最終話 すべてには終わりがあって、バナナにはそれが二つある
「…タロちゃん、タロちゃん」
懐かしい声ともっと懐かしい膝枕の感触に俺は目覚めた。
「…鈴さん?」
「起きた?」
いつの間にか鈴さんの膝枕で眠っていたらしい。
それにしてもここはどこだ。
淡いピンク色の壁に大きな窓、鈴さんはその窓辺のソファで座っていた。
窓の外には淡い夕焼け空に浮かぶ茜雲が見える。
俺が美空のことを想って作ったあの空の色だ。
俺はソファに寝転んだまま鈴さんの顔を下から見上げた。
死んだはずの彼女は出会った時と同じ白いワンピース、若々しい顔に柔和な微笑みを浮かべている。
「変わらないな。俺はこんなしょぼくれた親爺になったのに鈴さんは綺麗なままだ」
「まあ、上手ね。娘をお嫁さんに出すくらいの年齢になると言うことが違うわ」
俺は…花嫁の父親の衣装だった。
あれ?さっきまで美空の結婚式が始まるのを待っていたはずだったが。
「タロちゃん、座って。外を見て」
妻に言われるまま、起き上がって窓の外を見る。
ウエディングドレスを着た美空が幸せそうな笑顔で花畑に立っている。
当然のような顔で隣にいるイグレシアスに俺は少しだけ苛立った。
美空を保育園に迎えに行った帰り道、小学校で登校を渋って愚図る娘と一緒に通った通学路、高校受験の合格発表…珍しく緊張する美空に手を握りしめられてくぐった門。
美空の成長と共に手を繋いだり、隣を歩くことも少なくなった。
今娘はイグレシアスの横で微笑んでいる。
「タロちゃん、まだお婿さんに嫉妬してるの」
鈴さんが呆れたように言う。
「嫉妬なんかじゃ…なくはないか」
鈴さんは優しく笑って俺を抱きしめた。
「今までありがとう。頑張ったね、タロちゃん」
鈴さんが身体を離して、軽く頭を下げる。
「…俺は出来たのかな?ちゃんと」
自分の言葉で子育ての終わりを実感した俺は何だか無性に悲しくなる。
「もちろんよ。しっかり見てたわ」
鈴さんが俺の手を握った。
俺はずっと抱いていた疑問をふと漏らす。
「そういえば…何であんな野菜に化けて出てきたんだ」
「ええっ…ばれてた?」
彼女は心底から意外だという声を出した。
「当たり前だ。割と最初の頃からな」
「まあ」
「まあ、じゃないよ。俺や美空のことを知りすぎてるし、仕草も物言いも君っぽかった」
今度は俺が呆れる番だ。
「わざわざ乱暴な言い方を心がけた私の努力は」
「『片腹痛いわ』とか『ボケナス』なんて今時誰も言わない。地獄の黙示録やターミネーターもネタが古いし、それから」
鈴さんが両手で顔を覆った。
「ああ、もういいわ。言わないで。残念にも程がある」
「…でも」
俺はようやく顔をあげた。
「…」
「鈴さんが化けて出てくれなかったら、俺はこれまでやってこれなかったよ」
「人を妖怪か幽霊みたいに」
彼女は文句を言いかけてから首を振る。
「ううん、タロちゃん。美空があんなに幸せそうな顔でお嫁に行けるのはあなたのおかげよ」
鈴さんがもう一度、窓の外の美空とイギーを見て微笑んだ。
空は俺の一番好きな『美しい空』の色になりつつある。
暗い青と紫からオレンジ色へのグラデーションが広がる刹那のマジックアワーだ。
この時間ならば本当に不思議なことが起こってもおかしくないような気がする…って、死んだ妻や野菜と会話してる俺が言うのもなんだけど。
それにしても綺麗な空の色だ。
そういえば昔…ずいぶん前に同じくらい綺麗な夕焼けを家族三人で見た記憶がある。
あれは美空がまだ幼い頃、家族三人で出掛けたグアム…いや違う、バリ島の夕焼けだ。
砂浜に置かれたテーブルで夕焼け空を眺めながら食事をした。
ナシゴレン(チャーハン)とミーゴレン(焼きそば)とシーフードが何皿か。
俺は傍らに置かれた三枚の小皿を見る。
一枚の小皿に真っ黒でドロリとした液体が入っている。多分辛いやつだ。
残りはもう少しシャビシャビの醤油?らしきもの、さらにもう一枚は透明の液体調味料が入っていた。
俺はドロドロが妙に美味そうに見えて手に取る。
「タロさん、あんまりかけない方が。多分すごく辛いやつよ」
鈴さんも同意見のようだが、たいがいの男は馬鹿なので辛いものが平気な方が男らしいと思っている。
五歳の美空も俺を見た。
「タロしゃん、からいからやめとくの」
「ワハハ、父は辛いものが大丈夫のヒトなのだ」
俺はナシゴレンにそれをドバッとかける。
口に入れた瞬間は平気だったのに一瞬置いて猛烈に辛くなった。辛いを通り越えて痛い。
「アふぁふぁふぁ。ヤバイヤバイ。痛いイタイ!」
俺が氷水をゴクゴク飲んで眼を白黒、額から汗を拭きだしているのを見て二人は爆笑した。
ヒーヒー言っている俺を尻目に、鈴さんがその横の醤油らしき液体を手に取る。
「こっちの醤油みたいのをちょっとかけるくらいでいいのよ」
スプーン半分ほどヤキソバにかけ、口いっぱいに麺を頬張る。
「…?ん?…ああっ!辛っ!辛い!」
それもやっぱり相当辛い調味料だったのだ。
俺たち夫婦が真っ赤に腫れた口をハヒハヒしていると、止める間もなく美空が透明な液体をそのままスプーンでペロリと舐めた。
「あっ、美空。何すんだ」
「美空ちゃん、大丈夫?」
美空はキョトンとしている。
「…んんん?ちょっとからいかも」
そういうことか、これは酢みたいなものかな?と俺もその透明液をスプーンで試してみる。
「!」
…超辛かった。
結局『サンバル』というインドネシア独特の調味料で種類は違えど、全部辛いものだったのだ。
腫れた唇にまたダメージを負い、俺は悶絶する。
なぜ美空が平気だったのか、未だに謎だ。
ヒーヒーと騒ぐ俺たち夫婦を見かねて現地の客が温めのバリコーヒーをくれた。
「ミズヨリ コッチ」
「ヌルイ コピ カライノ オサマルヨ オトサン」
…そうか、「オトサン」つながりで思い出したのかもしれないな。
確かに温いコピ(バリコーヒー)は多少俺と鈴さんの口周辺を回復させた。
二人で笑い合ってもう一杯コピを注文し、助けてくれた隣のテーブルの男性にビールを振る舞った。
するとまたその男性が教えてくれた。
「デザート バナナ オイシイ」
「へえ」
まあ、バナナは嫌いじゃないけど。
メニューを見ると生のバナナではなくて「ピサンゴレン」という揚げバナナだった。
完熟していない青いバナナを天ぷら風に揚げて粉砂糖をふっただけの素朴なお菓子だったが癖になる風味で、俺はこれもお替わりをした。
揚げたほんのり温かいバナナを頬張り、そろそろ夕闇に消える海の風景を眺めた。
鈴さんが俺を見て微笑む。
「いつかこの娘がいい人を見つけて」
俺は唇を尖らせて話を遮った。
「何だ。いい人って」
「なになに?いいひとって」
美空も繰り返す。
「もう…」
鈴さんはお話にならない、と言う顔で肩を竦めた。
「結婚式はこういう南の島で挙げるなんていいかもって思ったのよ」
「…」
美空が揚げバナナを口いっぱいに頬張って俺を見る。
「モグモグ、タロしゃんとここでけっこんしきする!モグモグ」
俺はすっかり上機嫌になる。
「そうか。美空はタロさんと結婚するか」
「ふふっ、親馬鹿じゃなくて…馬鹿親だわ」
鈴さんが頬杖をつきつつ、それでも楽しそうに俺と美空を交互に見た。
美空が俺の膝の上に移動してコアラのように抱きつく。
「むひひ、タロしゃん、ばかおや」
鈴さんが吹き出し、俺も笑ってしまった。確かにまあ、馬鹿だからな。
俺は膝の上の美空を見る。いつかそんな日が来るのかな。
俺も鈴さんも歳を取っているんだろうな。
それも悪くない。
俺は美空のふっくらした頬を両手でムニュッと挟んだ。
「うひひ、タロしゃん、なにするの」
「いつか大好きな人ができたら、隠さないでちゃんと連れてくるんだぞ」
「?」
頬をへちゃむくれにしたまま、美空が首を傾げる。
鈴さんは黙って俺と美空を眺めている。幸せそうだ。
何だか不思議な夢でも見ているような時間だな。
「俺のお眼鏡に叶う男だったら許してやらないこともない」
俺はもう一度美空の頬をギュッと挟み直す。
鈴さんがハアとため息をつきつつも、また笑った。
「きゃっ!むひゃひゃひゃひゃ」
美空は無邪気に笑っている。
俺の、俺と鈴さんの宝物だ。
夜の海からは静かな波の音がきこえるばかり。
俺の口から自然に出てきたのはずっと思ってはいたけれど、言葉にしなかった一言だった。
「美空。生まれてきてくれてありがとう」
あの空と海の思い出はもう20年近く前のことになるのか。
ピンク色の壁が何だか滲んで見える。
それどころか部屋やソファ、鈴さんの輪郭までもボンヤリしてきたように思えた。
「あのね、タロちゃん」
向き直った鈴さんが俺を複雑な顔で見た。
二人の間にほんのしばらく沈黙が訪れる。
先に口を開いたのは俺だ。
「これで…お別れなのかい?」
「わかるの?」
彼女はつらそうに俺を見る。
「何となく解っていたよ。美空が俺たちの手を離れるまでなんだろうと」
無理矢理笑顔を作ろうとして完全に失敗しているのは自分でもよくわかった。
「ごめんね、タロちゃん。行かなきゃ」
駄目だとわかっていても、そして妻を困らせるだけだとわかっていても、俺は気持ちを抑えることが出来なかった。
「ずっと一緒に歳を取っていきたかった。もっと鈴さんのご飯が食べたかった。美空と三人でいろんなところへ出掛けたかった。…それから、それから…もう一度、鈴さん…」
鈴さんが俺の胸ポケットからハンカチを抜いて頬を拭く。
「花嫁の父が泣くのはまだまだ早いわ」
ハンカチを綺麗にたたみ直してポケットに収めると、彼女は俺を再び抱きしめる。
「ごめんね。一人で先に逝ってしまって」
「…俺はどうしたら…いいんだ。…料理だって…できないじゃないか」
涙が止められないまま、俺は子供のように駄々をこねた。
鈴さんが困った顔で俺を見る。
「散々お料理は教えてあげたでしょう。…あなたはそろそろ前に進んでいかなきゃ」
「鈴さん、嫌だ。行くな」
どんどん薄れていく妻や部屋の輪郭に俺は焦って立ち上がる。
眼の前に薄いピンクの靄が立ちこめ、さっきまで俺を抱きしめていた彼女が見えない。
「どこだ、鈴さん」
霧の向こうの夕焼け空から妻の声が聞こえた。
「頑張れ、タロちゃん。いつかまた会えるわ」
「あれ、ここは…」
俺はボンヤリとした頭で眼をさます。
「父、結婚式の前に花嫁の膝でグッスリ眠るとか…あんまり聞いたことないよ」
ウエディングドレス姿の美空が笑って俺を見下ろす。
「あっ、すまん。ドレスが皺に…」
俺はいつの間にか美空の膝枕で眠ってしまったらしい。
まったくあり得ない。
椰子の木の下、日陰のベンチに俺と美空はいる。
この南の島の教会で結婚式を挙げるのは別に鈴さんの遺言とかではなく、イギーと美空の強い希望によるものだ。
式の前にとられた親子で過ごす時間、何だかわからないが俺はぐっすり眠ってしまったらしい。
慌てて起き上がる俺に美空が手を振る。
「気にしなくていいよ。そういうのも含めて父らしいよ」
ホントか?こういうことってよくあるのか。
「ねえ、父。初めて言うんだけど…」
美空が首を傾けて話し始めた。
「笑わないでよ。母さんが亡くなってしばらくして」
「ずいぶん昔の話だなあ」
美空は少しだけ間を空け、恥ずかしそうな顔で切り出した。。
「ある日バナナがいきなり立ち上がったの」
「…」
「ほら、やっぱり馬鹿な話だと思うよね」
俺は首を振る。
「信じるよ。理由は省略するが俺にはわかる。バナナはお前に何を言った」
「え?喋ったとは言ってないけど…。まあ、いいわ。父のことよ」
なぜ美空は今このタイミングで俺にこんな話を始めたのか。
俺はまだ妙な夢の続きを見ているのかな。
「バナナが手を振り回しながら『お前が親爺のことを守るんだ。タロさんの心を守ってくれ』って。こうやってこうやって腕を振り回して必死に」
美空が小さく腕を振って微笑む。
「…」
「それから言うの『すべてのことに終わりはある。しかし俺にはそれが二つある』」
言ってしまってから美空は苦笑いした。
「ちょっと何言ってんだかわからないけど」
俺は言葉もない。
「私…全然出来なかったね。ずっと父を困らせて、結局自分の好きな道に進んで」
「馬鹿者…」
俺は美空の頭を軽くはたきかけて、髪飾りを見て手を止めた。
「何よ。せっかく打ち明けたのに」
美空の鼻声が切ない。
俺は顔が上げられず、小さな声で悪態をつく。
「うるさい。化粧が崩れるぞ」
かまわず美空が俺の手を強く握った。
「…たろしゃん、ありがと、たろしゃん、…がばったね」
俺の手の甲が美空の何粒かの滴で濡れた。
そうか。この10年間、俺はずっと美空を守らなきゃ、美空を幸せにしなきゃって思って生きてきたけど。
違ったんだな。
俺の壊れかかった心を救ってくれたのは美空だった。
俺を幸せにしてくれたのは美空と…あの野菜達だったんだな。
…俺と美空が言葉を詰まらせていると、いいタイミングなのか最悪のタイミングなのか、よくわからないが突然ベンチと椰子の木の向こう、ビーチの方向から陽気な声が響いた。
「ミクーッ!オトサーンッ!」
ニコニコ笑って近づいて来たのは花婿姿のイグレシアスだ。
「オトサン、ホンジツハ オヒラガナモ ヨロシク」
何か今さらながら結婚を反対したくなってきた。
「イギー、俺はやっぱりこの結婚には反対だな」
笑いながら言う俺に花婿が肩を竦める。
「オウ」
美空が俺の胸ポケットからハンカチを抜いて自分の瞳を拭き、笑った。
「また始まった、父はもう」
イグレシアスが美空の肩を抱いて言う。
「ミク ダイジョブ。 イチマンカイ ダメデモ マタ オトサンニ オネガイスル」
奴は俺を見てウインクした。
「イチマンイッカイメハ ナニカ カワルカモ」
…こいつ最初から確信犯のドリカムだったんだな。それから美空の肩から手を離せ。
俺のしかめ面を見て、さっきまで泣きべそ顔だった美空がプッと吹き出す。
仕方ない。美空が喜ぶんなら。
俺は立ち上がってイギーの、花婿のほっぺたを両手で挟んだ。
「俺の息子になるイグレシアス、よく聞いたんさい」
イグレシアスが頬をへちゃむくれにした不細工面のまま、幸せそうに頷く。
「ファイ オトサン」
「…美空と俺に出会ってくれてありがとう、イギー」
読んでいただきありがとうございました。
最近自分なりにいろいろ「家族」ということを考えます。
「最終回」ではありますが、来週末までに後日譚を投稿して物語を閉じたいと思っています。
できたらもうしばらくお付き合いください。