その後の話 新しい家族はタロイモを洗うのごとく
澤ちゃんが(ようやく)私にプロポーズしてくれたのは出会ってから何と26年目のことだった。
とはいえ澤ちゃんが最愛の奥さんを亡くしたのは12年前で、その頃の私と澤ちゃんはもちろん会社の同僚というだけの間柄だったことは言うまでもない。
元々ちょっと変わったヒトだとは思っていたけれど、澤ちゃんは奥さんを亡くしてから更に妙ちくりんな人間になってしまった。
奥さんの葬儀から半年、そして1年と、だんだんと仕事も日常も通常営業に戻っていったように見えて私はとりあえずホッとしていた。
ホッとした…のはいいのだけれど、何だか変なことを口走るようになったのだ。
「トマトの声を聞いたんだ、河ちゃん。鶏肉の煮込みを作って美空に食べさせたらさ…」
16年の長きにわたって相棒をつとめる私でもそれは引く。
澤ちゃんは娘の美空ちゃんの話になると、そういうファンタジーを語り始めるのだった。
プロポーズの時だってそうだ。
会社の帰り道、いきなり橋の上で立ち止まった彼が意味不明のことを言い始めた。
「…ええと。その、夢でだね、バナナが出てきて、いや鈴さんが俺に説教を、そんなバナナと思うかもだが」
鈴さんは亡くなった澤ちゃんの奥さんの名前だ。
「バナナが、いやそれは鈴さんなんだけど、ちゃんと向き合えと説教を。そ、その幸せについて」
澤ちゃんのグダグダな(おそらく告白を)私は遮る。
「落ち着け、澤ちゃん。何の話が始まったの?」
私もこの歳になって今さらだけど、何だか二人の距離感が変化しつつあるのは感じていたので、多少の予感と緊張感は持っていたのだ。
ところが澤ちゃんのグダグダぶりはまだ続く。
「…ええとだね。俺としてはその、ずっと一人で生きていこうと思ったときもあったのだけれど、しかし、その河ちゃん…いや、華子さんと、い、いっひょ、いや、いいい一緒にいると心が落ち着き、あの…」
たった今まで私は若干イライラしていたのに不思議なもんだ。
概ね支離滅裂だけれど、多分一生懸命愛情を伝えてくれようとしている澤ちゃんの大真面目な汗かき顔を眺めていたら不覚にも私は涙を流してしまっていた。
「…澤ちゃん、しっかり言って。簡単な一言でいいんだよ」
恥ずかしさで何だかクネクネと身体を捻っていた澤ちゃんの動きがピタリと止まった。
「…うん。河ちゃん。…俺と…結婚して欲しいんだ」
「私はもうじき50歳、あなたは還暦よ」
私は泣き笑いで彼の顔を見つめる。
「駄目か?残りの人生、…一緒に歳を取っていって欲しいんだ」
「駄目なわけないじゃん。ずいぶん…10年待ったじゃんか」
私はきっと多分おそらく初恋の彼の胸に頭を預けた。還暦の胸に。
実を言うと私は初婚ではない。
22歳の時、大学時代からずっとつきあっていた彼と結婚して2ヶ月で離婚した。
何が悪かったのかよくわからないので、要するに自分は結婚に向いてない人間だとすっかりそう思い込むことにして、それ以来『家庭』とか『家族』という単語は心の辞書から削除したのだった。
つまりこれは恋愛ではなかったのだと思う。
今の会社に勤め始めて2年目に三十代半ばくらいの澤ちゃんが入社してきた。
何が悲しくてかは知らないが、証券会社のバリバリエリートコースを外れて年収を半分にしての転職だという噂だった。
「文房具が好きで好きで、それで転職してきました。…ええと、私は大丈夫でしょうか?」
という挨拶で失笑と拍手を受けた彼は私と一緒の開発チームに所属することとなった。
歓迎会の隣の席で少しだけ話したが、その頃の澤ちゃんについては、まあ、大して記憶がない。
何しろ話題のほとんどが愛しい奥さんと生まれてくる赤ちゃんの話題で、そりゃ心の辞書から『家族』を削除した私からすると内心『知らんがな』としか言えなかった。
もちろん実際は口には出してないけれど。
とにかく澤ちゃんは職場でのパートナー、長いことそれ以上でもそれ以下でもない存在だった。
結婚式をグアムで挙げるというのは澤ちゃんじゃなくて彼の娘さん、美空ちゃんの提案だった。
美空ちゃんの旦那のイグレシアスさんというのがグアムの大富豪だと知ったのはその時だ。
結婚式をイギーの経営するペンションで挙げたその後、建物の前で澤ちゃんが自慢した。
「傾きかけた経営をイギーが見事立て直して。どうだすごいだろう」
誇らしげに言うが、あんたが威張ることではない。
「ね、河ちゃん。イギーすごいでしょ。今じゃグアムにホテルが2棟、ペンションが7カ所だよ」
美空ちゃんも胸を張る。澤ちゃんと二人鼻の穴を広げてるが、よく似た親子と言わざるを得ない。
澤ちゃんの愛娘、美空ちゃんは現在グアム大学の大学院で精密機械工学を研究している。多分来年には博士号を取得できるらしいと彼が言っていた。
ものすごく優秀なのはわかるけど、何を研究しているのかと澤ちゃんに訊いた。
「ネジだよ。ネジ。うちの娘はネジに夢中なんだ」
最初は冗談かと思ったのだけれど、後ほど美空ちゃんの家に行って大きな工作台とそこに広げられた大量のネジを見て私は愕然とした。ホントだったんだ。
…澤ちゃんの娘だから変わり者かもとは思っていたけれど、予想の斜め上だった。
でもネジと聞いてちょっと思い当たることもあるっちゃある。
それはもう20年以上も前、確か美空ちゃんは三歳だったと思う。
澤ちゃんは企画部で少しずつ実績をあげていた。
彼が関わった小学一年生向けの「はじめてシリーズ」が着実に売り上げを増やしている。
部長が彼にソフトウェアのクリエイター能力検定を勧めたのはそんな時だ。
今度は完全に一から文房具の新商品シリーズを立ち上げてみないかという抜擢だった。
文系でPCは苦手だった澤ちゃんは一念発起して勉強した。
本来の業務が滞って休日出勤が多くなったのもこの頃で、奥さんの都合が悪いときは美空ちゃんを会社に連れて来ることも何度かあった。
前述の通り、私は正直言って11歳上のこのオッサンにはこの時点でさほどの興味はなかったが、仕事については、時々変に面白かったので休日出勤にもよくつきあった。
会社で美空ちゃんは大人しかった。絵本を読んだり、スケッチブックに絵を描いたり、じっと澤ちゃんの仕事を眺めていたり、それほど手はかからなかったが、それでもさすがに時間を持て余す時がある。
そういう時はちょくちょく私が相手をした。
私は家庭や家族は駄目でも子供が好きだったし、特に美空ちゃんは興味深かった。
「タロしゃん、べんきょうにがてだけど なきながらがんばってるの」
「ほうほう」
「すぐに ははのところにいって 『ほめてほめて』ってゆうの」
「プーーーーッ」
私が吹き出すと、近くの席でPCを叩いていた澤ちゃんが中年らしくズッコケながら赤面する。
「み、美空、変なレポートをしないように!」
そんな時期のある日、美空ちゃんは課の片隅で大きな段ボール箱をいじっていた。その中にはうちの会社製造の老眼鏡が大量に入っていた。
アースカラーの老眼鏡はまったく売れず、在庫の一部がたまたま置きっぱなしだったのだ。
「かわちゃん、これちっちゃい、かわいい」
「あらあら」
老眼鏡の『丁番』というフレームのつなぎ目を小さな小さなネジが繋いでいる。
よく眼を凝らすとその極小のネジが美空ちゃんの左手の平にあった。
ネジが自然に緩んで外れたのかと思ったら、彼女の右手には何と丁番用のマイクロドライバーが握られている。
三歳の子にしてはずいぶん器用だと思ったが、この調子で分解されては後が面倒だ。
「…美空ちゃん、ネジ外しちゃったの?」
「うふふ、ネジぐるぐるした」
美空ちゃんが得意満面の笑みだ。何が嬉しいのか不明だけど。
私は床に座っている美空ちゃんの側に寄って仰天した。
ひとつふたつではない。美空ちゃんの近くの床にネジが多数散乱している。
「あああ…美空ちゃん」
私の顔色を見て、さすがに美空ちゃんが(だめだったの?)という表情になった。
「かわちゃん、ごめんなさい」
しょんぼりして言う美空ちゃんの頭を撫でる。
「いいよ、いいよ。元に戻そうね。手伝うから」
それにしてもこのドライバーって三歳の女の子に扱えるものなのだろうか、と私は首を捻った。
…確か課長の机上に同様のドライバーがあったと思い、取りに行った。
「大丈夫。大丈夫。でももう外しちゃダメだよ」
美空ちゃんが私を見上げた。
「みく、もとにもどすね」
外すよりも締める方が難しいはずだ。私は後ろを振り向きながら答えた。
「うん、でも私も手伝うから一緒にやろうね」
ちょうど3分後、私がドライバー片手にそこへ戻ると、驚くべき事に多分数十本あったネジがすべて元の位置に戻っている。
「ええっ?」
ラストひとつをちょうど美空ちゃんが締め直しているところだった。
極々小さいネジをヒョイッとドライバーの先にくっつけ、シュルシュルと素早く回転させる。
…絶対おかしい。『ネジを締める天才』なんてこの世にいるの?何のための才能?
後ほどこの話を聞いた澤ちゃんが美空ちゃんの頭を撫でて笑う。
「ワハハハハ、美空はすごいなあ。可愛い上に天才的に器用だ。おまけに超絶可愛い」
「えへへへ、ほめらいた。みくてんさい。みく、ちょぜつかわいい」
私はため息をつきつつ、二人で鼻の穴を広げて笑っている親娘を眺めた。
澤ちゃんが奥さんを病気で亡くしたのはそれから10年後、見ているのもつらくなる様子だった。
その時、私は同情の他に『何だか羨ましい』という複雑な感情を味わった。
あんなに澤ちゃんに愛されているあの人が羨ましい…と思うのだから私はもうその時には彼に惹かれていたのかもしれない。いや、きっとその前からずっとそうだったのかも。かもかも。
中学生になって反抗期を迎えた美空ちゃん、バイトを許可するかどうか、大学受験での親子の葛藤、いきなり外国人の彼を連れて来られて仰天する澤ちゃん…その時々で親子がいたわり合い、絆を深め合っていく様子を側で見ていくうちに私の心も何だか変わっていったんだろう。
美空ちゃんが大学受験で家を出て行き、そしてさらに数年後、今度は彼と結婚し同時にグアムの大学に留学するため旅立った頃、澤ちゃんは初めて私に弱みを見せた。
それまでは「何でもないよ、大丈夫」が決まり文句だった彼が私に言った。
「河ちゃん、俺はこれから誰の為に料理をつくったらいいんだろう」
グアムで久しぶりに美空ちゃんと会う前、少しだけビクビクしている私がいた。
美空ちゃんは私が澤ちゃんと結婚すること、どう思ってんだろうと。
会社のみんなは「やっとか、この二人」って反応だった。
(丸谷という奴が「ええっ?まだ結婚してなかったんですか?」と本気で驚いていたのできつく説教した)
私の実家の年老いた両親は涙を流して喜んでくれた。
でも…あれだけ愛されてきた奥さんとその娘さんのところに割り込むような私を美空ちゃんは受け入れてくれるんだろうか。
美空ちゃんとその旦那が空港で私と澤ちゃんを出迎えてくれた。
姿を見つけた瞬間、美空ちゃんがこちらに走り出したのが見える。
お父さんがそんなに好きだったんだ。澤ちゃんも嬉しそう。少し妬ける。
だけど、美空ちゃんが走ってきて最初に抱きしめたのは私の方だった。
「河ちゃん!ありがとう!本当にありがとう!」
瞳を潤ませて私に感謝の言葉を何度も浴びせる。
そして何も言葉が出ない私を抱きしめたまま、澤ちゃんに眼を向けた。
「父、ホント、大事にしないとだめだからね!こんな幸運はもう二度とないからね!」
「美空…お前なあ」
澤ちゃんは娘と抱き合うために広げて待っていた腕をワナワナと震わせた。
ゆっくり近づいて来た美空ちゃんの旦那が澤ちゃんのその腕にヒョイと飛び込む。
「オトサン、ダイジョブ。イロンナハナシシマショ。ハレタライイネ」
こいつも変わってる。私はこの一家に関わってダイジョブか?
イグレシアス君と美空ちゃんに案内されたのは『豪邸』だった。
巨大なキッチン、巨大なダイニングテーブル…その雰囲気に私は若干緊張して勧められるまま着席する。
とはいえ、先ほど美空ちゃんの作業台をちらりと見学したし、何しろあの澤ちゃんの娘だ。いわゆるハイソなディナーになるとは思えない。
案の定、というか何というか、食卓に登場したのは「茄子の焼き浸し」「ゼンマイのお浸し」「キャベツのゴマ和え」「油揚と小松菜の豆板醤炒め」…素朴にもほどがある落ち着く味わいのオンパレードだ。
「美空…こりゃいったい」
その素朴料理を見て眼を潤ませているのは父親の澤ちゃんだ。
「えへへ、ネジ作ってるだけじゃないんだよ、私も」
美空ちゃんが笑う。
食事をしながら聞けば、その昔奥さんを亡くした澤ちゃんが『血と汗と涙とその他もろもろを流して会得した家庭料理』の数々らしい。
ははあ、澤ちゃんが涙ぐむわけだ。
まあここのところ澤ちゃんはずいぶん涙もろくなったし、お酒にも弱くなったけど。
「ミク クッキンジョウズ。 ボクシヤワセ イギーカンゲキ」
この能天気がグアムの若きホテル王とは。
「ボクモ ヒトサラ」
イギーが持ってきたのはこれまた素朴な煮物だ。
「これは…『里芋と人参の煮っ転がし』でいいのかな?」
私の問いにサムズアップするイギー。
「デモ コレ、サトイモジャナク タロイモ。ホクホク オイシ」
「タロイモ?」
「ソウ。ヨクニテルケド コッチノイモ。タロイモサン、タロサン」
イグレシアスはニコニコ笑って、澤ちゃんの隣に座った。
「何か腹立つ。ここまでの感動を返せ。イギー」
「モガ」
澤ちゃんがイギーを睨んで彼の頬を両手で挟むと美空ちゃんは嬉しそうに笑った。
変な家族だわ。ああ、私もこれに加わるのか…。
恐る恐る口にすれば完全なる和食の味付け、だしと砂糖醤油で煮付けられた芋と人参、鶏肉がむしろ懐かしい味だ。
「うん、イグレシアス。これは美味しい。やるねえ」
それにしてもグアム料理とか出す気はないのかな、この家は。
うん…?
タロイモのでかいのが私の手元に置いてある。なんだ、これ?
「河ちゃん、ありがとね。私からも心から」
タロイモが正座してペコリと。
「えええええええっ」
「どうしたの?河ちゃん?」
美空ちゃんが怪訝な顔で私を見た。
「いや、あの、その」
ふと見るとすでにイモはいない。私もお酒に弱くなったのだろうか。
ところが美空ちゃんがニヤリと笑った。
「ねえ、何か出た?」
澤ちゃんも微笑む。
「バナナか?トマトか?わかった、イモが喋っただろ」
こんなヒト達と家族になってホントにダイジョブか、私。
「オウ、ボク マダ ミタコトナイ。サビシ カナシ ダイスキ」
何言ってんだ、このガイジン。
賑やかな夕飯が終わって、飲み過ぎた澤ちゃんは寝室へ、美空ちゃんが片付けをするのを私も手伝おうとキッチンへ向かう。
アイランドキッチンで美空ちゃんが私と向かい合った。不思議な構造の台所だ。
美空ちゃんの後ろ側がパントリーになっていて食材が並んでいる。
洗い物の手を止めて美空ちゃんは私を正面から見つめた。
「タロちゃんは母が大好きでした」
私は目を伏せた。
「…」
「そんなタロちゃんだから心配してたんです。もう誰にも頼れないんじゃないかって」
…?ん?気のせいか…?何か後ろの野菜が動いたような気が。
「何度もこっちに来ないかって、そう話したんだけど。まだやりたいことがあるし、大切な人もいるからって」
美空ちゃんが泣き始めた。
「私、嬉しくって。タロちゃんを一人にしちゃったの私だし…」
…野菜が動いてる。今トマトが立ち上がった。
こんな超常現象を眼の前にして私は何とも思わない。怖くもないし、すごく不思議だけど何だか温かい気持ちだ。
美空ちゃんの背後、パントリーの野菜達がみんな立ち上がって、こっちを見ている。
先ほどのタロイモを先頭に、茄子が、キャベツが、小松菜が、バナナも…顔はよく見えないのに笑ってるのがわかる。
「河ちゃん、…たろしゃんを、たろしゃんをよろしく…よろしく…おねがいしましゅ」
頬を濡らし鼻声で言う美空ちゃん。
やばい。私も泣けてきた。
「うんうん。だいじょぶ。私も澤…タロさんが大好きだから…きっと大丈夫」
美空ちゃんは私の手を両手で握った。
「河崎さん、華子さん。…んん、華ちゃん、父に、タロちゃんに出会ってくれてありがとう」
美空ちゃんが頭を下げると…後ろの野菜達も一斉に深々とお辞儀をした。
読んでいただきありがとうございました。
この後日譚で終了です。
食いしん坊なので、食べ物や料理をキーにつかうお話を書くのは楽しいのです。
完結はしましたが、タロイモが主人公に孫の誕生を告げるエピソードが入りませんでした。
どうしましょう。またいつか。よろしければ、ぜひ。