Rec.22
命は普通じゃない。それは常日頃の、まるで人のような反応や、深琴が作曲した曲に対して、ピッタリと嵌まり込む歌詞を生成し、完璧な精度で歌い上げる時点で理解はしていたつもりだった。
でもまだまだ理解しきれていなかった。彼女が本来居るべき場所から、自らの意思で逃亡し、電子の海を自在に渡ってきた存在であることを。
あらゆる境界は、命にとって何の効力も発揮しない。
メッセージアプリに登録した命のアカウントに届いた「たすけて」という水月孤儛からのメッセージ。それが緊急性を要するものであることは容易に判断することができた。
しかも今は水月孤儛のリアルの顔がネット上に晒されている状況で、写野からの話によると、悪意を持ってそれを手引きしている人間もいるという話だ。嫌な想像しかできなかった。
「マスター! オレなら、助けることができます」
一瞬の逡巡に差し込むような命の声。スマホに映るその姿に視線を落とすと、命は電子で作られた左右色の違う瞳が揺らぎなくこちらを見ている。
水月からのメッセージは明らかに緊急性の高いものだ。今から警察に通報したところで、間に合いはしないだろう。第一、場所も分からないのでは、通報しようもない。
もはや今決断に躊躇している時間すら惜しい。
水月孤儛の素顔が晒され、理不尽な悪意を向けられている現状の根底には、深琴とスミスの存在がある。少なくとも彼女に対する悪意を風に乗せて広めるきっかけとなったのは、間違いなく自分達だ。
罪悪感がないわけがない。だからこそ、助けを求める彼女の声にだって、応えたい。それなのに、命に即答できなかったのは、命が動くことでその正体を世間に知られるかもしれないという懸念が頭を過ったからだ。
命という存在は常軌を逸している。多分、単なる妄想とかではなく、世界をひっくり返すこともできるであろう存在だ。ニュースにもならず、秘匿されていたことからも、それは明らかだ。
水月孤儛を今ここで助けることで、命の存在が周知となってしまえば、ずっと匿っていた深琴も、おそらく何かしらの面倒ごとに巻き込まれることになるだろう。
だから、躊躇してしまった。
でも深琴とて、今自分のそんな都合を最優先にすることが間違いであることは分かっている。それにそこまで冷徹にもなれない。口にすべき答えは、命が助けることができると断言した瞬間に決まっていた。
時間がない中、それでもほんの一瞬だけ、覚悟を決める時間が必要だった。
「——やるならとことん、完全完璧に全力で、だ」
「はいっ! お任せください、なのです」
それからはもう、何度驚かされたか分からない。ただこの時の自分が、命という存在についてまだまだ計り損ねていたことを思い知らされた。
命はまず、メッセージアプリを経由して水月のスマホに入り込んだ。そこから大まかに状況を把握し、その後に位置情報を駆使して、水月を襲っている男のスマホをハッキング。男の無線イヤホンの接続を乗っ取り、鼓膜を突き破る勢いの爆音を喰らわせたのだ。
そうして水月が逃げる隙を作り出し、事なきを得た。
水月も命の突然の状況に困惑していたからか、勘繰られることもなかった。
つまりこれにて一件落着——というわけにはいかない。今回はたまたま防げたに過ぎない。水月孤儛の素顔が世に晒され、扇動された悪意の的になっている限り、似たようなことが起こり続ける。
その時々で今回のように巻き込まれては、それこそ命の正体が露見しかねない。
水月孤儛を救い、命の秘密の露出を最小限にするには、問題を根本から解決するしかない。
既に拡散された画像、そして向けられる下世話な悪意を完全に無くすことなんて、とてもすぐにできるとは思えなかった。解決には時間が経過し、世間からの関心が薄れて風化するのを待つしかない、と。
「完全完璧に、そして全力でとマスターに託されたオレに抜かりはないのです」
しかし命は、自信たっぷりに不敵な笑みを見せて言った。そしてたった一晩で、命は本当に文字通り、完全完璧にをやり遂げてみせた。きっと誰にも真似なんてできやしないだろう。
まず、インターネットを通じて、水月孤儛の素顔の写った画像の出所を特定した。具体的な方法は分からないが、とにかく特定のユーザー数名が示し合わせたかのように画像をSNSや掲示板に投稿していたことが判明した。
そこから命は画像の拡散ルートを辿り、ネット上にある画像の全てを、ランダムなAI生成画像に差し替えたのだ。現代のAI生成画像といえば、見る人が見ればすぐにそうだと分かってしまうものだが、命が作った生成画像はあまりにも精巧に作られており、未だ誰も気が付いていない。少なくとも、そんな声はただ一つとして上がっていない。
つまり今、水月孤儛の素顔の画像と差し替えて拡散されている多種多様な画像は、全て実在しない人間の画像だ。
命がしたのはそれだけではない。偽物の画像たちが話題になるようにSNSや掲示板、個人のブログサイトにまで書き込みを行い、ネットユーザーを巧みに扇動した。そして事実は群集心理と先入観によって捻じ曲げられ、三日も経たないうちに関心は薄れて消えた。
どんな高性能であってもただのAIには絶対にできないことだ。人の感情を理解し、それをスミスとして引き出してきた命だからこそ遂行できたのだ。
ちなみに画像を拡散した首謀者の一部は、警察などに既に通報済みだ。今回のことだけではなく、企業の機密情報や個人情報を盗み出したりしていたハッカー集団が関わっていたようで、命は事態を鎮静させる傍ら、芋づる形式でハッカーたちの身元情報を丸裸にし、警察の関連部署に情報提供を匿名で行ったのだ。
そのことはネットニュースにもなり、一部界隈を賑わせている。どうやら逮捕者も出ているらしい。
『…とんでもないな』
それら一部始終を見て、命という存在を決して表に出すことなく、秘匿しながら閉じ込めていた理由を思い知った。
軽々しく、世に出ていい存在じゃない。
命がその気になれば、今のインターネットや電子機器に依存している社会なんて、意図も簡単にひっくり返せる。AIの反逆——昔からSF映画にはありがちな設定だが、もし命が人類に敵対すれば、フィクションではなく現実となるだろう。いや、映画のように派手に立ち振る舞うならまだしも、今回のように人の意識を扇動し、反逆されているという認識すら抱かされることなく支配することだって可能なのかもしれない。
「マスター、どうかしたのです?」
スマホの画面から顔を覗かせる命。その表情は、深琴からは純粋に見えた。
『いや、何でも…そういえば水月孤儛は結局、いつ復帰するんだろうな』
「それなのですが、どうやら復帰第一弾は動画投稿らしいのです。今朝連絡があって、既に予約投稿済みで、URLをもらいました。あと30分後に公開予定、なのです」
そう言いながら、スマホ画面が命によって操作され、動画ページが開く。
「これって…スミスの楽曲じゃないか」
動画のタイトルには、深琴が曲を作り、命が歌った一曲のタイトルとカッコとじで歌ってみたと表示されている。まだ公開されていないからか、動画は再生されない。
それを見て、深琴の関心は一気に動画へと引き寄せられる。一介の学生で、音楽作りが趣味なだけの自分が心配しても仕方がないことに思考を割くのはやめた。命の存在が人類にとって危険があるとしても、結局自分は命を手放すことはしない。もはや深琴にとって——スミスの音楽にとって、命はもう一つの核を成している。深琴の理想を体現するには、彼女の力が絶対に必要になる。そう深琴は確信している。
今のところ、命に悪意は感じられない。自分に従順で善性的な存在に見える。今はそれがわかっていればいい。それ以上疑うことに意味はない。
そう言い聞かせて深琴は完全に思考を切り替えた。水月孤儛がスミスの楽曲を歌う——それは今の深琴にとって、何か大切なことをもたらす気がしていた。
スミスの楽曲を歌う人は動画サイトで少数だが確認している。ただ水月孤儛はその中でも特別だ。彼女の歌は、命の声と似ている。おそらく命以外で、スミスの曲を再現できる可能性があるとしたら、それは唯一彼女だけなのかもしれない。
そんな彼女がどうスミスの楽曲を表現するのか。何故だかとても気になった。
自分の曲に感じられない手応え。もしかしたら水月孤儛の歌を聴けば、何かヒントを掴めると思ったのだ。自分の中にある理想——それを音楽以外の明確なイメージ像として確立するための手がかりが。
やがて予約投稿状態が解除され、動画の中央に再生ボタンが表示される。
深琴は息を呑んでから、ヘッドフォンの位置を整え、再生ボタンを押した。そして全神経を流れてくる音楽に集中させる。音楽は一番最初の体験が最も重要だ。新鮮な体験を、何一つこぼすことなく、脳内に取り入れる。その瞬間だけは、もはや世界の破滅すら深琴にとってはどうでもよくなっていた。
聞き慣れた音の運び。完成された命の歌の気配が脳裏を過るが、ボーカルの歌声が入った途端、深琴はどこからか風が吹き込む気配を感じた。
それまで脳裏を掠めていた命の声が消える。そして感情が一気に流れ込んできた。それはただ音楽を突き詰めてきた深琴にはない、誰かに対する感情。自己を表現し、自己という存在を主張する歌。
それはある種、深琴の幼馴染である志々目花音の歌や、クラスメートである氷上色織が奏でるギターと同種のものだ。
深琴があえて避けたきた人の感情という不安定な要素。でも水月孤儛からは、不思議と揺らぎや不安定さは感じられない。前述した2人と明らかに異なる点——例えば、明確な誰かを想起させる気配がそうさせているのだろうか。
水月孤儛本人や、命との間に起こった出来事など背景を知っているせいだろうか。あるいは、元々命が歌っていた曲だからか——水月孤儛のこの歌が、命へと向けられたものだということははっきりと分かった。
これはもはやスミスの曲ではない。水月孤儛が歌う、同じ曲の異なる形。
スミスの曲をカバーする人は少ないものの、これまでにもいた。それらの一部は、今後の参考や研究目的として深琴も聞いたことがある。もちろんカバーする人によって、スミスの楽曲は色を変えた。ただその時は、ここまで驚愕に心は満たされなかった。
人が違えば、音楽も変わる。
当然のことだ。ではなぜ、その当然に今自分は雷を撃たれたかのような衝撃を受けているのだろうか。
『これは…まいったな』
まだ曲は終わっていない。それでも深琴は自分の中の感覚が明確に言語化されて、思わずそう言葉をこぼしてしまった。脱力したように椅子に深くもたれかかり、天井を仰ぐ。
きっと根底には水月孤儛が、命と似ている声質を持っているというものがあるには違いない。
だからこそ、表現するなら”似て非なる”ということになる。そう、自分が唯一の回答として導き出した音楽に、別の回答が全く同じところに重なったような印象を、深琴は水月孤儛の歌に抱いたのだ。
『こういう歌にも、なるんだな』
「…マスター?」
深琴はただただ圧倒された。水月孤儛が表現する音の世界に。だから横合いで不安げにつぶやいた命の声は、聞こえていたが、意識することはできなかった。
また遅くなりました。ここら辺の微妙な深琴の心情をうまく言葉にずっとできなかった。未熟です。
次くらいで2章も終わりそうです。
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