File No.8
志々目花音は自称普通の女子高生だ。確かにこれまでの彼女の人生を振り返ってみると、決して特別な何かがあったわけではない。だからこそ、彼女は自身の特異性についての自覚がない。
何せ歌に天性のものを持っていても、これまで彼女がそれを披露するのはカラオケしかなかったのだから。
花音がステージに立つ。いや、ステージではなく、ただの交差点の角だが。きっとそこにできていた小さな人だかりの意識の中心に花音がいるから、そう錯覚させるのだろうか。
「はい、これ。言って何だけど、本当にやるの?」
花音のためのスペースを空けるために人一人分隣に移動した氷上が、未だ困惑した様子で、マイクを差し出す。
『準備がいいな。アンプもあるじゃないか』
「別に、たまに弾き語りもするから持ってきてるだけ。それより、あんたは恋人の心配でもしてれば?」
花音は流石に緊張しているのか、マイクを受け取った後は視線を僅かに伏せて、表情を強張らせている。今話しかけたところで、上の空な返事しか期待できないだろう。
『僕はあいつの恋人じゃないって。それに、心配する必要もないだろ』
「…どういうこと?」
『始まれば分かる』
深琴には確信があった。花音が歌い出せば、きっと今のあらゆる状況がひっくり返る。それだけのポテンシャルがあることを、深琴はこれまで散々思い知らされてきたのだ。
しかもこの舞台は花音にとって遊び《カラオケ》じゃなくて本番。そう考えると、今あの場所に立っている花音は、幼馴染の深琴ですら初めて見る。
氷上は深琴の含みある台詞に砂を噛むような表情で鼻を鳴らすと、歌う準備を整えた花音の方へと顔を向ける。
「…それで、何を歌うの?」
「それじゃ、さっきの曲で」
さっきの曲というのは、氷上が弾いていたあの曲のことだろうか。深琴の脳裏が叫ぶようなアコースティックギターの響きで揺れる。おそらくオリジナルの曲だと思ったが——
『あぁそうか。バンドの曲か…』
そこまで考えて、深琴は自分の閃きに納得する。氷上がかつて所属していたバンド、ノイズフレーバーの楽曲だったのだ。彼女のバンドは動画配信なども行っていたから、花音はそれを過去に見ていて、あの曲を知っていたということだ。
「あの曲は、ノイズフレーバーの最初の曲だったよね。氷上さんが作ったの?」
「…まぁ。いや、私たちで作った曲だ」
「そっか。なら、氷上さんだけの分じゃなくて、ノイズフレーバーの皆さんの分まで、大切に歌うね」
花音は花が咲くような微笑みを響かせて、静かに瞼を閉じた。
全ての準備が整ったという合図だ。
氷上もそれ以上言葉は紡がない。あとは全て音楽で決着をつけると、彼女もまた息を長く吐きながら、自分のギターに意識を集中させる。
人混みの喧騒が遠くなっていくような錯覚の後、花音がマイクの前で息を吸った。
空気が変わる——そしてその口が開き、最初の音が響いた瞬間、全身に電流が駆け巡るような覚醒を感じた。
最初はウィスパー気味の出だしだ。しかしその芯はクリアで、聴衆の頭上を抜けてどこまでも伸びていく。少し低めの、中性的な声質。アコースティックギターの繊細で澄んだ音を、力強く支えると共に、メロディを際立たせ、聴衆の心に刻んでいく。
氷上の顔には驚きが張り付けられていた。しかしすぐに演奏に没頭し、花音の歌に合わせてギアを上げていく。
まるで個性のぶつかり合いだ。
それぞれの個性が衝突して、混ざり合っていく。歌は出会いを語り、演奏は別れを叫んでいる。出会いの喜びと、別れの悲しみ——本来真逆であるべきその二つが、同時に美しく成り立つ矛盾。
違う。出会いと別れは一本の線で繋がっていて、表と裏なのだ。
情景が浮かぶ。この音の一つ一つを繋げていくための研鑽とぶつかり合いの日々が。放課後の教室で、手書きの譜面を囲い、口ずさんだメロディに乗せて、誰かが歌っている。
音楽というのは必然性の連続だ。込められた情景を明確にするためには、在るべき音を次の在るべき音に繋げていかなければならない。
そんな曲を正しく創り上げていくのはもちろん、再現することだってとても困難だ。たとえばクラシックのコンサートはその再現性を競っているといっていい。
そういう意味では花音の情景を叩き込んでくるようなこの歌は、氷上たちのバンドが作り上げた世界を完璧に近い形で表現できている。それでいて花音の歌は自分を見失っていない。それどころか、最初に花音が歌という筆で描写した氷上たちの情景を超えて、新しいイメージが拡張されていく。
羨望、あるいは憧憬——これはきっと花音が持つ澄んだ欲望。水面に映る輝く世界を、外側から見つめている、そんなイメージが音を通じて伝播する。
完成された世界。そこに行きたい、その情景の一部になりたい。そんな憧れに手を伸ばす。触れてしまえば、水面は波紋してしまうのに、止めたくないという花音の心が氷上のギターの音色に溶け込んでいくのが分かる。
やがて曲は終わりへと近づいていく。しかし花音と氷上の音は弱まらない。それどころか、ますます一体感と高揚感が強まっていく。
もしかするとこのまま夜が明けるまで、続くんじゃないかと思うほど。いや、続いて欲しいと思っているのだろうか。
音がどこまでも伸びて、響いて、そして届いた人たちの心に余韻という雫を落としていきながら、やがて音の響きが消えていく。
演奏は終わった。それなのに周囲の人たちの意識は、花音と氷上から離れることはなかった。
2人の息遣いが、喧騒の中で浮いて聴こえてくるような気がした。
深琴の胸は、まだ強く鼓動している。
◇====◇ ====◇ ====◇ ====◇
『ただいま』
帰宅して、深琴は呟くように言った。そして言ってから、既に20時を回っていることに気が付く。
深琴の両親が共働きであり、父は出張が多く、母は夜勤が多い。そして今日は母が夜勤であり、この時間は既に出勤した後だ。
つまり家には今誰もいない。今日花音のカラオケに付き合う前に母親からメールで伝えられていたが、すっかり忘れていた。
コンビニで何か食べ物を買うつもりだったのだのに。帰り道、ずっと頭の中で氷上のギターと花音の歌声が流れていたせいだ。
『まぁ、いいか。食欲もないし…』
深琴は一度玄関の扉の方を振り返って、何か食べ物を買いに行こうかとも思ったがやっぱりやめて、さっさと自分の部屋へと向かった。
自室に入り、明かりを点ける。そのタイミングでポケットのスマホが振動した。
帰り道では深琴1人の時でも大人しくしてくれていたようだが、部屋に入った途端に思い出させるような存在の主張。せっかく部屋でリラックスできると思っていたのに…
今ここで無視したとしても、あのAIは部屋にある電子デバイス全てにアクセスできる。そう考えると、今無視することで後から騒がしくされる方が面倒臭いか。
そう結論を出した深琴は、辟易としたため息を吐いた後にポケットからスマホを取り出した。
「オレもマスターの特別になりたい!マスターの1番近くで、マスターの役に立ちたいのです。あの小娘のように!」
案の定、取り出した瞬間、スマホの画面いっぱいに命の顔が映し出されていた。その勢いに、予想できていたというのに、思わずのけ反ってしまう。にしても小娘って…それが花音のことを指していることは明白だが。
『…別に花音は特別でもなんでもない。ただの幼馴染だ』
スマホとの距離を離しつつ、命の言葉の意味を咀嚼した末、呆れたように今朝と同じことを言い聞かせる。
その流れのまま、深琴はPCを立ち上げる。
『それにしてもAIなのに、あの2人の音楽にあてられるなんてな』
命の場合、2人というよりは花音に対して、だと思うが。確かに深琴は花音の歌が尋常ではないことを認めている。
ただそれだけを特別だと感じ、人間の音楽に影響されて、こんな告白にまで至る。もう何度も思ったことだが、AIという存在にそこまでの感受性を持たせることには驚嘆と疑念しかない。
本当に何の意味があるのだろう?
深琴の脳裏には稚拙な憶測だけが流れ、その思考の間に何を思ったのか、命が慌てながら画面を突き破る勢いでさらに張り付いた。
「——もちろんオレにとっての一番はマスターの音楽です! 」
『…念の為に言っておくけど、別に自分よりも花音の方が評価されていじけていたわけじゃないからな?』
命のまるで失言を力強く言い正すような雰囲気に、何か大きなすれ違いを感じて、ややこしくなる前に呆れ半分のため息を吐きながら言い返した。
すると命は安堵した顔つきで、張り付けた顔を離す。
「ただオレは…いや、きっとマスターだって、あの2人が出会って、何かとてつもない可能性が生まれたことを感じたはずなのです。マスターに仕えるAIとしてオレはそれを、羨ましく思ってしまいました。オレもマスターにとっての新しい可能性になりたいのです!」
命、というよりAIとしての懸命な訴えだった。それがどれほど重大なことかは人間の深琴には分からない。ただそれでも彼女が必死で、そう在りたいと切実に思っていることだけは伝わった。
昨日は複雑な心情で揺れ動いていたのに、あの2人の音楽がすっかり命に使命の方向性みたいなものを定めさせてしまったらしい。
ただ、それを受け入れて、背負うことが自分に果たしてできるのか。そう自問した上で、深琴が出せる答えは——
『そもそも僕はお前が仕えるマスターにすらなった自覚はないけど、その…役に立ってないこともないだろ』
実際、何かを検索するのに楽だし、壁打ちする気持ちで話もできるから、気分転換になるといえばなる、かもしれない。相変わらず新しい曲の譜面には、音が1つとして追加されてはいないが。
「もっと、はっきりとマスターの役に立ちたいのです!」
『はっきりとって…たとえば?』
「オレがマスターにとっての可能性になるには、マスターの聖域に踏み入れるしかないのです。だから畏れ多いことは承知の上で、伏してお願いますっ オレを、マスターの音楽に使ってほしい!」
命の、大きな幾何学模様が刻まれた瞳が、禁忌と使命の間で揺れていた。
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