File No.3
——音楽に正解はない。
それはとても愛おしい言葉である反面、遠く突き放されるような絶望も感じる言葉であると、深琴は思っていた。
それは未だ誰も到達したことがない場所があるという確信であると同時に、決して最後のその場所には到達できないという否定の言葉でもあるからだ。
だから少なくとも、深琴は自分が制作する楽曲においては”正解”を常に追い求め続けていた。
「師匠はどうしてこんなにも素晴らしい楽曲をたくさん作れるのです?」
正午を過ぎ、楽曲制作作業が一区切りついてコーヒーを飲んでいると、それまでは大人しくしていた命が瞳を輝かせながら聴いてきた。
ちなみに今はサイドモニターに、その体を移動させている。
『僕は全く満足していないんだけどな…逆に、命は何をもって素晴らしいと思ったんだ?』
命はインターネットという広大な電子の海の中でSmithの音楽に出会い、その元を辿って、深琴のPCにまで入り込んできた。
深琴自身、自分の音楽には絶対的な自信はある。どれもその時その時の最大値を体現した楽曲であると言えるが、深琴は一度として満足したことはない。
まだまだ自分の中にある理想とは遠く、楽曲が完成する度に、自分に足らないものを痛感するばかりだ。
理想を追い求めるあまり、自分のこれまでの作品に対してそんなネガティブな主観入り込んでしまう。だから迷いなく素晴らしいと言い切ってしまう命の言葉に少しばかり興味を持ってしまった。
自分の理想を体現するという目的だけを考えるなら、きっとそれは不要で未熟な感情なのだろうが。
「マスターの曲はどれも美しいのです!音の一つ一つが正しく配置されてるようで、しかもその全てが理論的で…複雑で多量な情報を心地よいたった数分のメロディーとして圧縮変換されているのです」
命は目を輝かせながら、早口で捲し立てるように言ってきた。
美しい——その褒め言葉は深琴が追い求めている理想の極致であり、不覚にも気分が高揚してしまう。
深琴は誤魔化すように咳払いし、感情が表に出ないようにした。
『…何というか、人間らしくない視点だな』
「それはもう、オレはAIですから!」
そういえばそうだった。
この命というAIの完成度は、本当に凄まじい。油断していると、ただの人と会話しているように錯覚してしまう。
それにしても”一つ一つの音が正しく配置さているよう”か。言い得て妙というか、人ではなくAIに言われるというのが、自分の音楽制作における姿勢そのものを表しているようだ。
『お前がそう感じたのは…きっと僕がそういう作り方をしているからだろうな』
「作り方、ですか?」
『僕は”音楽には正解がある”という前提で制作している。そして正解があるということは、そこに法則があると僕は考えている』
「法則…確かに音楽という分野には度々数学的解釈が持ち込まれることはありますけど…古くはピタゴラスの時代から、のようですね」
モニターの中の命は、視線を深琴から外し、どこか中空を見つめている。もしかしてこれはインターネット検索をしている動作なのだろうか。
『音律の基礎だな。僕の根源にもあるものだ』
三平方の定理で有名な数学者であるピタゴラスは、美しいと感じる音の周波数比率には法則があると説いた。
そうして現代でも使われているドレミファソラシドの8音階が出来上がり、やがて平均律や純正律などの礎になった。
詰まるところ、美しい音色が存在するなら、その音色を連ねた音楽にも、美しさに至る答えがある。それが深琴の根底にある思想なのだ。
「マスターの音楽の美しさは幾何学的な美しさなのですね! しかし…こんなにも美しいのに、マスターは満足していないのですか?」
『あ、あんまり美しいを連呼しないでくれるか…』
「どうしてです?」
『…いや、何でもない』
モニターの向こうにある命の純粋な瞳を前に、深琴は自分の発言に余計な気恥ずかしさを上乗せしてしまう。
誤魔化すようにコーヒーを飲み、砂糖もミルクも入れていない澄んだ苦味が思考をクリアにして、命の質問に答えていないことに気が付く。
『…自分の音楽に満足していないのは、単に僕の理想とはどこか違うからだとしかいえないな』
理想とは美しさであり、正解とは普遍的なものである。つまり音楽の正解を定義するなら、自分の中にある確固たるこの理想を普遍的な事実にすることだ。
深琴が自分の音楽に満足しないのは、単にこれまで制作した曲に納得いくものができていないからだ。
「う〜ん…マスターの往く道は険しく困難だということなのですね!」
『別に特別なことじゃないさ。創作者にとって、自分の作品に満足することは、創作の終わりと同義だからな』
「…もしかして、マスターもそうなのですか?」
それまで溌剌としていた命の表情が急にしゅんと沈んだ。
『僕もって…?』
「マスターも満足してしまったら、もう楽曲作りはやめてしまうのですか…?」
モニター越しの命が、抱いた感情をぶつけるように近づいてくる。もちろん3次元の深琴と2次元の命では物理的な距離は変わっているわけではない。単に命の姿が画面上で拡大しただけだ。
創作者が自分の作品に満足して創作を終わるだなんて、創作者にとっては最高のエンディングだといえる。
それを命はどうやら真に受けたらしい。深琴としては、創作に終わりは来ないという皮肉を込めたつもりだったのだが。
『もし本当に、僕が僕の楽曲に心から満足したなら、そうなるかもしれないな』
「そんなぁ…」
ただ深琴が口にした言葉は、命の不安を肯定するものだった。あくまでも理想を求める身としては、その言葉を否定するわけにはいかないからだ。
『でも、僕は現状自分の音楽には全く満足していない。お前も言っていたじゃないか、道は険しく困難だってな。それに加えて、果てしなくもあるのさ』
「う〜…それは、度し難いのです。マスターの歩む音楽の道を応援したい気持ちと、マスターが理想に達してしまったら、もうマスターの音楽が聴けなくなるかもしれないという気持ち…しかしマスターが到達した最高の楽曲はぜひ聴いてみたい…ん〜やはり度し難いのです!」
『複雑な心情なんだな…AIなのに』
悶える命を呆れつつ眺めながらも、同時にAIらしからぬ矛盾を孕んだ感情表現に内心驚いた。
このAIを開発した誰か、あるいは組織は一体どのような目的があったのだろうか。
ふと深琴はそんなことを考える。人間のように対話できるAIまでは、まだその目的も想像できる。
例えばAIとのコミュニケーションを円滑にすることで、より人間に近しい立場で効率的な情報処理を実現するため、とか。
しかし矛盾した感情を抱くなど、そこまで忠実に人間の感情を再現しては、AIとしての機能にむしろ支障が出るのではないだろうか。
命に聞けばわかるのだろうか。いや、これ以上彼女の背景に深入りはしない方がいいかもしれない。知っていても知らなくても、ロクなことにはならなさそうだ。
何も自分から首を突っ込んで巻き込まれにいく必要はない。
深琴が薄氷を前に何とか踏みとどまった気分でいるというのに、その当事者である命は今も体をクネクネとさせている。
『…そういえば、そのモデルの動きとかも、どうなっているんだ? 僕のパソコンに3Dモデルのソフトなんて入ってないけど…』
それでもふとした彼女への疑問は絶えない。曲作りにも行き詰まっていることも合間ってか、今度はモニターに映されている命に疑問が向く。
深琴のPCはそれなりのスペックがあるものの、3Dモデルがこうも自由に動けるような環境構築はしていない。
「あぁ…それは、オレがこのPCで動きやすいよう、一晩でちょちょいと環境を整えさせてもらったからなのです」
『それって、つまり僕のPCをハッキングしたのか…』
「PCだけではないのです! この家の電子機器なら、一通り移動できるように繋げているのですよ!」
深琴が顔をしかめているところに投下された、命のさらなるカミングアウトに頭を抱えそうになる。
『おい、変なことにならないだろうな、それ…』
「その点は心配ご無用なのです! むしろセキュリティ的には数段レベルアップしているのです。ウィルス1bit通れる隙間すらございませんともっ」
命は研究所とやらから脱走したAIだ。もし彼女の背後にいる何者らが、彼女を追っているのだとするなら、プログラムやシステムといった知識に乏しい深琴では、いずれ虎の尾を踏むに違いない。
自己防衛してくれるというのなら、深琴が気を張る必要もなくなってくる。
それよりも、一番の懸念事項は——
『僕の楽曲制作に、何か不都合とかはないだろうな?』
「このオレがマスターの邪魔をするわけがないのですよ!」
『それならまぁ、いいけど』
そもそも命はSmithの曲に釣られてやってきたのだ。その曲制作の邪魔をすることがないのは自明だろう。
午前の作業も特に邪魔らしい邪魔はしなかったし、ひとまず今は問題は起きていないということだ。
深琴は残りのコーヒーを飲み干した。遅く起きたせいか、まだお腹は空いていない。昼食を食べる前に、もう少しだけ音楽と向き合うとしよう。
『休憩は終わりだ。僕は作業に戻る』
「はい!何かご用があれば、いつでもお呼びくださいっ」
命は期待に満ちた瞳のまま、モニターから姿を消した。そして深琴の目の前には、制作途中の楽曲が映される。
散りばめられた音はまだ何も形作っていない。今なお頭の中を刺激する理想に没頭しながら、深琴は一つずつ創造と破棄を何度も繰り返す。
それは瞼を閉じて歩いているような感覚だった。確かに理想へと向かっているはずが、振り返ると全然違う方向に歩いてきてしまっていて、近づいている気配すらしない。
それでもただ、歩み続けた。
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