プロローグ:風は、あの丘の上に
この物語は、ある老いた騎士の人生の終章に捧げられた静かな回想です。
戦いの中で名を上げることもなく、英雄と呼ばれることもなく、
ただひとりの姫への想いを胸に、彼は時を越えて生きてきました。
叶わなかった恋。
告げられなかった言葉。
過ぎてしまった時間。
けれどそのすべては、決して無意味ではなかったと信じたい。
その想いが、王女の眠る丘に、今も風のように残っているとしたら——
どうか、ひとときだけ彼の静かな歩みを辿っていただけたら幸いです。
その丘には、いつも風が吹いていた。
季節に関わらず、柔らかく、どこか哀しげな風だった。
老いた騎士は、石畳の階段を一歩一歩踏みしめながら、静かに登っていく。
重い足取りは、かつて幾度となく戦場を駆けた男のものとは思えないほど緩やかだったが、不思議と迷いはなかった。
丘の頂には、小さな白い廟がある。
その中には、ひとりの王女が眠っている。
この国がまだ「王国」と呼ばれていた頃、庭に花を咲かせ、楽士に微笑み、民に親しまれた姫。
名はアイリ。
老騎士の名は――もう、誰も覚えていない。
彼自身、名乗ることをやめて久しい。
ただ一度も口にしなかったその想いと共に、彼は長い時を、静かに過ごしていた。
騎士が初めてこの丘に戻ってきたのは、十数年前のことだった。
旅の果てに届いた報せ――
「アイリ王女、崩御」
その知らせが届いた時、彼は誰にも何も告げず、ただ故国への道を引き返した。
王女のいない国に、かつて仕えていた者が何をするというのか。
それでも、彼は帰ってきた。
それ以降、彼はこの丘の近くにひっそりと小屋を建て、花を絶やすことなく、墓を守り続けている。
人々は言った。
「亡き王女のためにパヴァーヌを捧げ続ける、ひとりの騎士の話」と。
けれど、彼が捧げていたのは、音楽ではなかった。
それは沈黙であり、祈りであり、名もないままに抱き続けた、たったひとつの恋だった。
今日もまた、風が吹く。
あの日のように、白い花びらをさらいながら。
老騎士が再び国へ戻るという、その一歩は、彼にとって“過去と向き合う決意”でした。
それは剣を抜くよりもずっと勇気のいることで、同時にとても静かな選択でもあります。
彼は名を残さず、声を張ることもなく、それでも王女を想い続けました。
その姿が、報われるものではなかったとしても。
けれど、だからこそ——
彼の沈黙の中には、何より強く深い「愛」があるように思います。
次章では、若き日の彼と王女の出会い、そして言葉にされることのなかった“想い”が少しずつ綴られていきます。
どうか、物語の中に吹く風に、耳を澄ませていただけたら嬉しいです。