その3 昔アラブの偉いお坊さんが春キャベツを和えて
「コーヒー占いをやってあげよう」
河崎さんが俺のデスクの横に立ち、空のコーヒーカップにソーサーをかぶせてひっくり返す。
「澤ちゃん、ここのとこ出社も遅れ気味だし、疲れてんじゃないの?また心配事でしょ」
「心配事もないし、占いも頼んでいないよ」と言えればいいのだけれど、何しろ河崎さんはこの課の権力者の一人だ。
さらに河崎さんは小声で俺に呟いた。
「お腹でも痛いんじゃない?顔色も良くない」
俺は固い笑顔を作って彼女の顔を見る。
「…コーヒー占い…それは…何だか楽しそうだね」
よせばいいのに、横から口を出したのは丸谷だ。
「河崎さん、主任はそういうの興味ないタイプッスよ。占いとか必勝祈願とか迷信とか。ねっ、ねっ」
案の定、河崎さんが丸谷を横目で睨むと丸谷が軽く飛び上がって、後ずさるように遠ざかっていった。
俺は丸谷の「ねっ、ねってば。主任」を黙殺した。
すまん、丸谷。課の平和のためにお前の味方は出来ない。
そこまでの流れも一切合切無視して河崎さんがカップの底を撫ぜ始めた。
「ナムナム、家内安全商売繁盛」
コーヒー占いってそういうもんなのか。
彼女が皿を開ける。
もちろん気にするのも馬鹿馬鹿しいのだが、ついつい覗いてしまう。
カップ内の模様を見るんだったか。
コーヒーの茶色の染みはどこにも流れず底に固まったままだ。
「む…」
河崎さんの小さなうなり声に俺は敏感に反応する。
「な、何だ。いい感じなのか?不吉な方なのか?」
河崎さんは俺の狼狽えた顔を面白そうに眺めた。
前日の夜、俺はキャベツを使って何か作ろうと、とりあえずざく切りに刻んでいた。
(何だ、出てこないな)
キャベツが立ち上がるのかと構えていたのに肩透かしだ。
(何か酒の肴みたいなのが作れるといいんだが)
さて、どうしようとボール一杯、一玉分のキャベツを前に考え込む。
たいがいこの辺でキッチンの野菜が何かアドバイスをくれるはずなんだが。
まあいいや…俺はまずコーヒーを煎れて落ち着こうと、ミルを手に取った。
袋からコーヒー豆をスプーン二杯分取り出す。
(そうだった。このミルも美空が直したんだった)
俺はハンドルのネジをまじまじと見つめた。
「お前が胃を痛くするほど心配したって仕方ないだろう」
突然聞こえた声に俺はビックリしてコーヒーミルを取り落とし、足の甲にぶつける。
「ぎゃっ」
「ワハハハハ、相変わらず不細工な奴だな」
「まったく、不器用だ」
「まあ、そこがいいとこだけどな」
「そういやそうだ」
何だいったい。この複数の声。
うずくまった俺が見上げると、小さなコーヒー豆が10粒ほど立ち上がってキッチンカウンターから俺を見下ろして笑っている。
今までで一番腹が立つ。
「何でこんな団体で出てくるんだ」
「原因不明だ」
「知らんがな」
「知るか、小心者」
「ぷっ」
俺は足の甲をさすってピョンピョン跳ねながら、豆達に文句を言う。
「いくら優秀な美空だってK工業大学は難関だ。心配するのは当然だろう」
「美空はしっかりしてる。大丈夫だ」
「そうだ。ダイジョブだ」
「♪ダイジョーブだぁ」
「ぷっ」「うぷっ」「うひょひょ」
むかつくなぁ。
いつもの料理指南が始まる。
「おい、春キャベツはせっかく柔らかいんだから生でいけ。そうだな…塩とごま油とポン酢で揉み込め」
「うむ、それがいい」
「赤唐辛子があるとなおいいぞ」
「揉み込むだけだからお前でも出来る」
「ワハハハ、これくらいの料理で苦戦する男が美空の心配とは」
「片腹痛いとはこのことだな」
「ホントに痛くなってるし、ギャハハハハ」
…もはや只の悪口だ。
「河崎さんの優しさを見習えよ、お前ら」
「…!」
笑って俺をけなしていた十粒のコーヒー豆がピタリと動きを止めた。
「誰だ、その河崎さんて」
「前も話したことがあるだろう。俺の会社の頼りになるパートナーの女性だ」
「…パートナー」
「パートナーだと」
「女か」
「へえ」「ほお」「ふうん」
何だか反応が芳しくないな。
「まあ、いいや。塩とごま油とポン酢だな」
俺がシンクの下を開けてごま油と取り出そうとかがむと、ガヤガヤしていた豆達がバラバラ背中に降りてくる。
「おい。どんな風に優しかったんだ」
コーヒー豆その一が俺の右肩に乗り、耳元で話しかける。
コーヒー豆その二も左肩に飛び乗った。
「そうだ。コーヒー占いって何だ」
俺が答えるその前に他の豆達が口々に喋る。
「それより、塩昆布があったら、その方がいいぞ」
「そうだ、そこにある」
「ちょっと女性に優しくされるとすぐその気になるんだ、こいつ」
「コーヒー占いなんて聞いたことないな」
「売らないってことか」
「ワハハハ、売るだろ。豆くらい」
「何の話だ。白ゴマも用意しとけ」
それぞれバラバラに話すので頭が痛くなってくる。
「何だ、お前ら。何を言いたいのか解らん。一斉に喋るな」
とにもかくにも俺は会社での出来事を話しながら、『春キャベツのゴマ和え』を作る。
といってもざく切りの春キャベツに塩昆布とごま油とポン酢を一回しして、よく揉み込むだけだ。
「…で、その占いの結果は『信じるべし。必ず春は来る』っていうんだ。…えっと白ゴマは最後にパラパラッとでいいのか。多分河崎さんは俺を気遣ってだな」
「そうだ、パラパラだ。ごま油と一緒に和えてしまうのもいいぞ」
「お前、占いとか信じないくせに、何で河崎さんにはデレデレしてんだ、おい」
「美空のことはどうなったんだ」
「そうだ、そうだ」
美空の大学合格発表は明日だ。こいつらの言うとおり、俺が今さら心配したって仕方ないことはわかっちゃいるんだ。
だがしかし…美空が帰ってくる前にちょっと行ってこないと。
文房具開発の仕事に転職してから4年後、つまり15年前に俺も試験を受けた。美空がまだ3歳の頃だ。
とあるソフトウェアのクリエイター能力検定を受検した。
会社からの指示で開発チームのリーダーとなるために取得することとなった。
もうじき40歳、文系の俺にはかなりハードルの高い挑戦だった。
「ちょっと出かけてくる。留守番しててね」
夕方、美空と手をつないで出かけようとする妻に俺は声をかける。
「おいおい、何で最近二人この時間に散歩に行くんだ」
妻は美空と顔を見合わせて、ついでに声も合わせた。
「べっつに~」
キャハハハと二人で笑い合うのが両方とも可愛い。
いや、そうじゃなくて怪しいな。
そういや、保育園に送っていく時間も少しだけ早めになってる。
めでたく俺は合格することが出来たけれど、二人が毎朝晩近所の神社へお参りしていたのを知ったのはその後だった。
会社の帰りに偶然通りかかった神社の参道に二人の姿を見つける。
「お礼参りをしていたの」
「そ、オレーまいりなの」
合格はめでたかったが、二人のいろんな気遣いが全然見えなかった俺の頭の方がまったくおめでたい。
何も言えずに鳥居の前で二人を見る俺に右から妻が、左の腰に美空が抱きついてくれた。
「タロちゃん、頑張ったね」
「たろしゃん、がばったね」
…別にそれで神仏を信じるようになったわけじゃないけども。
合格発表の日正午まで、俺は普段ならしないミスを連発して河崎さんや丸谷やその他の同僚を呆れさせた。
「主任、もう有給とってお帰りになったほうが…」
丸谷ごときにいわれて腹が立つ。
その時スマホが振動する。
美空からのメールだ。
(美しき空にネジの花が咲く)
…何じゃ、こりゃ。
受かったのか?
俺は念のため返信を入れた。
(つまり合格でいいのか)
すぐに返事が来る。
(誰がどう読み取ってもそうでしょう、父。頭悪っ)
丸谷が不思議そうな顔で俺を眺めている。
「主任、嬉しそうな、怒ってるような、それと寂しそうなのが混ざった顔ですが…」
こいつ、変なとこに鋭いな。
河崎さんが丸谷の腕を肘で小突いた。
「あんた、いつの間にそんな鋭くなった」
夕方、俺は神社にいた。
お礼参りというやつだ。
坂道を昇りながら考える。
今夜あいつに何を食べさせてやろうか?外食かな?
いや、やっぱりせっかくだから手料理を。
嬉しいだろうな。当然だ。頑張ったもんな。
俺はちゃんと嬉しい顔ができるかな。
父親だぞ、俺は。ここは当然ビシッときめなくちゃな。
…何をだ。
春から俺の暮らしはどうなるんだろう。
せっかくの料理は誰が食べてくれるんだろう。
なあ、鈴さん。
もうあの娘が家を出て行くんだ。早いなあ。
境内の手水場に夕陽が射している。
会社も早上がりしてきたので、この時刻ならだいぶ明るい。
拝殿前に誰かが立っている。
すぐわかった。
美空だ。
「父、お帰り」
高校に合格の報告をしてきた帰りだという。
制服姿でいつもの大きなリュックを背負っている。
「どうしてわかった。ここに俺が来ること」
俺は照れくさくて少し乱暴な言い方になる。
しまった、先に「合格おめでとう」だった。
「ずっとずっと朝晩お参りしてるの、私が気づいてないとでも」
美空はニヤリと笑う。
「お礼参りに来るかなって」
「覚えているのか」
何のこととも言わないが、ちゃんと娘は三歳の出来事を記憶している。
「もちろん」
美空が俺の胸に頭を埋めた。
「タロちゃん、ありがとう」
先に言うな。俺が「おめでとう」って言ってからだろ。
俺は父親として…威厳を持って…しっかりと。
「…みぐ、……がばっだな」
読んでいただいてありがとうございます。
ファンタジー色の強い物語に持って行こうとしては、ついつい自分の体験の部分が先走ります。
だいたいプロットでは4~5話に収めようと考えていたのですが、イグレシアス君の話がまだオチがついていないので、全6話くらいになりそうです。
よろしければお付き合いください。