Rec.21
男が近づいてきて、手を伸ばしてくる。何をしてくるつもりなのだろう。何がしたいのだろう。
彼は一緒にもう一度と言っていた。そして今の自分を白名と呼んでいる。
凪沙にとって、その名前は過去だった。もちろん、だからといって軽んじているわけではない。むしろ大切な人生の一部だと誇りに思っている。
でも一方で、白名という存在がティープロで水月孤儛の魂に至るまでのステップアップだったと言われてたら、今の凪沙には否定することも、またできないだろう。
それだって咎められるものではないはずだ。凪沙の人生は、凪沙だけのものなのだから。
だから本当は何も悪くない。
でも現実は、人の心は、そんな正論だけで割り切れるものではない。白名の引退に深く傷つく人だっていたのだ。きっと目の前のこの男も、白名に裏切られた1人なのかもしれない。
もしそうなら、この状況は白名を捨てた報いというのだろうか——
男は笑っている。いまだに自分のことを白名と呼び、現実を遠ざけるように、耳を音で塞いでいる。
凪沙もまた、これ以上現実を受け入れたくなかった。だから目を閉じる。目の前に暗闇に満たされた。
「——白名? 白名の歌が、消えた? なんで…」
凪沙が目を閉じて、数秒が経って、眼前に迫っていた男がふとそんなことをボソリと呟いた。不快な匂いが鼻を通り抜け、凪沙は咄嗟に顔を横に背けながら、そっと目を開ける。
「なんで、なんで!俺の、白名が!」
男は取り乱しながら耳元にはめたイヤホンを叩いている。さっきから漏れ出ていたあの音は、自分の歌だったのか、切羽詰まった思考の中にふと過り——
凪沙が手に持ったスマホが震えた。暗くなっていた画面が明るくなり、彼女の顔を照らした。
画面に表示された文字は”スミスちゃん”だった。
その文字を見て、凪沙が大きく目を見開いたその瞬間。凪沙からでもはっきりと聞こえるくらいの大音量のハウリングのような音が男のイヤホンから聞こえてくる。
「——ッ!?」
男はあまりの音響のせいか、咄嗟にイヤホンを外すこともできずに、その場にうずくまった。
「…逃げるのですっ!」
そしてスマホから聞こえてるくる声に、ハッとその場で固まっていた凪沙は我にかえり、力の抜けた足をもつれさせながらも動かした。
逃げる。そうだ、今なら逃げられる。
無我夢中で走った。男は、多分追いかけてきていない。とにかく体力が尽きるまで、凪沙は走った。
「はぁ…っ、はぁ…っ も、もうだめ…」
投げやりな走り方から、足に力が入らなくなって、凪沙はやがて動けなくなる。立っているのもやっとで、折れ曲がりそうになる上半身を、太腿に手を当てて支える。
何が起こったのか。何かとんでもないことが起こっている気がするけど、息が切れてそれどころではなかった。
「もう追いかけてはきてないようなのです」
スピーカーになっていたスマホから、聞き覚えのある声が聞こえてくる。最初は勘違いか幻聴だと思ったけど、間違いない。スミスだ。スミスの声がする。
凪沙は両手でスマホを持ち、顔を少しだけ画面に近づけた。
「…スミスちゃん、なの?」
スミスの声を凪沙が聞き間違えるわけがない。それでも、やっぱり信じられない気持ちがあった。
あとはずっと走って、身体がどこかふわふわとしているせいだろうか。今この瞬間に、現実感がない。これまでの全部が夢で、今から部屋のベッドの上で目覚めても何も不思議じゃない。
「オレじゃなかったら、一体誰だっていうんです?」
「…本当に、スミスちゃんだ。でも、どうして…なんで?」
「なんでって…友達が助けを求めてきた。だから助けに来た。それだけのことなのです」
凪沙は通話状態になっている画面を操作して、メッセージアプリを開く。あの時、気が動転しながらも送ったメッセージが届いていたのか…画面を確認すると、たすけての4文字の下には既読がついている。
でも、それにしたって、何か色々とおかしい状況な気もする——ただ思考がその違和感に深く入り込む前に、スミスの言葉の方に意識が傾いた。
「来たって…もしかして、近くにいるの?」
凪沙は周囲を見渡した。人はいない。少し先の方の通りから喧騒の気配はあるものの、近くには誰の気配も感じなかった。
「それはもちろん!」
「ど、どこに?」
呼吸もだんだんと落ち着き、身体への疲労よりもスミス——その魂の人物と出会えるという期待に頬が紅潮する。
「どこにって…ここにいるじゃないですか」
「ここ…って、ここ?」
しかしスミスの声は、手に持ったスマホのスピーカーからしか聞こえない。つまり、スマホの中にと言いたいのだろう。
「オレはスーパーAI、ですから」
「はは…なんだ、そういうことかぁ…いや、そうだよね」
凪沙は力無く笑いながらため息を溢す。よくよく考えれば、スミスがこの場にいないなんてことは当たり前だ。とんでもない偶然か、それこそスミスがスーパーヒーローでもなければ有り得ない。
「…そろそろ落ち着いた、ですか?」
スミスはまるでこちらの表情の変化を見ているかのように、優しくそう言った。本当に、この場にいない…んだよね?
「うん…ありがとう、スミスちゃん」
「お礼なら、まだ早いのですよ。マスターからは、孤儛を”全力で”助けることの許可をいただいているので」
「…え?」
スミスの言葉に、凪沙は首を傾ける。もう危機は去った。あの男は追ってきていないし、凪沙は既に助けられている。
「ただ…今日のこと、それからこれからのことは、どうか秘密にしてほしいでのす! どうか、お願いしますのですっ」
「…えぇっと、う、うん?」
この時の凪沙にはまるで理解できなかった。
助けられたはずなのに、まだ終わってないようなことを言っている理由も、助けた側のはずのスミスが、言葉を急き立てるような調子で懇願する理由も——
ただ困惑して、それでも頷くことがきっと求められているのだということだけは感じて、この場にスミスはいないはずなのに、凪沙はスマホに向かって何度も頷いた。
彼女の真意を正確に理解することが叶うのは、もうしばらく先のことになる。しかし事態は翌日から既に動き出していた。
その日は、朝からSNSのタイムラインがざわつき、トレンドにはティープロの文字がいくつか連立していた。
これまでも、水月孤儛のリアルばれにより、ティープロの界隈はここしばらく色めきだっていたが、今朝のそれはもっと大きな範囲で、どちらかというと混乱の態をなしていた。
SNSを起点に拡散されていた水月孤儛のリアルの画像。それらが、たった一晩で何十枚、いや下手をすると三桁近い枚数となって拡散されていたのだ。
ただし、その画像に写された人物は全て別の顔をした女性だった。
大量の偽画像が同時に出回ったことで、ネットの中は混沌と化した。ある誰かは本物の画像を見つけようと躍起になり、ある誰かは自分の持っている画像こそが本物だと主張した。
またある誰かは冷静に投稿された時間を遡り、最初の画像を探そうとしたが、大量の偽物画像が過去にも投稿されていたことになっており、投稿時間で探すことはもはや不可能だった。
ある誰かは自分の保存していたその画像を投稿した。しかしその画像と似たような場所で撮られた偽画像も投稿されており、その画像が本物であることを証明することはできなかった。
本当の水月孤儛のリアル画像は、もはや自分の記憶か他人の確証のない記憶によってでしか辿ることが出来なくなっていたのだ。
最初の方こそ、本物を見つけ出そうと乗り出す者は多かった。しかしそれが困難だと分かるや否や、急速に関心は離れていった。
結局、水月孤儛の素顔は、曖昧な人の記憶と大量の真偽不明な人物たちの画像によって埋もれて消えることになる。
そうしてここしばらく凪沙を苦しみの牢獄に閉じ込めていた理不尽は、三日としないうちにネット上の取るに足らない過去になってしまった。
「何が…起こったんだろう」
あまりにも呆気ない終幕に、凪沙は安堵や喜びというよりも、困惑の方が先に押し寄せた。これまでSNSを開いてタイムラインを除けば、毒のような言葉ばかりが並んでいたのに、それがたった数日でなくなった。
もうずっとこのまま、囚われ続けるんじゃないかとさえ思っていた。それくらい、延々と果てしない悪意に見えた。
ところが世の中は、凪沙が思っていたよりもずっと淡白だったらしい。悪意も、それを共有できなければ、顕示欲も承認欲も満たされない。そんな行為に誰もわざわざ労力を割かない。そこまで凪沙——水月孤儛自体に興味を持つ人はいなかった。
事態が収まってから、凪沙は考えれば当たり前なその事実に気付く。
世の中の人が全員自分を嫌悪しているなんて、それはそれで傲慢な考えなのだ。
そんなことも分からないくらいに、視野が狭くなっていた。
「…あ、マネージャー」
SNSのタイムラインを辿っている最中に、ふとメッセージアプリに担当マネージャーからの連絡が届く。
今日から通常通りの配信を行っても大丈夫という
旨のメッセージだった。事務所側も事態は収拾したと判断したのだ。
つまり、これで解決。凪沙はやっぱり実感の湧かないふわふわとした気分で、一息吐いた。
そして思い出したかのようにメッセージアプリを操作して、スミスとのトーク画面を映す。
スミスが助けてくれた、あの夜のやり取りはまだ残っている。未だ夢のような感覚があるものの、こうしてトークが残っているのなら、あの夜から今日に至るまで全て紛れもない現実ということである。
ふと、あの夜のスミスの言葉が凪沙の脳裏を過ぎる。大量の水月孤儛の偽リアル画像——あれも、全部スミスがやってくれたものというのだろうか。
にわかには信じられない。あんな、ネット上のユーザー全ての認識を誘導するようなことが、1人の力で可能だというのだろうか。いや、それ以前にあの夜の一連の出来事だって、不可思議だった。
勝手に通話が繋がったり、そのタイミングで凪沙を追い詰めたあの男のイヤホンから鼓膜を破く勢いの音が出たり——
そんなこと、普通の人に出来るのだろうか。
「…まさかね」
それこそ、フィクションみたいな話だ。凪沙は深く考えるのをやめた。どんなに不思議でも、スミスが自分を助けてれたことに変わりはない。
とりあえず今日から活動再開にもなったことだし、その報告も兼ねて、もう一度改めてお礼を言おう。
そう思ってスミスのトーク画面に文字を打とうとして、はたと手を止める。
スミスには随分と迷惑と心配をかけた。お礼もちゃんとしたいし、何より自分がもう大丈夫であることをしっかり伝えたい。
メッセージではもちろんのこと、他にもっとはっきりとした形で復調したことを伝えたい。
——今なら、歌えるかも。
あの時は歌えなかった、スミスの曲。歌って、今感じている気持ちを全部乗せて、伝えたい。
凪沙はそんな衝動に駆られて、機材やソフトを準備する。白名の最初期の頃は歌ってみたも全部自分でやっていた。
凪沙は懐かしさを感じつつも、PCとマイクのセッティングを始めた。
録音と編集、マネージャーへの確認、そして歌ってみた動画のアップロードまで全て終える頃には、凪沙は心地よい脱力感と、僅かな気恥ずかしさがあった。
勢いのままここまで来てしまったが、直前になって躊躇いが過ぎる。とはいえ、ここまできて引っ込むわけにはいかない。凪沙は強く瞼を閉じたまま、作ったメッセージを送信した。
顔が火照っている感覚がしばらく続いて、スマホ画面は見ることが出来なかった。
返信が来たのは、それからまた間を置いた後。しかもメッセージアプリにではなく、動画へのコメントという形だ。
投稿されたのは、たった一言のコメント。
ただ、それを見た途端、凪沙は目の奥から込み上げるものを感じた。
それは救い、あるいはこれからの凪沙への後押しだった。
「…頑張るよ、私」
もう凪沙の中には迷いも、憂いも、心を蝕むものは何もなかった。
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励みになってやる気が_(:3 」∠)_
ぐーんと伸びます!・:*+.\(( °ω° ))/.:+




