File No.1
理論は決して創造に先行すべきではない
———アルノルト・シェーンベルク
皇深琴の朝は、デスクの上に充電しながら置いてある年季の入ったチョーカー型デバイスを首に装着することから始まる。
『あー…あー…あめんぼあかいなあいうえおー』
チョーカー型デバイスを起動させると、デバイスのスピーカーからは、機械音声の声が深琴の意思の通りの言葉を発する。
あめんぼの歌にした意味は特にない。今朝の自分の声の調子がわかれば何でもいいのだ。機械音声による発声だから、滑舌も別に関係ないし。
声の調子は今日も悪くない。深琴はあくびを噛み殺しながらリクライニングチェアに腰掛け、デスクPCの電源をONにする。
複数のモニターが一斉に点灯し、カーテンを閉め切った薄暗い部屋が、電子的な光によって照らされる。
PCが起動している間、深琴はスマートフォンで時間を確認する。今日は日曜日で、10時過ぎまで眠っていたらしい。まだPCは起動中だ。
深琴はそのまま何となくスマホを操作して、ニュースサイトを開く。別に読みたいものもなかったが、PCが起動するまでの間、適当にスクロールして文字を目で追った。
今日の最大のトピックは、とあるシステム会社をハッキングして情報漏洩させた犯人が捕まったという、今時珍しくもないニュースだ。
インターネットが発展し、あらゆる電子機器が進化して、それに合わせて革新的なプログラムが生まれてきた。その最たるものは、やっぱりAIだろう。
このニュースサイトで報道されているシステム会社をハッキングしたプログラムというのも、どうやらAIによって生成したものらしい。
AIの登場によって、今まさに時代が変わっていく最中にある。あらゆるタスクがAIに代わり、どんどん便利になっていく一方で、悪事を働く輩の手助けにもなっている。
『いつの時代も足を引っ張るのは、悪いことを考える人間だなぁ』
深琴は憂うように機械の声で呟いた。思ったことはできるだけ声に出す癖をつけている。そうしないと、すぐにしゃべることを忘れてしまうからだ。
機械は使い続けないと劣化が早まってしまう。このチョーカーデバイスも意識して使わないと、いざという時に声が出せなくなるかもしれない。
皇深琴は生まれつき声が出せない病気を患っていた。だからこの機械の調子が悪くなると、一切喋れなくなってしまうのだ。
『——あれ、PC重いな…』
スマートフォンからふと目を離して、深琴はまだPCの起動が完了していないことに気がついた。いつもならとっくに起動しているはずのに。現代社会への憂いよりも、深琴にとっては目の前にある自分のPCの調子の方が重大だ。
このPCもかれこれ1年半は使い続けているし、そういうことも起きる頃合いということだろうか。
ただ一度起動してからの挙動に問題はなかった。それであれば、今日の作業に支障は出ない。深琴はほっと胸を撫で下ろした。
『さて今日もやるか』
そして慣れた独り言で気合を入れると、深琴は音楽制作に使うために必要な一連のソフトを立ち上げていった。
皇深琴は声が出せない。首につけているチョーカーデバイスがなければ、鼻歌すら口ずさむこともできない。
それでも深琴は音楽と出会ってしまった。それ単体では単なる音が、美しく重なり合い、共鳴して、曲という一つの解が生まれる。
その瞬間の感動と、生まれるべくして生まれたとしか言いようが無い、啓示を受けたような神聖な感覚に、幼い頃の深琴は強く憧れてしまった。
あの時の感動から、深琴の脳内には理想の音楽が流れ続けている。しかしそれを完璧に出力する方法がなかった。
世の中の人たちは自分の中にある感情を、自由に歌うことができる。あるいは楽器というツールを使って、思いのままに表現できる人もいるだろう。
ただ深琴にはそのどちらもできなかった。歌は言わずもがな、楽器もいくつかやってみたものの、その方法で自分の理想が体現できるイメージがまるで湧かなかった。
まさに生殺しで、これからの人生ずっとそれが続くと思うと絶望的だった。でもそんなある日、深琴は電子発声が可能になるこのチョーカーデバイスと出会った。最新鋭の技術によって、喉や舌の筋肉の動きを検知することで、デバイスのスピーカーから電子の声を生み出すことができるそれは、深琴の中に革命を起こした。
普通の声と比べたら、チョーカーから出力される電子の声は、感情がなく機械的だ。今となっては、技術も進んで人の声に近い滑らかで感情も表現できるような機種もあるが、それでもあえて深琴は、機械的な声を出す最初期の機種を使い続けている。
機械を通して作られる電子的な音。周囲の環境や、人の感情に左右されず、普遍的で純粋な、無駄の一切が削ぎ落とされたそれは、他の人からすれば、稚拙と表現するかもしれないが、深琴にとってはまさに理想の音楽を体現するのにずっと求め続けていた音だったからだ。
だから深琴にとって、立ち上がった楽曲ソフト達と、そこに繋がれたMIDIキーボードを利用したDTMこそ、自分の脳内に流れる理想を表現するための半身みたいなものだった。
ソフトを立ち上げながら、深琴は癖になっているような操作で、インターネットブラウザも開き、動画配信サイトを開く。
そこには深琴が作曲し、動画として投稿している曲が黒背景に白いタイトルの字だけのサムネイルとして並んでいる。再生数はどれも三桁くらいで、お世辞にも再生されてるとはいえない。
無理もないだろう。動画は全部黒背景だし、楽曲も全て歌なしのインスト曲。冷静に考えれば、むしろ三桁の再生回数は破格だ。
そもそもたくさん再生されたいがために投稿しているわけでもない。あくまで記録用であり、音楽が自己完結してしまわないようにするための言い訳みたいなものだ。
多くの人に聞いてもらわなくてもいい。ただ自分の中だけに収めていては、それは音楽足り得ないから、そうしているだけ。
深琴は気持ちを切り替え、インスト動画配信者”Smith”として投稿しているものの中で、一番最近アップロードした動画にカーソルを合わせる。
現在深琴は音楽制作において行き詰まりを感じていた。だから今日はまず直近の自分の音楽を聴き直して、方向性の再確認を行おうとしたのだ。
そして動画を再生しようと、サムネイルをクリックしたその瞬間——目の前のモニター全てが黒画面になった。
『…は? 落ちた?』
突然全てのモニターの表示が消えてしまって、深琴は咄嗟にPCがクラッシュしたのかと、本体の筐体に視線を落とすが、筐体の方の電源は切れていない。
モニターが壊れたのだろうか。そう思って立ち上がり、モニターの調子を見ようとしたその時、ふいにモニターが点灯する。
『まさかモニターも寿命なのか…まいったなぁ』
深琴はため息をつきながら、心の憂いを独りごちる。それにしても、いきなり全モニターが調子を悪くなるというのは、他に何か原因もあるかもしれない——
そんなことを考えていると、立ち上がったモニターの画面に「Now Loading」の文字が表示されていることに気が付いた。深琴が使っているどのソフトの読み込みとも違う。
次の瞬間、PCのスピーカーから心臓を持ち上げられるようなけたたましい警報音が鳴り響く。
次々とモニターにエラー表示が現れ、一瞬で埋め尽くされてしまった。
深琴の脳裏にコンピューターウィルスという言葉が過ぎる。
思ったことを口にする癖が完全に停止して、深琴は固まってしまった。PCをよく使う深琴ではあるが、こんなウィルスへの咄嗟の対応ができるほど専門的な知識があるわけではない。
モニターの画面にノイズが走り、エラー画面以外の文字化けまで発生する。
あぁ、これはダメだ。PCの故障だけではなく、内部にあるこれまで作成した楽曲データまで失われることへの絶望に顔を青ざめさせていくと、今度はモニターの端からエラー画面が消えていく。
『今度はなんだよ、もう…』
既に諦観した思考に至りつつあった深琴は、力無い瞳をモニターの中央に向けていた。
やがて全てのエラーダイアログが消えた時、その中央に——少女がいた。
身を縮こませて眠っているようにしている、女の子のキャラクター。白に近い淡い水色の髪に、前髪の一部だけが青く、その髪色に合わせたかのような青と白を基調として大きめのパーカーを着ているようなデザイン。
そして寝息を立てているような口元から覗く歯はギザギザとしている。何かのアニメのキャラクターか、あるいは現代のエンタメにおいて代表とも言えるVtuberのようなキャラクターのようだ。
『なんだ、これ…』
深琴は思わずモニター越しに、そのキャラクターに触れてしまう。まさかその感触が伝わったわけではないだろうが、そのタイミングで彼女が目を覚ます。
透き通った翠の瞳と、幾何学的な虹彩が輝く金の瞳のオッドアイがゆっくりと開かれて、深琴の意識はその神聖さも感じるような深淵へと引き込まれていった。
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