File No.19
氷上伊織は肩にかけたストラップを外して、ギターを側にあったスタンドに置いた。
「ふぅ…ごめん、ちょっと休憩しない?」
「そうだね。まだ時間はあるし、少し休憩を入れようかっ」
伊織の言葉に頷いた花音が、マイクで拡張された声をドラムの愛美とベースの理緒にも届けてくれた。
それまで音に塗れていたスタジオの部屋が、機材の駆動音だけになる。借りているスタジオの部屋は、機材とドラムでほとんどを占めていて、演奏する以外はほとんど動けない狭さである。
さらに防音室ということもあって、部屋の中は少しだけ息苦しい圧迫感があった。
ただ音楽をやる上では、この上なく集中できる環境でもある。ごちゃごちゃとした余計な思考も、この場所にいる間だけはせずに済んだ。
伊織ま丸いすに置いていたペットボトルの水を仰ぐ。
大丈夫。いつも通り演れているはずだ。
水を飲みながら、伊織は自分に言い聞かせた。
先日前のバンドのボーカルである三奈子と会ってからしばらくの間、伊織は調子を崩していた。今もまだ、ギターを弾いていない時になると、あの日の彼女の言葉や顔が蘇る。
かつての仲間に初めて向けられた、真っ黒な感情が。そしてそれを口にしてしまった瞬間の、冷たい鎖に心臓を締め付けられたかのような悲しみの表情が。
伊織は首を横に振って、引き摺り込まれそうになる思考から現実に戻る。
今は演奏に集中しよう。もうライブまで日もないし、今のバンドメンバーに迷惑だけはかけられない。
「——それじゃ、そろそろ始めようか!」
花音の明るい声で、伊織は顔を上げた。その時ふと花音と目が合った。
三奈子と会った翌日の学校では失敗した。あの時は思ったよりもダメージが大きすぎて、我ながら明らかに様子もおかしかった。
その日はたまたま愛美と理緒はバイトの面接で練習は休みだったし、翌日にはある程度、上辺だけは取り繕うこともできた。
だから愛美と理緒には隠せているだろうが、花音には、何かがあったとは思われているだろうな。それでも黙ってくれているのは気を遣ってくれているのか——
とにかく花音がわざわざそうしてくれているなら、自分はいつも通り、今のこのバンドのために尽くした演奏をするだけだ。
伊織は気合を入れ直して、ギターを手に取りストラップを肩にかける。
「どうする?」
伊織は花音の方を見て問いかける。
するとその視線を受けた花音が、続いて後方にいる愛美と理緒の方を伺うように見た。
「とりあえず、まだ時間あるし最初から通しでいいんじゃない?」
「うん、もう少し弾き込んでおきたいかも…」
愛美と理緒の意見は一致していた。そしてそれは花音も同じようだ。
「決まりね。それじゃ一周、通しでやるよ!」
伊織は気合を入れて声を張り上げた。
最初はバンドなんて二度とやるつもりはなかった。でも今は自分でも驚くほどすっかりやる気になってしまった。
このメンバーとずっと音を追いかて、同じ音を共有したいと思った。そして花音——彼女の才能を前にして、一人では至れない場所があると確信した。
だから挑戦したい。この気持ちは紛れもない本物なんだ。
伊織はその決意を指先に集中させて、力強くストロークした。
◇====◇ ====◇ ====◇ ====◇
「——た、大変ですぅ!」
とうとうやってきたライブ当日。ライブハウス入りをする前に、落ち着いた場所で打ち合わせをするため、バンド”ネオン”のメンバーはライブハウス近くの喫茶店で待ち合わせをしていた。
伊織、花音、愛美と揃っていたところに、家が遠いため少し遅くなってしまった理緒が、店にやってくるや否や慌てた様子でスマホの画面をメンバーに見える形でテーブルに置いた。
「ど、どうしたの。そんなに慌てて」
一人側に座っていた花音がさらに身体を詰めて、理緒がそこに座った。
「SNSでいおちゃんのことが噂になってる…」
「えっ? うそ」
理緒の言葉に反応した花音がスマホを覗き、それに続いて愛美も身体を乗り出した。
「…元ノイフレのギター、イオリが新しいバンドでライブをする可能性。ミナの裏アカのつぶやきから推測してみた…」
愛美が画面に映し出された文字を読んでいる。どうやらネット掲示板をまとめた記事を、SNSに誰かが上げたらしい。
ミナの裏アカの呟き——その言葉に伊織は目を見開いた。しばらく放心した後、慌ててスマホを取り出して同じSNSのアプリを起動させる。
確かに三奈子はSNSで誰にも教えていない裏アカウントを持っていた。メンバーにも直接話していない。とはいえいつも一緒にいたから、時折スマホの画面に裏アカウントのページを開いていたのを、伊織含めメンバーは知っている。
アカウントの名前は変わっていないだろう。検索欄にその名前を打ち込むと、すぐに目的のアカウントは見つかった。
"Spell Mono久々だなぁ。店長元気にしてるかね"
"会いたくなかった"
"音楽やめるとか言ってたくせに、結局わたしじゃ満足できなかっただけなんだ"
"私は祝福なんかしない"
"あの子がまた人前で弾く。きっとまた誰かを壊すんだろうな"
"なんであの子ばかりチヤホヤされるの"
"今日か…ほんと何でこうなっちゃったんだろう。あの子も自分も嫌い"
三奈子の裏アカの更新頻度はそこまで多くなかったが、ちょうど伊織と出会った日頃から、頻度が高めになっていた。中には明らかに伊織に対してだと分かる内容も見受けられた。
伊織がバンドを抜けて以降、ファンの間でもバンドメンバー間の不仲説などの勝手な憶測がネット掲示板を中心に飛び交っている。
そこにこの裏アカの呟きが投下されれば、なるほど確かに今日のライブについての推測も立つのも頷ける。
「…直接私の名前は出してないけど、色々言ってるみたい」
「その、元バンドメンバーの子と何かあったの?」
花音が心配そうにこちらを見つめてくる。一方でその瞳の中には、確信を孕んでいた。
「まぁ、ちょっとね…」
伊織が言葉を濁すと、花音はそっかとおとなしく引き下がる。追及してくることはないようだ。伊織は小さく息を吐いた。
「それにしても、どうなるんだろうねこれ」
愛美がドリンクをストローで吸い上げながら言った。
まとめ記事になっているとはいえ、そもそもノイズフレーバーは世間一般という大きな括りでは、そこまで知れ渡っているわけではないし、SNSで拡散されている記事への反応も大したことのないように見える。
それにライブはもうすぐそこまで迫っているし、今更本番に何か支障があるわけでもないだろう。
そう高を括っていたが、いざライブハウス入りをして、その認識はひっくり返ることになる。
「いやぁ、お客さんが大変なことになってるよ〜」
本番間近、ほとんど荷物置き場となっている楽屋に柊が苦笑いを浮かべながら入ってきた。
「大変なこと、ですか?」
もし何かが起こったのなら、可能性として先ほどのリークが関係しているかもしれないと思い、伊織は柊に訊ねる。
「うん…なんか、伊織ちゃんの出演リークされたみたいだねぇ。うちは当日券も売ってるんだけど、もうお客さん満員になってるよ」
「ま、満員!?」
後からついてきていた花音がぎょっと背筋を伸ばしながら驚嘆した。
「昔から伊織ちゃんには熱狂的なファンが多かったからねぇ。今日当日券で来てる人もほとんど伊織ちゃん目的だねこれは」
「すご…流石元ノイズフレーバー…」
「わ、私結局前売り券自分で立て替えたのにぃ…」
続いて柊の言葉を耳にした愛美と理緒もそれぞれ驚いた様子だ。理緒はどちらかというと、肩を落としているが。
Spell Monoはライブハウスとしては小規模に類される箱だ。それでも初めてのライブで、満員の箱。伊織以外の3人の顔には、期待とそれ以上の緊張が表れている。
3人にとっては、挑戦しがいのあるチャンスというやつなのだろう。
伊織にとっては複雑以外の何ものでもない。そもそも一度バンド音楽から離れ、バンドメンバーだけでなくファンも裏切った伊織は、新しく始めたバンドで自分の前の肩書を使うことはしないと決めていたのだ。
不義理だと思ったし、また自分の身勝手な理由で周囲に迷惑はかけたくなかったから。
とはいえ起きてしまったことは、もうどうしようもない。伊織もまた腹を括るしかないのだ。3人と同じ目線に立つためにも。
もうすぐ本番の幕が開ける——
伊織は胸中で蠢く混然とした嫌な予感や不安を、全てそのハリボテの覚悟の裏側に押さえ込んだ。
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