でしょう」
そう言って構えた姿は、もはや老いを感じさせなかった。
一歩前に踏み出し、静かに剣を振る。
ただ、それだけだった。
その一振りは、空気を切り裂き、草を揺らし、用心棒の喉元で止まった「気配」だけを残した。
用心棒は、剣に手をかけたまま、まるで体が凍りついたように動けなくなった。
「……な、なんだ今の……」
そのまま膝から崩れ落ちた男を見て、老騎士は黙って背を向ける。
それが彼なりの“慈悲”だった。
この日を境に、その宿には誰も喧嘩を売りに来ることはなくなった。
やがて、旅立ちの朝。
老騎士は再び剣を背にし、街道へと戻っていった。
「また、来てくれる……?」と聞いたコレットに、彼は憂いのある目を細めながら、ほんの少しだけ微笑んだ。
「花が咲く頃になったら、な」
そして彼の背中は、朝の光の中にゆっくりと消えていった。