その4 鳶に油揚と娘をさらわれる
「おい、いくら何でも多すぎる。馬鹿じゃないのか」
キッチンの小松菜が呆れて手を振り回した。
俺の前には5袋10枚分の油揚を刻んだ山が盛り上がっている。
「うむ」
俺も思わず唸った。いつもこうだ。
「つい張り切りすぎた。久しぶりの娘のリクエストだったしな」
まあ、たかが油揚だ。炒めて盛ればそれほどのボリウムでもあるまい。
それにしても誰かのために作る料理は2ヶ月ぶりくらいか。
「小松菜はサッと茹でたら冷水に漬けろ。前にやっただろが」
覚えが悪いなあと肩を竦めた小松菜がシンクのザルを指さす。
そうだった。色を止めるんだった。
5月の連休に帰省すると連絡メールが入ったのは先週のことだ。
(久しぶりに可愛い娘の顔が見られるよ。うれしいでしょ。ムヒヒ)
何がムヒヒだ。父親をおちょくりやがって。
そう呟きつつ俺は返信を打ち込む。
(大きなお世話だ。で、何が食べたい。気が向いたら作ってやらないこともない)
…で、娘からのリクエストのひとつが『油揚と小松菜の豆板醤炒め』だった。
俺の記憶が確かなら娘に初めて弁当をつくったときに入れたおかずのひとつだ。
だが、これは大失敗だった。
こういう中華系のおかずは冷めると油がくどくて食べにくいのだった。
だが美空は弁当を空にして持ち帰った。
美空は弁当をカラカラ振りながら笑った。
「美味しかったよ。父、頑張ったね」
…偉そうに。
そうとう我慢して全部食べたに違いない。
その夜、俺はそのカラカラという音を何度か反芻し、かつて鈴さんが作ってくれた弁当のことを想った。
その昔、妻が俺に弁当を持たせ始めたのは倹約というより健康管理だった。
悪玉コレステロールやら中性脂肪やら、俺の人間ドックの診断結果は要注意のオンパレードだ。
「あなた、外食を控えてお弁当にしてください」
妻が断固たる口調で俺を睨む。
「いやいや、昼飯を部下と食べるのも重要なコミュニケーションで…む」
妻は人差し指を俺の口に当てて言葉を遮った。
「自分の健康管理も出来ないヒトが管理職とか片腹痛い、フン」
言い返せない俺の頬を今度は両手で挟む。
「タロちゃん、身体を壊してでも頑張らなきゃいけない仕事なんてこの世にひとつもないわ」
「…むぐぐ」
鈴さんが悪戯っぽく、そして可愛らしく微笑んだ。
「むふふ、お昼に私の顔を思い出すがいい!」
鈴さん、じゃあ何で君は身体を壊した。
俺や美空のために頑張りすぎたからじゃないのか。
俺はその時のことを思い出すと少しだけ胸の中が軋んだ。
「主任、落ち着かないっすね。連休前で浮かれてるんですか?」
丸谷が大声でそういうことを言う。
もっとも最近は外の工事のせいで部署の全員が少しだけ大きな声で話す。
丸谷の言葉に課の数人がこちらを向いて笑いを堪えた。
丸谷、こいつ最近調子こいてるな。
とはいえ、本当のことだから言い返せない。
「浮かれて見えるか。ふうん」
俺はあえて丸谷の方を見ないで、窓の外を向く。
向かいのビルが外装工事を始めている。足場組みに数人の鳶職人が忙しそうだ。
「またまたぁ、知ってますよ。溺愛している娘さんが」
丸谷がまた何か要らんことを発言しようとしたちょうどその時、河崎さんが隣の部署から戻ってきた。
丸谷は河崎さんを見ただけでビクリとする。完全にトラウマのようだ。
「売れてるみたいですよ。例の色鉛筆」
河崎さんの言葉に部屋のスタッフから歓声があがる。
「おお」「やったね」「良かった良かった」「俺は最初からイケると思ってた」
最後のエラそーなのが丸谷だ。
このチームで昨年から力を入れて開発していたのは『私だけの色』という特製の色鉛筆セットだ。
似たような伝統色の色鉛筆は前からあったが、これは様々な分野の人間にブレンドしてもらって32色を作った特別製だ。
『藤本八段勝負の将棋駒 萱草木色』
『三人のノーベル賞科学者が力を合わせた青桔梗ダイオード色』
『宇宙飛行士星野さんが作る千年の孤独 烏羽黒』
…などなど。
社内では発売に危惧をする声もあったらしい。実用性の点でどうなんだと。
俺は社内プレゼンで力説した。
「大人向けの文房具に足らないのはファンタジーです。コレクター向け、それから愛する人へのプレゼントとして必ず流行ります」
相方の河崎さんも猛烈プッシュする。
「見てください、このパッケージのデザイン。そして何より美しい中間色のオンパレード。主任みたいな文房具オタクと私のような乙女の心にど真ん中直撃です!」
河崎さんの『乙女』発言で一気に会議場の空気が和んだ。
まあ、俺の力説ほどは大流行していないが、そこそこいい感じで売れているらしい。ホッとした。
明日から数日間の連休だ。美空が帰ってくる。
心配していた色鉛筆も好調のようだ。やれやれというところか。
俺は定時に退社して夕焼けの空を見上げる。
向かいのビルの足場も組み上がったようで、職人達が引き揚げるところだった。
…うん?
何だかどこかで見た顔が。
誰だったか、あの浅黒い顔の職人。あれは…ええと…。
人の良さそうな顔つきなのに、妙な苛立ちと不安を感じさせるあの男。
…などと俺が思っていると、背後から声を掛けられた。
「…澤ちゃん、澤ちゃんてば。どこ見てんの」
河崎さんが退社時の私服で立っていた。
「澤ちゃん、良かったね。あの色鉛筆セット、私も大好き」
河崎さんが俺の近くに肩を並べ、ニコリと笑う。
鳶職人の顔のことなどスッと忘れて、俺も微笑んだ。
「河ちゃんのお陰だよ。ホントにプレゼンで後押ししてくれたからな」
「ふふん、おだてても何も出ないよ」
一緒に歩き出しながら河崎さんが言う。
「私はね、有名人が作った色もいいけど」
「うん?」
「一番好きなのは…」
そう言って空を指さした。
「…」
照れくささと嬉しさが混じって、俺は思わず手を河崎さんに差し出した。
「ありがとう」
すると河崎さんが一瞬黙り込み、それからおずおずと俺の手に自分の手を重ねる。
いつもは見せないような顔に見えて、俺は何だか居心地が悪くなってしまった。
…俺って何か変なことしたかな?
「…というわけなんだ。妙なことの多い帰り道だった」
俺は小松菜の水を切って、それからザクザクと切り揃える。
「ふうん」
小松菜(の妖精)がまたつまらなさそうにペッパーミルに腰掛けた。
「お前、それなあ…」
「うん?」
今度は熱したフライパンにゴマ油と豆板醤を入れて炒める。
「まあ、いいや。お前のそういうとこ、とことんボケナスなのは今に始まったわけじゃないからな」
「何だ、何だ。その物言い。気になるじゃないか」
「そんなことより、豆板醤を焦がすな。風味が悪くなるぞ」
俺は慌ててフライパンを揺らし、菜箸で中身をかき回す。慣れたもんだ。
次に油揚と小松菜を投入して炒め始めた。
いい匂いだ。小松菜の旬は冬だが、炒め物ならこの時期のやつだって充分だ。
何よりほうれん草と違ってアク抜きが要らないのがいい。
小松菜が言う。
「それにしても、元気になったな。美空が出てってしばらくは病人のような顔してたくせに」
…まあな。
黙っているとさらに俺をからかい続ける。
「お前の顔もだいぶアクが抜けた。まあ相変わらず垢抜けちゃいないが」
…大きなお世話だ。
娘がいてもいなくても、それでも明日はやってくる。
美空のいなくなった家で俺はしばらくキッチンに近づかなかったが、生活のリズムを取り戻させてくれたのも、こいつらだった。
シメジが、玉ねぎが、ピーマンが、買った覚えのない野菜までやたらと声を掛けてくる。
「自炊しろ。力一杯自炊して頭の中を真っ白にするんだ」
「集中して包丁を構えろ。それが生活のすべてだと思え」
「フライパンを振るたびに寂しさはアルコールのようにとんでいくのだ」
深いようでほぼ意味不明なことを。
俺はキッチンで自分だけのために自炊するようになった。
寂しさが消えるわけではないが、その作業と習慣は確かに俺の心を整えていった。
何だ…野菜達の言う通りか。
「そろそろ美空が帰ってくる時間だな」
小松菜が自分の腕時計を覗く。それどこで売ってるんだ。
だいぶしんなりした小松菜と油揚が入ったフライパンの縁から醤油と砂糖、それから酢を廻し入れる。
さらにザッザッと振れば、鮮やかな緑と焦げの入った茶色がジャーッと音を立てた。
熱した砂糖醤油の香ばしい匂いや刺激的な酢の香りが立ち上がって出来上がりだ。
「父!ただいま!帰ったよ!」
「おう、お帰り。元気そうだ…な…って。うん?」
玄関に迎えに出た俺は妙な既視感を覚える。
いそいそと玄関へ行く俺。いつものしれっとした笑顔の娘。
…そして。その後ろに誰かの姿。
「もうっ、ダッドには一回会ったことあるでしょ。大丈夫だって」
娘の呼びかけにおずおずと入ってきたのはやっぱり。
「コンバハ、オトサン。イグレシアス イイマス。 オアイデキテ」
それは1年以上前に聞いたよ。
イグレシアスの言葉を遮り、俺はまたもあのセリフを口走る。
「き、君にオトサン、いやお父さんなどと呼ばれる筋合いは」
だがそこで思い出した。そうだ、あの鳶職人…
「どうして君が工事現場で働いていたのだ」
美空がため息をつきながら言った。
「とりあえず中に入っていい?すごくいい匂いがするんだけど」
「そういうことで…」
何故かイグレシアスも一緒に三人で夕食の卓を囲み、美空がいきさつを説明する。
この男、ホセ・イグレシアスはグアムで複数のホテル経営をしている社長の御曹司だ。
3年前、経営と日本語の勉強に来日し、一旦帰国した。
美空と知り合ったのは社会勉強のバイト先、ピザ屋で先輩と後輩としてだ。
…とそこまでは2年前の冬に聞いていた。
イギーの家のホテルは大ピンチに陥った。
コロナ禍で外国人の観光客がさっぱりグアムに来なくなって経営が傾き掛けた。
彼の父親は思い切ってホテルの経営権、ほとんどすべてを外国資本に売り渡した。
まだ倒産寸前というほどではなかったのでそこそこの値段で売れたし、条件をつけたとおり従業員もほとんどそのまま雇ってもらえた。
つまりイギーの家に残ったのはある程度のお金と創業時のペンション一軒ということになったらしい。
父親は息子に指令を出した。
「日本でクールなペンションのリフォームを学んでくること。それと日本人の嫁候補を探してくること」
「…ちょっと待て。いろいろ言いたいことはあるが」
「ハイ、ワタシノパパ ニホンジン ダイスキ。ニホンノホテル メッチャクール」
美空も口を挟む。
「だよね。日本の建築はすごいんだから。ネジの一本一本がね…」
「待てって!そこじゃない」
俺は二人を黙らせる。
「何だ。その嫁探しって」
「えへへ、照れちゃう」
美空が頭をかいた。
「ミクチャン カワイイ。アタマイイ。ウレシイ タノシイ ダイスキ」
お前は黙ってろって。
とにかくイグレシアスは来日し、この街に再びやってきたが美空とはすれ違った。
彼は何故か鳶職のバイトをしながら、現在建築会社でリフォームの基礎を学び始めている。
「トビ オモシロイ。カッコイイ タノシイ ダイス ムギュ」
俺は思わずイギーの頬を両手で挟んだ。
「しばらく黙ってなさい」
美空が喜んだ。
「父がほっぺを挟むのは仲良くなった証拠だよね。うちはそういうルールなんだよ、イギー」
「オウ♡」
イギーも笑った。
知らんぞ、そんなルール。
三人、食後のコーヒーをリビングで飲む。
いったいイグレシアスはいつ帰るつもりなんだ。
「あれ?何?この色鉛筆…可愛い」
美空がテーブルの上の色鉛筆セットを手に取った。
「だろう。俺のチームで作った新製品だ。そこそこ売れてる」
自慢する俺を面白そうに見ながら、美空が箱の蓋を開けた。
イグレシアスも興味津々に覗き込む。
「うわあ、すごい。綺麗」
「オウ スバラシ。ビューティホー」
俺の鼻の穴が膨らむ。
「どれもいい色だろう。基本色は揃えたつもりだから普通に使うことも出来る」
娘が一本を手に取って顔の前まで持ってくる。
「でも…ちょっと使いづらいよ。もったいないもん」
イグレシアスもまじまじとセットを見つめ、一本取りだした。
「オトサン、コレ。ワタシ イチバン」
美空がその鉛筆を見て息を飲んだ。
「父…これって」
俺は娘の彼に問う。
「イグレシアス」
「ハイ オトサン」
「お前はこの色が何で一番好きなんだ」
イグレシアスは説明する。
「ワタシノ フルサトノ ユウヤケ。マダ マッカニ ナルマエノ イロ」
そこまで言って彼は少しだけ恥ずかしそうにした。
「ファミリーデ スゴシタ ウミベヲ オモイダシマス」
それはほんの少し暗めのオレンジに染まった空の色、俺たち家族が合格祈願に通いあった神社の夕焼け空の色だ。…日没後なお明るさが残るマジックアワーの俺が一番好きな『美しい空』の色鉛筆だ。
美空が説明書きを読む。
「『文房具オタクの父が遠くにいる娘を想う茜色』…か」
しばらく黙って鉛筆をあちこちから眺めた後、美空が言う。
「これ…貰って帰ってもいい?」
俺は引き出しの筆入れからその『茜色』の予備をもう一本出した。
それをイギーに手渡して、美空と二人を交互に見た。
「…ふふん、これで離れていても俺の顔を思い出すがいい」
読んでいただきありがとうございました。
次回最終回のつもりですが、後日譚みたいのをその後にくっつけます。
つまりあと二話おつきあいいただけたら嬉しいです。