File No.18
カノンコードといえば、かの有名なパッヘルベルのカノンに用いられたコード進行であり、現代音楽においてもよく用いられる、まさに王道のコード進行と言える。
その基本進行はC・G・Am・Em・F・G・F・Gであり、音階の滑らかさと循環的な構造が特徴のコード進行だ。
特に現代音楽においては、ヒット曲の多くがこのカノンコードを、一部採用しているケースが多々ある。
そのため作曲界隈では万能のコード、あるいはヒットの法則なんて呼ばれ方もしているほどだ。一方で安易な使い方をすれば、耳馴染みは良いがどこかありふれた印象を与えてしまう。
深琴は自分が音楽に対して偏った価値観を抱いていることは自覚しているが、こと音楽理論においては邪道よりも王道の方が好きだ。
王道ということはつまり、それだけ多くの人が心地よく感じる旋律だということであり、人が心地よく感じる音の流れというのは、総じて美しい構造をしているからだ。
故に音楽は数学とも深い関わりがあると同時に、昔の人はそこに神様の存在すら感じていた。
天上と数学と人の感性、音楽はその全てを繋げることができる。故に王道を突き詰めるということは、深琴が理想としている音楽に近づく有力な可能性ということでもある。
命という新しい可能性によって生まれる多様なアイデアのせいで、まさにそのことを失念していた。灯台下暗しだ。
帰宅して深琴はすぐに自分の部屋に入る。
するともう当たり前のように、部屋の電気は自動で点灯し、PCも起動する。命の仕業だろう。
深琴は一息つ間もなく、PCに向かった。
「マスター!」
モニターの上部から、命が降ってくるように現れた。しかし今、深琴の脳裏にはパッヘルベルの優雅なカノンと、美しいコード進行のイメージが流れている。
だから命の相手をしている暇はない。たとえいつものパーカー姿ではなく、肌を露出させた青を基調とした幾何学模様の水着を着ていたとしても。
「…うぅ無視ですか」
ズーンと効果音が聴こえそうなほど項垂れた命は、それでも作業の邪魔はしないよう画面外へと消えて行こうとしている。
流石に命のこのいきなりの変化を放置するわけにもいかないだろう。
『どうしたんだよ、その格好』
視線はモニターに向けず、MIDIキーボードの調整をしながら問いかけた。
「はいっ! 本日のお昼14時18分に、届きました鳴様からのメールに、オレの衣装に関するラフ案がいくつか届いていたのです! そのラフ案を基に、オレが再現してみました」
深琴の淡白なものでも、反応をもらえたことが嬉しかったのか、命はその水着姿に至るまでの経緯を、声を飛び跳ねさせながら報告してくれた。
『ラフ案って…あの人、今締め切りが近い仕事があるんじゃなかったのか?』
「メッセージには作業中もアイデアが止まらなくて、ラフ画に起こさないと集中できなかった、とのことなのです」
『…なるほど』
呆れて肩をすくめながら何か一言口にするつもりが、彼女の言い分を聞いて共感してしまった。まさしく自分も今、似たような状況だからだ。
そういうことなら仕方がない。問題はそのラフ画を、完璧な3Dモデルで完成させてしまう命の性能か。
深琴はPCの方で三河からのメッセージを確認するために、コミュニケーションアプリを開く。以前顔を合わせた後に、互いの連絡先を交換したのだ。
そこには確かに命の言うとおりのメッセージと、様々な衣装のラフ画が10枚以上送られてきていた。
線のみで描いたラフ画とはいえ、かなりの量だ。素人目にも、筆が乗っていると分かる。
それにしても、明らかに今回の動画リメイクでは使われないような服装もある。今命が着ている水着とか、メイド服まで…
『このイラストからでも再現できるのか』
「はいっ! とはいえ、しっかり3Dイメージが共有できる構成でなければ、再現は難しいですね」
つまりラフ画の段階でも、三河の絵は3D再現できるほどのクオリティと情報量であるということだ。第一印象は子供っぽい大人であるが、彼女は現在第一線で活躍しているプロのイラストレーターなのだ。
『…すごいな』
「本当にすごいのです! もっと色々な服装見てみますか? メイド服とかっ」
ウキウキではしゃぐ命のことは一旦無視するとして——
深琴は自分の心の中に熱い鉄球でも落とされたような気分になった。その鉄球はどんどん内側に侵入し、周囲を熱していく。
羨望、悔しさ…そのどちらでもないようで、どちらでもあるような感情。プロに対して抱くのはおこがましいことだろうか。
ただもう随分と味わっていない久しぶりの感覚だった。花音の歌や、氷上のギターを前にしても、こんな気分にはならなかったから。
三河もまた圧倒的な才能を持っている人だ。でもそれだけではない。彼女は自分の理想を、完璧に出力できる術を持っている。
深琴が音楽を始めてからずっとできなかったことを、三河は絵という方法で可能なのだ。彼女は今の自分よりもずっと前を歩いている。その事実が、たまらなく深琴の心を熱していくのだ。
創って生み出すしかない——熱は衝動に変わり、深琴は音を打ち込んでいく。叩いて、打って、頭の中にある音を引っ張り出していく。
そうすることでしか、結局前には進めない。果たして前に進めているかどうかは、わからないが。
そのまま深琴は勢いで創り切ってしたまった。無我夢中でぶつけただけの音楽だ。蓄積された眼精疲労が、今になって押し寄せてくる。
「マスターの新曲ですかっ!?」
それまで画面にも映らないようにして沈黙していた命が、画面端から顔を覗かせる。楽しみが堪えられないといった様子で、瞳を輝かせている。
『まだリズムパターンとかバッキングとか諸々仮置きの部分もあるけど、大体の雰囲気はね』
深琴は改めて作曲したばかりのその曲を、初めから再生する。仮置きのリズムや伴奏と王道の進行の上に、熱をそのまま乗せたようなメロディが流れ始める。
「ほぉー」
命はモニターでちょこんと座るようなポーズで、口を半開きにしながら深琴の曲を聴いている。
傍目で見ると間抜けな感じだが、果たしてその内部ではどのような処理が行われているのだろうか。
『…この曲、どう思う?』
ロジックで組まれた心を持つAIが、この曲について何を思うか、正直気になった。人の主観的な意見でもなく、機械の指標的な指摘でもなく、その間にある命の心は、何を想うのか。
「も、もちろん素晴らしい曲だと思うのです!」
突然曲の感想を聞かれて命はびっくりしたのか、困惑した様子で、しかし曲については賞賛した。
確かにもう一度聴き直しても、その曲は王道的で聴き馴染みやすく、音の配列も美しくできたつもりだ。
このまま仕上げればきっと”File:0”も超える境地の音楽が生まれるだろう。自分の理想に近づくこともできるかもしれない。
ただ何か釈然としない。そもそもAIとはいえ、誰かに自分の曲についてどう思うかを訊ねるのだって、今までになかった。
「ただ…えっと、そのぅ…」
深琴が眉根をひそめていると、命が恐る恐るといった様子で、何かを言いかけては口ごもっていた。
『何か、あるのか? 何かあるなら言って欲しい』
深琴は少しPCモニターに前のめりになる。自分でも言葉にできない違和感を感じているのだ。このモヤモヤとした感覚を放置したまま楽曲制作するのは気持ちが悪い。
「いや、その…オレが言うのはおこがましいのですが、少し…いつものマスターらしくない曲だなとは思うのです。もちろん、悪い意味ではないのですよ?」
『僕らしくない?』
「はい。マスターの曲は、とても超常的で、たとえアップテンポな曲調だとしても、静謐と感じる部分があったのです。でも今回の曲はその対極にあるように思えました。マスターはこんな曲も作れるのですねっ」
静謐さとは対極にある曲——最終的に命は賞賛の言葉で締め括ったが、その評価を深琴は脳裏で反芻する。
確かに三河に感化されたように、勢いで打ち込んだ音楽だ。王道のコード進行に、ありったけの熱意を入れた。いや、入れてしまった。
深琴の理想とする音楽は、無駄がなく、刹那的なものでもなく、普遍的で摂理的な美しさを体現することだ。
美しい音楽は、総じて美しい構造を持っている。でもその逆は——美しい構造が全て美しい音楽になるわけではない。
今回のようにシンプルで王道なコード進行を採用し、単純な構造で曲を制作しただけでは、やはりどこかに物足りなく感じてしまって、それを埋め合わせるために感情を乗せてしまった。
では絶対的な美しさを音楽で表現するためには、感情を完全に排するべきなのか。
機械的に作るだけでいいなら、とっくに音楽の答えは出ているだろう。それができていないということは、やはり人の感情は音楽と切っても切り離せないものなのだ。美しいと感じるのもまた、人の感情なのだから。
深琴は天井を見上げた。こんなのは、答えがまるで見えない堂々巡りの思考で、考えるだけ無駄だ。
自分は哲学者じゃない。結局ただ愚直に、音の一つ一つと向き合って、その意味を拾い上げていくことしかできない。
『そうだな…この曲は僕らしくないな』
深琴はトラックのノーツを全選択して削除した。その迷いない決断に、命はびっくりしたように目を見張った。
「い、いいのですかっ?」
『とっかかりは見つけたんだ。もう少し練ってみるよ』
悩むくらいなら一度リセットする。これまで通り、創ってそして捨てていく。これを繰り返していくだけだ。
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