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愛菜物語  作者: jima
2/6

その2 ぜんまい巻いて逆ねじを食わす

「主任、美味しそうな弁当ですね。愛妻弁当ってやつすか?」

部下の丸谷(まるたに)が俺の弁当を覗き込み人の良さそうな笑顔を浮かべた。


俺は言葉を詰まらせた。そう見えるか。俺も上達したもんだ。


「おや、それはゼンマイのお浸し、渋いっすねえ。奥さん、料理上手なんですねぇ、羨ましい」

奴は俺が照れていると思ったらしく、意外としつこく弁当の中身について分析まで始めた。


さて何と言って説明するか。ちょっと面倒だ。


…と思ったら、二つ離れた席の河崎さんが丸谷を睨みつけて低い声を出した。

「ちょっと、丸谷。こっちおいで」


「えっ?な、一体何を。…ボク、何かしました?」

勤続18年、ある意味この部署で誰よりも権力者である河崎華子(かわさきはなこ)さんが丸谷の背広の襟を掴んで廊下に引きずっていった。

「何で?何で?」


「うるさい。黙ってこっちに来なさい」


可哀想に。丸谷が涙目だ。河崎さんもそんなに神経質にならなくてもいいのだが。

丸谷は悪気ではないし、俺も妻を亡くしてすでに3年が過ぎている。

入社2年目の丸谷が知らないのは仕方ない。


川崎さんは女性社員の間で「お(つぼね)さま」扱いをされているヒトだが仕事は確かだし、なにしろ同僚や後輩への面倒見がいい。

俺が信頼を置いている分だけ彼女もそれに応えてくれている部署内での強力な相棒だ。


廊下で「厳重注意!」という河崎さんの声とそのすぐ後に丸谷の「…はいぃぃ」という細い悲鳴のような返事が聞こえてきた。






「主任、知らぬこととはいえ、大変な失礼を」

終業後に丸谷が恐る恐るという顔の長身をかがめながら寄ってきた。


「気にしなくていいよ。河崎さんはああいう人だから俺が困ってると思って気を遣ってくれたんだろう。ありがたいことだけど、俺は気にしてない。大丈夫だ」

俺は帰り仕度をしながら手を振る。今夜は娘と珍しく外食をするつもりだ。


「それでも何というか…無神経で申し訳なくて」


丸谷は真面目でいい奴なんだな、つまり。


俺が何度か「気にするな」と繰り返してから廊下へ出ると、河崎さんが待ち構えていた。

「澤ちゃん、何かあった?」


俺は面食らってどもりながら答える。

「な、何にもないよ。俺…変か?」


「元気がない。いつも大して元気じゃないけど、今日はその通常のさらに一割減で」


「…誤差の範囲だ。でもありがとさん。昼のことも、俺の調子を気に留めてくれてるのも」


俺が苦笑すると、河崎さんが面白く無さそうに肩をすくめた。

「ま、いいけどね。何でも言うんだよ。溜め込むんじゃないよ」


会社の玄関で俺は後ろを振り返る。

…鋭いなあ、彼女は。







昨夜のことだ。


「だから、あいつは絶対遠慮してると思うぞ」

山菜のゼンマイがペッパーミルの上で脚を組み替えながら言った。山菜のくせに。


「俺に何を遠慮してるって言うんだ。いいじゃないか、隣の市の大学が第一志望で何がいけないんだ」

俺は軽く茹でたゼンマイをザルにあけながら、そっちの喋るゼンマイを睨んだ。


あの『イグレシアス先輩の夜』から2ヶ月、もうじき春がやって来る。

イギーは故郷のグアムに帰っていき、その後も美空(みく)はせっせとメールのやり取りをしているようだが、いくら何でも遠距離過ぎる。不憫だがこの恋は成就するまい。きっとそうだ、ザマミロ。




先週末、進路希望調査の紙がリビングのテーブル上にあった。

「近い大学に家から通うよ。特別やりたいこともないし」


俺はコーヒーミルのハンドルををゴリゴリ廻す。

「そんな理由でいいのか。もっとよく考えた方が」


美空は俺と眼を合わさない。

ソファに寝転がったまま、映画雑誌を眺めている。

「大学でやりたいことを探すのもいいって、前に(ちち)も言ってたでしょ」


美空の言葉に俺はふうんと内心胸をなで下ろす。

まだまだ子供だ。俺が見守ってやらないと。






ゼンマイはグルグル巻いた頭を傾けた。

「そんなわけないだろう。あの好奇心の(かたまり)の美空だぞ。おっと…食べやすい大きさに切るといい。ああ、弁当に持ってくんならもっと小さめに…そうだ」


「そうだな、半分は弁当のおかずにしよう。年を取るとこういうのが美味い」

俺は半分は大きめ、もう半分を小さめの一口大に刻む。


「美空は我慢してる。お前だってわかってるだろ」

ゼンマイがウロウロとまな板の周辺を歩く。


「…あのゼンマイの本のことか」

俺は年末年始に何回か見た妙な専門書のことを思い出す。


ゼンマイが俺をビシッと指さす。

「ゼンマイじゃない、ネジだ。お前、自分が美空のこと見守ってやるとか思ってるだろ。逆だぞ、美空はお前が心配でここを離れられないんじゃないのか」


ゼンマイに指さされるとは不本意だが、そう言われると何だか不安になってきた。

ショウガをガシガシとすりおろし始めた俺の身体は作業の性質と精神状態の両方を反映して小刻みに揺れる。

「…」


「おい、どれだけショウガをすりおろすんだ」


ゼンマイの指摘に俺は舌打ちする。

「一本丸々やっちまった。冷凍できるのかな…。なあ、ゼンマイ、あのネジの本は何だったのかな」


「ゼンマイの俺にわかるはずもないだろう。さあ、後はカツオブシとショウガを上にのっけて、白だしをかけろ。それで完成だ」

エラそーに説教しておいて、最終的にゼンマイのフリしやがって…ってゼンマイなのか。


「何だよ、偉そうに。…で、白だしってなんだ」






冬休みの終わりに美空がリビングのテーブル下に忘れていったのは見たこともない本だった。

俺は新聞を片付け、雑誌をまとめながら表紙をしみじみ眺める。

『世界を変え、支えるネジの世界』


「なんだいこりゃ」

美空の暢気そうな丸顔に結びつかない妙なタイトルだ。

何かの比喩で「ネジ」が使われているのかと思ったが、本当にあの工学的なネジの専門書だった。

『Y工業大学教授 恩田海造著』


それで俺は思い出す。

この間美空と書店に行ったとき、彼女が立ち読みしていたのはこの大学の赤本だった。

俺が後ろから覗き込むと慌てて棚に戻したが。


だから…まあ、わかってるんだ。


…グアムの先輩の次はネジの専門家か。

俺から美空を奪っていこうとする奴はどうしてこうも癖の強い奴ばかりなんだ。






「だが、美空が工業大学に行きたいなんて一度も聞いたことはない。俺の家系には珍しい理系の人間だとは思っていたが…それにしても、いくら何でもニッチすぎるだろう、その分野」


フフンとゼンマイが鼻で笑った。

「お前の眼はいつだって節穴だからな」


「…」

また食材から説教されている。今夜は山菜に鼻で笑われて。


「お前の愛用のコーヒーミルも俺が座ってるペッパーミルも一度壊れただろう。覚えてるか?」


「ああ、いつの間にか直ってたな」

俺はゼンマイをつまんでペッパーミルからどかした。


「勝手に直ると思ってんのか?」

今度はコーヒーミルに飛び移ったゼンマイが呆れた声を出す。


「どういうことだ?…ん?ネジ?まさか美空か?」


「お前のホントの幸せをよく考えろ。美空がずっとお前の側にいることか?そうなのか?」

ゼンマイだから表情はわからないが、どうやら真剣な視線らしい。


俺は一度天井を見てから声を絞り出した。

「決まってるだろう。俺の幸せは…」






さらに時は遡る。


三十代の半ば、俺は悩みに悩んでいた。

何とか証券会社で自分の居場所を確保し、結婚したての妻のお腹には美空がいた。


そんなとき、大学の時親しくしていた先輩から誘いがあった。

自分の勤めている会社に来ないか、という。

その文房具の開発をする仕事は俺の夢だった。


だが、俺は返事を保留していた。

収入が半分近く減少する。もうじき子供も生まれてくる。


夕食後、俺はソファに座り、浮かない顔でコーヒーを飲んでいた。

読みもしない雑誌を開きつつ。


俺の横に妻がドスンと座る。

「何を悩んでいるんですか?うん?ほれ、言ったんさい」


「いや、ごめん。そんな顔だったか」


「そんな顔でしたよ。こんなこんな」

妻が思いきり顔をしかめて眉間に皺を寄せた。

「だいたいあなた、映画なんて興味ないじゃない」


俺ははじめてその雑誌が妻の好きな映画の情報誌だったと気がついた。

「うむむ」


「それからあなたは私に言いたいけど言えない…みたいなことがあると鼻をピクリと震わせるわ。こんな風に」

それから彼女は何だか顔面に力を入れたり、顔を赤くしていたがすぐ諦めた。

「…うまく出来ないけど、何か誤魔化すときは鼻の穴が膨れるの、タロちゃんは」


彼女にはかなわない。俺は全部打ち明けた。



全部聞いてから彼女は俺の目をじっと覗き込んだ。

それから笑って俺の背中に手を回し、グリグリと指先をこねる。

「ほれほれ」


「何だい、いったい」

俺も思わず笑ってしまう。


「あなたのネジを回してあげてるの」

彼女は背中から指を離して、両手で俺の左手を包んだ。

「決まってるでしょう。私の幸せはあなたが本当にやりたいことをやって笑っていることよ」


「…鈴ちゃん」


「大丈夫。何とかなるわ。この子も」

妻は俺の手をそっと自分のお腹に当てた。

「笑っているあなたが好きよ」


「鈴ちゃん、ありがとう」

俺は顔をあげて妻を見る。


妻が微笑む。

「やりたいことをやったんさい。タロちゃん」







「何よ、父。突然」

美空が驚愕の表情で後ずさる。

俺は彼女の通う高校の正門で待ち伏せしていたのだ。


「何?なに?ミッキーパパ?」

「噂の(ちち)さん?文房具オタクの」

両脇の女友達が笑った。俺はどう噂されてるのか。


「話があるんだ。会社から直接来た。たまには外で食べよう、ミッキー」

俺はミッキーフレンドにニコリと笑ってウィンクしてみた。

娘を除いて女の子達が爆笑する。美空は苦虫を噛みつぶしたような顔だ。







「まったく。明日友達に何を言われるか。いや、今頃グループラインで父の噂が駆け巡っているわね。悪夢のようだわ」

ファミレスのテーブルについても美空の愚痴が止まらない。


「まあ、そう言うな。好きなもの食べな」


「当たり前でしょ。久しぶりの外食だもん。ファミレスだけどね」

美空が周りを見渡す。

「父はまあ、よくやったわよ。独学で炊事をマスターしたんだから」


一応お褒めの言葉だ。まあ、トマトとか茄子とか妙な連中の助けがあったことは内緒だな。



美空が『ミックスフライ&ハンバーグ大満足セット』という聞いただけで胸やけがしそうなメニューを頼んだ後、俺をじっと見る。

「で、何なの?イギー先輩のこと?私のラブは変わらないわよ」


「…そのことは置いといて」


「置いとかないで。今からイグレシアスのいいところを百個言うから聞いたんさい」

美空が指を一本ずつ折り始める。

「まず、優しいところ、それから顔の彫りが深い、努力家、家が金持ち、面倒見がいい、あと…ええと家が金持ち、それから」


「わかった。何か繰り返しに多少引っかかるところもあったけど、その話は今度にしませんか、(むすめ)

俺は自分のオニオングラタンスープをパネルで注文しつつ娘の言葉を遮った。




ようやく俺は切り出すことが出来た。

「なあ、進路のことなんだけど」


美空はピクリと鼻を動かした。小さな鼻の穴が膨らんでいる。

「この前、話した通りよ。近くに大学があるんだから都合がいいじゃない」


「K工業大学は」


美空の鼻の穴がまたピクリと動く。

「あれは、その、趣味よ。ちょっと調べただけ。地元の大学に行く」


「あのコーヒーミルは俺が親爺から貰ったんだ」


美空が眼を丸くして瞬かせる。

「な、何よ。急に。それがいったい…」


「海外製でハンドルにはスリムヘッドスクリューのネジが使われている」


「…」


「あのネジを締め直すには特殊なT型トルクスドライバーが必要だ。そんなもの持ってる女子高生なんて聞いたことがない」


ハアと美空がため息をついて少しだけ微笑む。

「よく調べたね、父。確かに私はネジが好きなネジマニア…だけど、それと大学進学は別よ」


あらためて本人の口から聞くとすげえ変人だな、俺の娘。何だ『ネジマニア』って。

「K工業大学の恩田教授は世界的なネジのスペシャリストと聞いた」


美空が眼をそらしてすくっと立ち上がる。

「ち、ちょっとお手洗いに。その、つまり厠、トイレ」






美空が席を立って足早にトイレに行くのを眺めてから、俺もハアとため息をついた。


「おまたせしました」

そこにウェイトレスが注文の『ミックスフライ&ハンバーグ大満足セット』と『オニオングラタンスープ』を持ってきて、俺の前に大量の盛り合わせが乗った鉄板を置こうとした。


「あっ、そっちはあっちで、そのグラタンスープが私で」


「そ、それは失礼しました」

ウェイトレスが慌てて皿を置き直した。まあ、女子高生がバクバク食べそうなセットの内容ではないな。


…そうなんだ。俺っていつもそうやって決めつける。

鈴さんとのデートはやっぱり当然恋愛ロマンス、美空はあんな可愛らしい顔なんだから文系で小食で、イグレシアスはバイト先の女子高生に手を出す悪党だ。


でも実は妻はバイオレンス映画が大好きだった。

美空は大食いでネジの好きな変人だ。

イギーは実はいい奴…かもしれないがそれはこの際どうでもいい。



「ふふん、お前も少しは成長したじゃないか」


その声がオニオングラタンスープの中からだとわかって、さすがに慣れてきた俺でも目眩がする気分だった。

昨夜のゼンマイがスープの中からゆっくりと顔だけ浮かび上がらせた。


「どうだ。カーツ大佐みたいだろう」


俺は得意そうなゼンマイに呆れた。

「どこのタイサだか知らないが、我が家のキッチンからこんなところまで出張できるようになったのか」


「大切なとこだからな」

奴が全身を浮かばせてカップの縁に腰掛ける。


俺は周囲を気にしつつ問いかける。

「なあ、美空の本音はどうなんだろう。実はやっぱり俺の側に」


「まだそう思っていたいのか。もう一回聞く。お前は美空を幸せにしたいのか、それとも娘に自分を幸せにしてほしいのか、どっちだ」

ゼンマイが前髪のグルグルを片手でグリッとなでた。


「…そうだったな」


ゼンマイがチラリと俺の背後を見た。

「美空が戻って来た。頑張れ」

そう言ってスープにゆっくり沈んでいく。右手をサムズアップさせて。

「アイルビーバック」


…ゼンマイのくせに。




「とにかく」

美空が俺を睨みつけながら、ハンバーグを口に放り込む。

「モグモグ私は隣町のR女子大へモグ行きます。家からモグ通えるしモグモグ」


「美空」

俺はできるだけ静かな顔と静かな声の調子で彼女を真っ直ぐ見た。


「…はい」


「手を出せ」


「…?」


「いいから手の平をこっちに出せ」


娘が怪訝な顔で俺に手を差し出した。

俺は娘の掌の上に俺の指先を乗せ、いつか妻にやられたようにグリグリと廻す。


「何なの?くすぐったいよ」


美空が手を引っ込めようとするが、俺は離さない。

「お前のネジを巻いてやってるんだ」


美空がハッとした顔をする。

「母さん…」


俺は笑った。

「俺もお前もこんなふうに背中を押されてたのかもな」


美空の眼が潤んでいるのを見て、俺だって泣きそうだ。

でもこれは俺の…父親としての責任だ。

「俺の幸せはお前が好きなことを頑張って、笑顔でいることだ」


「…タロちゃん」


俺は美空の手を両手で包んだ。

「母さんだってきっとそう言う」


美空はもう手を引っ込めようとしない。

「だって、だって…父さん、一人になっちゃうじゃん」


「全然大丈夫だ。俺は炊事だって簡単にマスターした…出来る男だ」

チラリとスープを見ると、またサムズアップの手だけが浮かんできた。


美空の大粒の涙が胸に痛い。でも最後まで頑張れ、俺。


「やりたいことをやったんさい、ミッキー」





読んでいただきありがとうございました。

私にしては少し間が開きました。

次回も週末に投稿できればと思ってます。

できたらお付き合いください。

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