File No.7
家だと近所迷惑になるだろうから全力で演奏することはできないだろうし、かといってスタジオを借りるにはお金がかかる。
そのどちらのデメリットを消し、メリットだけ取る方法として、路上で演奏するという選択は腑に落ちるものだった。
「あれ、氷上さんだよね?」
『まぁそう見えるな』
というか明らかに氷上伊織当人だ。歌はなく、アコースティクギターでメロディをひたすら弾いている。
どれくらい彼女はあそこで弾き続けているのだろう。かなり汗をかいているし、その表情もどこか苦しそうで、擦り切れている。
「すごい迫力…でもすごく苦しそう」
花音も同じ感想を抱いたようだ。まさに鬼気迫る演奏。しかしただ力任せに弾いているわけじゃない。弾いている姿は荒々しいのに、アコースティクギターから響く音はとても澄んでいる。だからこんな喧騒の中でも、一際輝いてどこまでも遠くへと届いているのだろう。
最初は単なるストレス解消か何かだと思っていた。氷上は幼い頃からずっとギターをいていたという。その境遇だけは、小さい頃から音楽を創り続けていた深琴とも似ている部分がある。
だから深琴はもし自分が音楽を辞めてしまったらと考える。退屈で、鬱憤だけが溜まっていく日々。でもそれを解消する手立てを深琴は一つしか知らない。
氷上もそうだったのではないだろうか。だから辞めた後も、ギターを弾くしかない。そう思っていたのだが、実際に彼女のギターの音を聴いていると、単なる鬱憤ばらしとも違う気がする。
その音はまるでここにはいない誰かに、何かを訴えかけているようだ。
『…あれ、花音?』
少し氷上の奏でる音色にあてられてぼーっとしているうちに、いつの間にか側にいたはずの花音の姿が消えていた。
視線を戻し、そこで花音が氷上のすぐ前まで近づいて、彼女のギターを聴いている姿を見つける。
今日一日ずっと気まずかったというのに、ここでまた氷上に見つかれば、さらに気まずくなるのではないだろうか。
呆れながらも、深琴も奏で叫ぶ氷上の近くに歩いていく。
氷上はずっと俯きながらギターを演奏しているから、深琴にも花音にも気がついていない。指板を見ながら弾いているわけではなく、ギターを弾くための力以外を排除しているという感じだ。
まるでギターに憑依して、ギターが彼女の体を動かしているみたいだ。
銀色の鋭い音色の波に呑まれそうになる。聴いたことのないメロディ——オリジナルだろうか。
深琴は隣の花音に視線を向ける。先ほどまで氷上の叫ぶようなギターに心配そうな表情をしていたが、今は夢中になって瞬きすらせずに演奏を凝視していた。
その頬は僅かに紅潮していて、見るからに高揚していることがわかる。
なんとなく今日の朝、2人が出会った時の似た空気を感じた。
氷上の音色の雰囲気が変わる。曲が佳境に入って、演奏のギアがさらに上がったのだ。
「…すごい」
花音が思わずといった感じで、そう言葉を漏らす。確かにまるで世界そのものを壊したい、みたいな感情を爆発させているようで、凄みがある。
人による演奏、感情を表現するギター、つまり生きている音楽。
まさに深琴がずっと距離を置いてきたものだ。まるで鮮烈な色彩を宿す突風のように過ぎて、美しい余韻だけを残していく——この瞬間だけにしかない、夢想の音楽。
深琴はそれを美しいと思わないわけではない。むしろ、今も氷上の演奏を聴いて心が揺さぶられているくらいだ。
特別な存在が、特別な瞬間を切り取って創造されたこのメロディーは、きっと鉛から金を生み出すよりも奇跡的なものなのだ。
ただ深琴の中に、今も流れ続けている理想の音楽は、心によって生まれるものでも、奇跡によって導かれるものでもない。
瞬間ではなく永劫的で、等しく降り注がれる摂理的なもの——それこそ深琴が求めている音楽なのだ。
だから氷上の演奏に、唯一の美しさを感じる一方でこうも思ってしまう。
やっぱりこれではないのだ、と。
氷上の演奏に終わりの気配を感じた。まだまだ言い足りないと訴える一方で、曲は終わりを明確にしていく。
そして最後の音が切なく響いた直後、一瞬その場が静寂に包まれたような気がした。この場所が人の喧騒に塗りつぶされた場所という認識が、演奏の余韻によって上書きされたのだ。
余韻が心の中に沁みていくにつれて、外界の音が戻ってきて、次の瞬きと呼吸の後にはすっかり人通りの多い交差点へと帰ってきていた。
「——氷上さん、今のすごい演奏だった!」
「…なんであんたがこんなところにいるのよ」
深琴が現実に戻ってきた頃には、既に花音と氷上は至近距離でばっちり顔を合わせ、花音の感激に任せた言葉に、氷上が少し息を切らしながら、苛立ちを含めた返事をしている場面だった。
一瞬氷上の顔が深琴の方に向く。実際にはしていないが、心の中で放たれた舌打ちの音が聴こえた気がした。
「やっぱり、辞めてなかったんだね」
「別に、こんなのはただの暇つぶしと、ストレス解消よ」
何故か目を潤ませている花音から、氷上はツンと視線を逸らした。
「…私にはそうは聴こえなかったよ。苦しそうに叫んでいるみたいで、でもどこまでも響かせて、誰かに思いを届けようとしているみたいな」
花音は自分の胸の前を押さえるように手を組みながら言った。
氷上は目を見開いて、険しい顔つきを作る。
「そんなのはあんたの勝手な思い込み。勝手な勘違いで、私を分かった風に言わないで」
本当にそうだろうか。深琴も、花音と同じ感想を氷上の演奏から抱いた。氷上の演奏はきっと、そういう感情をまっすぐ届ける力があるのだ。
氷上に拒絶された花音は、しかしながらその視線を彼女から外そうとしない。
「氷上さんは本当に音楽を辞めたいの?」
真っ直ぐな問いかけ。てっきりすぐにあしらわれるだろうと深琴は思ったが、意外にも氷上は瞳を僅かに揺らし、たじろいだ。
「何なの、本当に…仮にそうだったとしても、あんたには関係ないでしょ。まさかそんな言葉で私が折れて、あんたと一緒に音楽をやるとか思ってるワケ?」
「そういうわけじゃ…ううん、きっとそういう下心はあると思う。でも今はただ、氷上さんと友達になりたいと思ってるの」
氷上の浅い虚勢と言葉の刃に、花音はまるで揺らがない。一方で、あまりにストレートな友達になりたい宣言に氷上は、見るからに感情がグラグラしている。
「わ、私はなりたいとは思わない。大体、バンドのことだって、今更高校生の部活なんて素人集団でやるわけないでしょ」
「それじゃあ、どうしたらなってくれる? 友達にも、バンド仲間にも」
ついに真っ向勝負に出た。思わずツッコミそうになった深琴はすんでのところで言葉を呑み込む。
長年花音とは付き合いがあるから分かる。今の花音は、無敵モード。
それはさながら小さな子供が、わからないことに”なんで”とストレートに攻め込むように、今の花音は相手の事情とか、空気とかを全部無視して、真正面から自分の知りたいことを聞き出すつもりだ。
氷上も面食らっている様子だった。まさか、なるつもりはないと突っぱねた相手に、どうしてなんて聞かれるとは思わなかったのだろう。
だが困惑したのは一瞬。氷上は花音を睨みつけた。どうやら彼女も意地になっているようで、かわすつもりはないらしい。
「…だったら、ここで歌ってみなよ。ここはダラダラ問答する場所じゃないんだから」
氷上は妙案閃いたと確信ある笑みを浮かべながら、花音の背後に視線を向けた。
周囲にはいつの間にか小さな人だかりができていた。深琴や花音と同じように、氷上の演奏に惹かれて足を止めた人たち。
でも氷上が演奏を止め、花音と言い合いを始めたせいか、まばらにその場を離れていっている。もうライブは終わったと判断されたのだろう。
「私が、歌う…? ここで?」
「そう。まさか、人前で歌う気力もないのに、人をバンドに誘っていたわけじゃないよね? 何のパートをするつもりだったのかは知らないけど、人前で歌えるくらいできないと話にならないでしょ」
ここぞといわんばかりに氷上が口撃による挑発が入る——が、よりにもよって花音に歌で挑発してきたのだ。
『選択、間違ったな』
「何? 何か文句でもあるわけ?」
ぼそっと言った深琴に、すかさず睨みを効かせる。深琴は肩をすくめて、それ以上は何も言わなかった。
「…分かった。私、歌うよ」
花音は自分の胸に手を当てながら、覚悟をその瞳に滾らせる。その圧力は、深琴の方に向きかけていた氷上の意識を一瞬で引き戻すほどの何かが宿っていた。
運命が変わる予感——あるいは世界が書き換えられる気配。まるで今この世界が、花音を中心に回っているのではないかと錯覚するほどの何かが。
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