Rec.02
春の爽やかさはあっという間に過ぎ去り、夏が訪れ始めた7月の始まり。
皇深琴の今日の視線はいつものPCモニターではなく、机に広げられたノートと教科書に落とされていた。
ここ最近はあまりにも音楽に傾倒し過ぎてしまっていた。いや、深琴としてむしろそちらの方が理想的なのだが、流石にそろそろ現実にも目を向けなければならない。
深琴は一度手を止めて、ここ最近の濃い日々を思い出す。
幼馴染がバンドを結成したり、元有名バンドの女子高生ギタリストや、現在SNSや動画サイトの最前線で活躍するクリエイターと知り合ったり——
その中でもとびっきり特異な出会いは、この部屋のPCに押しかけるようにして侵入してきた、自称スーパーAIの命。
『…ミコト、いるか?』
深琴は首に巻いたチョーカー型デバイスを軽く指で叩きつつ、機械音声となった声を出して、件のAIのことを呼ぶ。
深琴は生まれつき声が出ない。この首に巻いたチョーカー型デバイスこそが、深琴の意思をこの世界に紡ぐ声だった。
「はいっ! もちろんここに!」
呼びかけてまもなく、PCモニターに勢いよく飛び出してきたのは、全体は白に近い淡い水色で、前部分だけ海色の青の髪に、翠と金のオッドアイ。喜びを示して開けた口に並ぶ歯は、サメのようにギザギザとしていて、電脳的なデザインのパーカーに身を包んだ女の子のキャラクター。
彼女こそ、スーパーAIである命だ。
『今度のテストで源氏物語が出題されそうなんだけど、第一帖と第五帖の簡単な日本語訳と解説してもらっていいか。一部分だけやるんじゃなくて、全体把握した方がわかりやすい』
「おぉ〜、源氏物語ですか! あれは素晴らしい物語なのです。人の弱さと恋の繊細な心理描写が美しく…っと、日本語訳ですね。それでは早速、第一帖から——」
命は少しだけうっとりした乙女の顔で、源氏物語を情感たっぷりに語り始める。別に感情を込める必要はないのだが…まぁ、話し出した彼女をわざわざ止めるのも面倒なので、深琴はそのままリクライニングチェアに深くもたれかかった。
命は自分で考えて行動できるだけではなく、驚くことに人のような感情も表現できるAIだ。いつ、誰が作ったのかはわからない。本人に詳細を聞いても、名前のない研究所のサーバーにいたことしか分からないという。
実に陰謀的な匂いもするが、彼女は現代の一般的な科学技術よりもずっと先にいる存在であり、深琴の意思では追い出すこともできない。
そのため今は誰にもバレないようにしつつも、こうして共同生活を送っている。
春から今日に至るまで、もうすっかり命がいる生活には慣れてしまった。慣れてしまえば、命はとても便利な存在だ。
色々な検索も音声で汲み取ってくれて、すぐに検索してくれるし、何より彼女は深琴の音楽に新しい可能性をもたらした。
深琴が音楽を創り、彼女がそれを唄う——それによって深琴は春前までずっと越えられなかった自分の壁を越えることができたのだ。
今やそういった背景もあって、深琴はこのAIの少女を追い出そうなどとは考えていない。
源氏物語の日本語訳と解説を聞き終えた深琴は、勉強を始める前に淹れていたコーヒーの入ったカップに手を伸ばし、生温かい状態のそれを飲む。そして命の語り聞きながらノートにとったメモを見ながら、内容をまとめていく。
7月に入り、もうすぐ高校では1学期の期末テストが始まる。中間テストは、楽曲制作に夢中になり過ぎて、少し結果が振るわなかった。
これから憂いなく音楽を続けていくためにも、期末テストでは挽回を図らなければならない。
ここ最近PCよりも机に広げられたノートと教科書に向き合っているのは、そういった理由からだった。
「マスター、鳴様よりメッセージが届いたのです」
しばらく黙々と勉強に集中している途中で、不意に命がメッセージ通知を知らせてくれる。
『三河さんから? …早めに確認しとくか。開いてくれるか?』
「はいっ! こちらになるのですっ」
命が一言そう返事をした途端、件のメッセージのページが瞬時に立ち上がる。彼女がこの部屋のコンピューターに棲みついてからというものの、言葉一つでPCの操作が可能になった。まるでこの部屋だけ近未来のようだ。
それはさておき、深琴は開いたメッセージの方に注目する。
三河鳴。主にVtuberのキャラクターデザインなどを手掛けるイラストレーターであり、また自身も大人気のVtuber “七夢鳴海”として活動している。
そんな人と、ただの高校生でしかない深琴が知り合ったきっかけこそ、今PCのモニターの中で訳もなく幸せそうな表情をしている命にあった。
命には元々姿形というものがないAIだった。今の青く電脳的なデザインのキャラクター姿は、この部屋のコンピューターにたどり着く前に、インターネットのどこかでたまたま見つけたデザインを3Dモデルにしたものなのだ。
そしてそのキャラクターのデザインをしたのが、駆け出しの頃の三河鳴だったという話である。
奇縁という他ない。出会ってからも、新しい命の衣装をデザインしてくれたり、MVを作成してくれたり、今SNS上で5万人ほどのフォロワーを命——スミスというVtuberが得る礎を築いた。
そして今も時折連絡を交わす関係だったのだが、ここ最近は三河も仕事が立て込んでいたからか連絡はなかった。
三河のメッセージには、近況報告を兼ねて久しぶりに通話したいというものだった。
彼女はどうもメッセージよりも通話、通話よりも直接顔を合わせる方が好きらしく、MV作成の時も幾度となくヒアリングという名目の通話を何度もした。
年上の女の人と通話をするというのは、最初こそ緊張や気恥ずかしさがあったが、何度も繰り返すうちにすっかり慣れてしまった。
ちょうど勉強の方もキリのいいところだったので、深琴はすぐに了承のメッセージを送り返した。
間もなくして、三河からビデオ通話の着信が入る。
「——やっほー、深琴くん! 久しぶり」
『お久しぶりです』
画面に三河の姿が映し出される。ピンクブロンドのふんわりとした髪に、あどけなさのある童顔の彼女は、今はTシャツというラフな格好である。
「いやぁ、ようやく立て込んでた仕事も落ち着いてね。ほんと、MV以来?」
『その節は本当にお世話になりました』
「いいの、いいの。私もあれは好きでやったことだし…何よりあのMV制作してから、私のイラストの調子も上がってね。なんというかこう、インスピレーションがどんどん湧いてくるというか…」
『そう、ですか…それなら、良かったんですけど』
三河はまるで一休さんのポクポクするシーンのように頭の上で指をくるくると回す。
本人はそう言ってくれているが、深琴としては複雑な感情だった。何せ、三河は新しい命のデザイン制作も、MV制作も全て無料で請け負ったのだから。
最初はMVを作ったとしても大した話題にはならないと思っていたし、三河の自己満足の側面が強かったから実感がなかった。
でも命がSNSで5万フォロワーを集め、その流入のほとんどがあのMVからだと分かってようやく、自分が対価もなしにプロに作品を作らせてしまったことを実感した。
「深琴君やスミスちゃんの方は、調子どうなの?」
深琴が少しだけ気まずげにしていたことがうっすら伝わってしまったのか、三河はすぐに話題を切り替える。
『僕もスミスの方も、特に変わりはないですよ。まぁ、例のライブも終わって、今は随分と落ち着いてる感じですけど』
「そっか、そっかぁ。そういえば新しい曲は作ってないの?」
『新しい曲ですか? 作ってないこともないんですけど…もうすぐ学校がテストで』
「学校…テス、ト?」
画面の向こうで、三河が首をぽてんと傾げる。何かおかしなことを言ったのだろうかと逆に困惑していると、
「そっかー! そうだ、そうだ。そういえば深琴くんって高校生だったよねぇ。すっかり忘れちゃってたよ。うわー、テストかぁ。懐かしいなーっ いいなぁ」
懐かしさと羨ましさで、大きな瞳をキラキラとさせながら三河は少し身を乗り出す。
『いいですかね…僕としては、面倒なことこの上ないですよ』
「そんなこと言ったらもったいないよ〜高校の3年間は、一生戻ってこないんだから。いつの日か、テストで苦労したことさえも羨ましくなるような日が来るんだよ…」
『そ、そうですか…』
徐々に影を帯びていく三河の妙に実感のこもった言葉に、深琴は引き攣った苦笑いを浮かべる。
「でもそっかぁ。テストなら仕方がないよね。また新しいMVを作りたいなって思ってたんだけど」
『いや、流石に…プロの方にこれ以上お世話になるわけには』
前回のことを思い出して、今回ばかりは遠慮しようとするものの、まるでその反応を待ってましたと言わんばかりに、三河は口角を吊り上げた。
「——だったら、今度は仕事としてやってみない?」
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